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【私説】「妹妻木」の正体

1次史料に「妹妻木」なる人物が登場し、「妹が妻木氏であるから、兄の明智光秀も妻木氏だ」という。

1.「妹妻木」の出典


『戒和上昔今禄』:天正4年(1576年)から天正5年(1577年)にかけて、一乗院門跡となった尊勢(近衛前久の息子)に戒を授ける役目である戒和上職を巡って、興福寺と東大寺が争った裁判の記録。
戒和上(戒和尚。戒を授ける役目の僧)は古くから東大寺の僧が務めてきたが、最近は興福寺の僧が務めていた。御乳人(おちのひと。近衛家から派遣された尊勢の身の回りの世話をする人)が奔走し、織田信長の耳に入ると、織田信長は、御妻木殿を通じて「近年の有り姿(ありすがた)のままにせよ」と回答し、それを受けた明智光秀は、「最近は興福寺の僧が務めている」として、興福寺勝訴の判決を下した。
「本能寺の変」の黒幕説もある公家・近衛前久の屋敷は、二条御所の隣にあり、明智光秀の屋敷や妹妻木が泊まる女房館も近く、交流があったという。また、明智光秀は公家・原仙仁の娘を側室に迎えたこともあり、公家・近衛前久に雇われていた公家・原氏の御乳人(乳母)が妹妻木に相談し、妹妻木が織田信長に相談したと考えられる。
 下に「妻木」と出てくる文献を書き出してみた。この全てが「妹妻木」に関する記述であるか、明智家家臣の妻木氏に関する記述も含まれているかは定かではない。

空誓(興福寺東金堂)『戒和上昔今禄』
一、則、御乳人へ惟任妹御ツマ木殿ヲ以テ被仰出趣者、此申事近年ノ有姿ニ被申付ヘシト内符サマ御意也。依之、惟任ヘ御チノ人被仰候て、此趣以藤田伝五、筒順へ申付ラルヽ也。証文ノ写ハエテ被遣了。同我免除事モ伝五請取テ惟任へ可被仰由也、廿三日ノ事也。被仰出ハ廿二日ノ事也。

則ち、(織田信長が)御乳人へ、明智光秀の妹・御妻木殿に代弁させた回答は、「近年の有り姿のままに」であった。この織田信長の回答を、御乳人は明智光秀に伝え、明智光秀は、藤田伝五を使者として、筒井順慶へ申しつけた。(ところが空誓が上洛していたこともあり、東大寺が『東大寺要録』を提出したのに対し、興福寺が用意したのは、言い分を箇条書きにした1枚の紙(証文)のみであった。)藤田伝五は証文を受け取り、判決は明智光秀に委ねられた。天正5年(1577年)11月23日のことである。織田信長の回答は22日のことである。

空誓(興福寺東金堂)『戒和上昔今禄』
此時御乳人ノ昨日ノ馬、御馬屋モノ善三郎ト被帰テ、御乳人ハ在京也。子細ハ、若、惟任此方ノ申分非分トテ東大寺ヘ被付ハ、両人、上洛可仕、安土へ今一往御伺アリテ、右府様次第ニアルヘシ。最前爪木殿(坂本ニテハ、客人ト云)、小比丘尼モテ両度被仰出モ、近年ノ筋目トナレハ、不可有相違也。惟任此方理運ニツケラレハ、御迎可上由、筈取テ下処ニ(以下略)

この時、御乳人は、昨日乗った馬は、馬屋の善五郎が帰ってしまったので、(馬が入手できなくて)御乳人は、京に留まらざるを得なかった。「詳細(今後の詳細な活動手順)は、もし、明智光秀が、興福寺を敗訴とし、戒和上を東大寺に依頼した場合は、空誓と御乳人の2人は、上洛して安土城へ行き、織田信長に判決を下していただこう。とはいえ、坂本城に客人として居る妻木殿が(使者の)小比丘尼を通して再度申されるには、「近年の筋目で判断するという方針であるから、興福寺の勝訴は間違いない」という。もし、明智光秀がこの方針で興福寺勝訴の判決を下した場合は、御乳人を御迎えにあがります」と言って、空誓が京都から大和国へ下ったところに、

