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猫とのお別れ

ずっと病気だった高齢の猫ちゃんが3月1日から立てなくなって、3月3日にこの世を去った。

去年の11月くらいから、色んな所に粗相するようになって、オムツをするようになって、でも食欲がものすごくあったから、これからもしばらく介護は続いていくと思っていたのに。

あっという間だった。

オムツがたくさん余ってるのに、ホームセンターに行くと「オムツコーナーに行かなくちゃ」と思う。
もう使う猫はいないのに。

3月2日の夕方から、金魚のように口をパクパクさせるようになって、最初私は喉が乾いているのかと、シリンジで水をあげてみたけど、飲み込まなかった。
それで、「あ、これはもう。あとは心臓が止まるのを待つだけの時間なのだ」と悟った。
瞳孔も完全に開いていて、時折前足をバタバタとさせるので、苦しいのではないか、抱っこしてほしいのかと、抱っこしてみたり、体制を変えてみたりしていたけど、おそらくこの時にはもう、意識はほとんど無くなっていたのだと思う。

人間も、死期が迫り、意識が混濁してくると、手足をバタつかせたりするらしい。

口をパクパクさせる姿は、とても苦しそうに見えたけど、この世で苦しそうに見える最期の時、本人は実は苦しくはないんだという、医学的なのかオカルト的なのかよく分からない知識が、
「苦しそうだけど、苦しくないんだ」
と泣きながら自分に言い聞かせるのに役に立った。

もうあと数時間なのだろうな、と思っていたけど、次の日の朝まで呼吸は続いた。

呼吸が止まっているのを確認した時「あーよかったね、これでもう苦しくないね、本当によかったね」と泣きながら猫を撫で続けた。

亡くなってすぐは、なぜかものすごい達成感があった。
時間をかけて準備したプロジェクトが大成功を納めたような気分だった。
やりきったと感じていた。
自分にできることは全てやった、と思っていた。

だけど日が経つにつれて、あれもできなかった、これもしてあげられなかった、と足りないものばかりが頭に浮かぶ。

結局何もしてあげられなかったんじゃないか、とすら思う。

ひとつの命がこの世から消えるということ、それはものすごい喪失だ。

私はあと6回これを繰り返す。

どうか残りの猫たちは苦しまずにぽっくり逝きますようにと願ったこともあった。
だけど、いつ、どんなふうに逝くかなんて、私が決められることではない。
猫たちそれぞれに計画があるのだろうから、私はそれをひたすら眺めるだけなのだ。

亡くなった猫ちゃんに「ごめんね」と話しかけると「ごめんねじゃなくて、ありがとう、だよ」と返ってくるから、ごめんねじゃなくて、ありがとうと言い続けていこうと思う。

私を愛してくれてありがとう。
私はあなたの愛に応えられていたのだろうか。
この自問自答は続けながらも、ありがとうと言い続けていく。



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