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「神君大高城兵糧入れ」の謎

「桶狭間の戦い」には謎が多いのですが、その1つに「神君大高城兵糧入れ」の謎があります。

疑問①:なぜ大高城のみに兵糧を入れたのか? 鳴海城は大丈夫なのか?
疑問②:なぜ前夜に兵糧を入れ、翌朝に砦を落としたのか?

回答①:鳴海城は、そもそも山口教吉(織田方)の城でした。織田信秀が病死し、跡を継いだ織田信長に不安感を感じた山口教継は、息子・山口教吉と共に今川方に寝返ったのです。その後、岡部元信(今川方)が鳴海城に入りました。領民は「城主(領主)が山口氏(今川方)から岡部氏(今川方)に替わっただけ」として、鳴海城へ年貢米を納めたそうです。
 これに対して大高城は、大高水野氏(織田方)の城でした。城主が水野氏(織田方)から鵜殿氏(今川方)に替わったので、領民は大高城へ年貢米を納めなかったそうです。
 ようするに、岡部元信は鳴海村の鳴海城と領知(領地+領民)を得たが、鵜殿長照は大高城だけ得たということです。
 「桶狭間の戦い」で最も得をしたのは水野氏でしょう。戦わずして、大高城にあった大量の兵糧と武器を得たのですから。(本人にしたら「利子を付けて返してもらった」といったところでしょうか。)

回答②:これはよく聞かれる疑問ですね。順序が逆。普通は「兵糧入れを妨害する砦を破壊してから、大高城へ兵糧を入れる」ですね。

1.『信長公記』と『三河物語』で違う大高城兵糧入れ


「大高城へ兵糧を入れてから、兵糧入れを妨害する砦を破壊した」とトンデモナイ事が書いてあるのは太田牛一『信長公記』であり、「天下の御意見番」と言われた大久保彦左衛門忠教の『三河物語』とは異なります。

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