吉田兼見『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日
祇園繪依右府御見物早天云々。祭礼者如常、於西天王御旅所参神供参勤。妻木所ヘ臺之物、肴色々、双瓶以使者持遣。猪子兵助ヘ遣角豆一折、出頭也。夕立頻、後刻晴。

(織田信長と共に祇園祭の見物に上洛していた)妻木のところへ、大きな台の上に酒の肴を色々と乗せ(台の物:脚のある大きな台に乗せた料理)、酒の入った瓶を2本(双瓶:一対をなす酒徳利)、使者を以って遣わした。

吉田兼見『兼見卿記』天正7年(1579年)1月18日
(前略)妻木在京也。五十疋持参。逗留村作也。直罷向。以遁斎遣祓等也。沼田入道書状到来、先日釜之礼也。則返事。

妻木が京都にいると聞いて、50疋持参した。村井貞勝の子・右衛門尉貞成(明智光秀は、妻木氏の姪を養女にして村井貞成に嫁がせた)の家に滞在していた。

吉田兼見『兼見卿記』天正7年(1579年)4月18日
妻木惟向州妹参宮。神事之義以書状尋来、月水之義也。則答。神龍院ヘ向、晩炊。月斎、元右、侍従及夕聖護院邊遊覧。

妻木(明智光秀の妹)が吉田神社参拝した。参拝に当たり、書状で「(日本の神々は、血を最大の穢として嫌っていると聞いているが)生理中の私が参拝してもよいのだろうか」と尋ねてきたので即答した。

山科言経『言経卿記』天正7年(1579年)5月2日
前右府ヘ罷向了。無對面、粽被出了。次各被帰宅了。今日衆者、菊亭・徳大寺・庭田・持明院・藤黄門・四辻・甘露寺・予・勧修寺・水無瀬・中院・日野・久我・三条・廣橋・竹内・東坊城・水無瀬羽林・冷泉・藤金吾・万里小路・六条・飛鳥井侍従・中御門・五辻左馬助等也。(中略)前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了。老父御逝去。然者、家領無別儀之由申之、冝様躰也。且祝着了。但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了。進物帯、生衣、三スチ進之。其外、近所女房衆・ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯二筋ツヽ遣了。其外カヽ遣了。又、末物共・彼侍共遣了。薄女房衆同道了。

(前右府(織田信長)の上洛時に進物を献上した。織田信長は顔に腫れ物が出来いて、対面はできなかった。)其れ以外にも、近所女房衆の妻木、小比丘尼、御やや等にも帯を2反ずつ遣わした。

吉田兼見『兼見卿記』天正7年(1579年)9月25日
北野ヘ為代官詣安田右近允、惟任姉妻木在京之間罷向、双瓶・食籠持参。他行也。渡女房館皈。向村長、將碁。

明智光秀の姉(「妹」の間違い?)の妻木が京都にいると聞いて、酒瓶2本と酒の肴を入れた籠(食籠:蓋付きの食物を盛る器)を持っていった。外出中であったので、女房館に渡し置いて帰った。(その後、村井貞勝の所に向かい、碁を打った。)

吉田兼見『兼見卿記』天正8年(1580年)1月18日
明日禁裏之爆竹申付在所、各罷出了。惟任日向守へ為礼下向坂本。路次風寒以外也。午刻着津。面会。百疋持参。妻木五十疋、御祓。下向安土。預置奏者。

(明智光秀に面会するために坂本に下った。)面会に100疋持参した。妻木にも50疋持参し、御祓いを行った。

吉田兼見『兼見卿記』天正9年(1581年)5月16日
在所・家中祈念。天度祓百座神人各誦之。近衛殿・細川右京兆遣御祓。妻木依所勞在京。祓。請神龍院之間罷向、侍従・青女同前。

