津村喬先生との思い出。
津村喬先生が亡くなられた。
津村先生は日本の気功文化の草分け的存在で様々な気功の書物を出版され、NHKの「気功教室」の講師も務めていた。
整体&ヨガの師匠であった岡島瑞徳先生と津村先生は親交があった。というかお二人は親友であり同士であった。学生運動が盛んな頃、津村喬と言うのは論客で有名な人物。岡島先生は津村先生を訪ね親交深める。
あさま山荘事件が起き、学生運動が下火になっていき、夢破れた運動家たちはそれぞれいろんな方向に進んでいく。
津村先生は気功、岡島先生はヨガと言う道を選びその道の探求に入っていった。
お二人が思想と言う過程から、体作りと言う方向に向かったのは非常に興味深い。
内田樹先生、三枝誠先生が合気道と言う道を見出したのも頭だけではなく体を鍛える、つまり身を修める、修行と言う過程が必要だと悟られたの同じ理由であろう。
岡島先生に野口晴哉先生を紹介したのは津村先生だった。すごい人がいるらしいと2人で活元会に出かける。
岡島先生は野口先生に出会ってから虜になり整体の道を突き進むことになる。
当時伝説の神田道場があった。そこには岡島先生を中心に津村先生、甲野善紀先生、星野稔先生といった面々が集まっていた(私は星野先生とは面識がなかったが、星野先生も先日亡くなられたと聞いた。合掌)
ところが、この神田道場は分裂、津村先生と岡島先生は袂を分けられる。
それから数年。私は岡島先生が津村先生と再会して再び一緒に活動を始められる頃に津村先生と初めてお会いする。
岡島先生も再会2度目くらいだったと思う。先生たちと都内の大浴場に行き、お風呂に入った。
お湯の滝があり、津村先生は湯にあたりながら何やら唱えられていたのが印象に残っている。
これを機に津村先生は私は一緒に活動を始める。壱岐坂ボディスペースの立ち上げた。オープニングは津村先生、岡島先生
、太極拳の出口衆太郎先生、新体道の青木宏之先生が集まった。
他にも新しいラジオ体操づくり、天河合宿。「脈脈」という津村先生の気功会報誌の執筆など行った。そこで動体学について書かせていただいた。
この脈脈を「秘伝誌」BAB出版の東口社長が読まれて「秘伝」に執筆されませんか」というお話しをいただいた。
秘伝掲載が「日本人力」の発売につながる。
そして「秘伝」誌を見た筑摩書房の編集者から本の執筆の話しがきた。
それが「健康になる整体武術」
他にも元秘伝編集者の紹介で経済界という出版社からも依頼がきた。できたあがったのが「身体操作術」
一度に三社から依頼され(つまり600ページ以上を書かなくてはならない)私は途方に暮れてしまい津村先生に相談した。
「智聖さんは話が面白いのだから、それをそのまま本にすればいいよ」とアドバイスを頂いた。
なんだそうか、と単純な私は録音した自分の話しをテープ起こししたりして執筆を進めていった。実際には色々な思考錯誤しながら執筆したが、津村先生のアドバイスは煮詰まっている私の心に風を通してくれた。
壱岐坂ボディスペースは中野に拠点を移したが、なかなか上手くいかず、立ち切れてしまった。
津村先生も滋賀、私も伊豆に越し、会う機会が減っていった。それでも岡島先生が津村先生のカラダを大阪で整体されているというお話しを聞いていたりした。岡島先生が亡くなられてから津村先生も入退院を繰り返されていたようだ。
4年前に松村サナータンさんが津村先生と会いませんかと間を取ってくださり久しぶりにお会いした。
写真はその時のもの。
亡くなる前日に偶然にも松村さんと津村先生の話しをしていた。
また、お会いできたらなと思っていたが・・・
今年は岡島瑞徳先生の十三回忌の年だ。
津村先生、星野稔先生も天国で再会されたのだろうか。
津村喬先生
色々とありがとうございました。
本当にお世話になりました。
御冥福をお祈りします。
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