妻木は、所労(病気)により在京。御祓いを行った。

『多聞院日記』天正9年(1581年)8月20日
去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。信長、一段ノキヨシ也。向州、無比類力落也。

去る8月7日、8日の頃であろうか、明智光秀の妹・御妻木が亡くなった。織田信長のお気に入りの女性であった。明智光秀は、この上なく落胆した。

【課題】

①「妹妻木」は明智光秀の実妹か、義妹(妻の妹)か。
②「姉妻木」は「妹妻木」の間違いか、姉妹(2人)いるのか。
③「信長、一段ノキヨシ也」とはどういう意味か。

2.「妹妻木」「信長一段ノキヨシ也」の解釈


①「気好し」:お気に入り(勝俣鎮夫)
②「儀よし」:(永田恭教)
③「御旨(ぎょし)」:手厚い慰めの言葉(桐野作人)
④「凶事(きょじ)」:悪い予感(橋場日月)
⑤「退き由(のきよし)」:距離を置いた(小林正信)

勝俣鎮夫「織田信長とその妻妾」2003
【要旨】「ツマキ」は「妻姫」、「キヨシ」は「気好」で、「ツマ木」は織田信長のお気に入りの側室であったとし、潤滑油役の彼女の死により、明智光秀と織田信長との関係が疎遠になり、「本能寺の変」の遠因となった。
鈴木秀雄「明智光秀と信長の側室「妻木」」2004
信長の特にお気に入りの才媛の側室が死去した。兄の光秀はひどく落胆したとある。比類無き力落としは、単に妹を亡くした悲しみだけの落胆でなく、信長と光秀の主従関係は、妹の死によって(中略)光秀自身が認識して己の将来に比類無き落胆をしたのである。
横山住雄『織田信長の尾張時代』2012
側室の御妻木という女性は、光秀の実の妹というよりは、夫人の妹(妻木氏)と見るのが順当ではなかろうか。妻木郷が信長の影響下に入ったのは早くて永禄8年8月であり、側室の紹介で光秀が信長に仕官したのか、光秀が仕官してから妻の妹を側室にと紹介したのかは、微妙なところである。
谷口研語『明智光秀』「光秀の親族」2014
この女性については、信長の側室とみる意見が多いがどうだろうか。安土城の奥向を束ねるような地位にいたのかもしれない。妻木であるから、光秀との続き柄は、光秀の室の妹であるか、実の妹が妻木氏に嫁いでいたか、そのどちらかだろう。いや、もう1つ可能性がある。あるいは。光秀の本姓は土岐明智氏ではなく、土岐妻木氏だったのかもしれない。「突拍子もないことを……」といわせそうだが、まったく可能性がないわけではないとおもう。
小林正信『明智光秀の乱』2014
ツマキは、吉田神社の神主で公家の吉田兼和(後に兼見に改名)が記した『兼見卿記』により「妻木」であることが確定しています。「ノキヨシ」は、ややむずかしい解釈となりますが、「退き由」のことではないのかと考えられます。「信長一段退き由」とは、「距離を置く」との意と解され、ツマキの死を契機に信長が光秀に対して配慮しなくなり、政治的にも光秀にとっては打撃になったと捉えることができます。
永田恭教「光秀をめぐる知られざる女性たちとは?」2016
「ツマキ」を「妻姫」、「キヨシ」について「気好」と解して、「ツマ木」が信長のお気に入りの側室であったとし、その死により光秀と信長との関係が疎遠になり、本能寺の変の遠因となったとの説がある。「ツマキ」は「妻木」であろうし、「キヨシ」を「気好」と解して信長お気に入りの側室であったというのは否定したい。「キヨシ」については、「五師職方日記抄」天正6年12月8日状に「万仙ハ一段、信長殿、儀ヨシニテ」と、記述されている。信長の側近である万見仙千代重元が、有岡城攻めで討ち死にした記事である。同様な事例であろう。

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