消臭クラスとコカイン星人たち。

 来週。ぼくはいつでも廊下の隅で、学生服を汚しながら座ってしまっていて、ダニの死骸でべとべとな頭には、赤錠剤を取り出した後の、空になった瓶が降りかかっているんだ。東の校門へと続く紫色と黒色のゲートをくぐった時に見えた、光のような塊のゴールは誰かに取られちゃって、ぼくはもう、なにも見えなくなった眼球で、大好きな国語教師の眼底を妄想するんだ。
 だからぼくは、例の、世界的に羞恥を晒している精神科医、ペンウィー・ドダー氏が作り出した『消臭クラス』という特殊学級の、無差別的で金髪ミュージシャン気質な蝮指の大衆に向けて、給食の残りカスが付いている口を開くんだ。でも、ぼくのワカメみたいな声なんて結局は誰も聞いていなくて、始末書のように無視をされている。
 消臭クラスは色とりどりな消臭剤を崇めているフリをしている。最低限のフリをしている中で、実際に信仰しているペンウィー・ドダーの自画像を舐めている。他のクラスに在籍しているコカイン星人は、その弱い偽装の全てを知っている。白いワンピースを制服としている彼らは、常に他人に空き缶を投げる妄想をしていて、課外授業の蓄音機によって、その実力を全国の学級どもに示した経験がある。
「連中はまず、コカイン星人の眼光を困難と認識していない」
 ぼくは、彼らに恩がある。バケツに入った泥のような恩。どこに出向いても溶けることの無い恩返しを、コカインではない正規の錠剤で続けている。視界の隅からゴキブリや蜘蛛が這い出てくる。必死に口の中の錠剤に舌を押し付けて擦ると、ゴキブリたちは羽を広げてどこかへ飛翔する。瘡蓋が勝手に海老反りで剥がれてゆく際の痒みが頬を襲っていたので、八つ当たりとして廊下のコカイン星人を殴り殺した……。
 みんな、よくわからない冷たい板に夢中になっている。ぼくは短髪の国語教師みたいな長身ではないけれど、巨乳の保健室先生みたいな顔でもないけれど、どうしても鉄のマンホール。暗闇の中での、鯵の香りと削岩機。ぼくは下水道の匂いを牛乳に仕込み、放送室を顕微鏡で占拠したい旨をコカイン星人に吐き出す。学年主任どもが中学時代の制服をしゃぶりながら、女子生徒たちとスクール水着を選んでいる姿が見える……。「これは良い! へへっ」ズタズタになっている唇で、あのはげどもはスクール水着をしゃぶっていた。
 ぼくの居る屋上では、全ての備品を辱めることができる……。コカイン星人が、人間のコカイン中毒者のように素手の中に練り込まれたコカインを摂取している様も、ピザのチーズのようによおく見えてしまう。ぼくは、自分がイタリア出身であると思い込みながら、目の前の灰色のピザを体内に押し込む……。
 海綿体で作られた新作のワンピースを手に持って、乾いたオーバーホールだけを装着しながら、手元は鮮血だらけのマンホール。耳の中の詰まった削岩機は、今日に限って離陸をしなかった。ぼくは職員室でのココアの香りが好きだった。だからいつでも、忠誠心テストでは悪い点数を獲得する。そのうち、女性教員の怒声が快感として流れて処理される。
 オーロラの流行りを知らない消臭クラスメイトは皆、白濁のプラスチックと肺の中の海水で作られたお面を被って補導中。ぼくは、やはりそれを屋上から見つめている。新月のような怒号と、それに答える鉛玉の反省文がぼくの耳から発射される……。
 ぼくは、水泳の授業の香りをココアに入れたことがある。ダマになった地続きの騎士が、鬱陶しく惑星型の珈琲豆を勧めてくる。
「キミは総統の素質があるよ! 科学を否定する話をしてごらん」
 木々が揺れる音に混ざる……。ぼくは全てを聞こえないことにして、近所の小さな黄色い遊び場をショベルカーで壊す妄想を開始する。それから、食道を上がって来る固形のピザの香りをまき散らしてる夕焼けに、全身が焼かれる願望を唱えて、職員たちの油まみれになったカツラを、青く腐った手のひらで潰したいと宣言する。
 クッキーの神社に行った時、お父さんの亡霊のようなものが見えた気がした。イエロー・クリアファイルで形作られたお父さんの亡霊。ピザの表面のような色をしたお父さん。神社の隅で紅茶を吐き出している、ただ一つの亡霊……。
 ぼくには、三人のお父さんが居る。お母さんは一人だけ。ぼくの元になった大きな精子は、三つの全く違う精子が合体して完成した精子。だからぼくのお父さんは三人。
 お父さんたちはぼくを産んだから、お母さんも、ぼくを産んだから、だからいつでも包丁で刺してみたい妄想がある。見慣れたベッドのシーツが、見慣れた両親の血で染まるのを考えながら、ぼくは複製した姉の顔写真に射精をする。姉は普段は、自分で撮影した自分の写真に加工をするけれど、そんなものは無い方が、ぼくは綺麗だと思う。だから姉が高校を卒業した時、受け取っていた卒業アルバムをこっそり持ち出して、姉の写真の部分だけを丁寧に保管している。
 ぼくの中の殺意は、いつでも白い粘液と共に消えてゆく……。姉の微笑みがぼくの陰毛をさらに濃くしていく。ぼくは必死に性器を擦る……。
 辺りに居酒屋のような臭いが舞っている。ぼくはマンホールに入るみたいに、冷たく臭い布団で眠りに縋りつく。
「茶色い液体?」ぼくは誰かに訊ねたつもりだった。誰かの肩を叩いたつもりだった。最初から与えられていた青銅の権限で、誰かに正当な質問を投げかけたつもりだった。肺ではない何かに繋がれた食道による呼吸の一瞬で、イタリアンな身体が北極のように鋭く震えてしまう。ぼくには氷を食べていた時期がある。
「それは氷河期?」
「しらない。でも、ぼくの実家には青銅を好むだけのスライムが落ちてくるんだ。両親はそれで飢えを凌いだって聞いてる。どうして右肩だけが味噌汁なんだろうね」
 大量の見積書が降って来る。数千枚以上の見積書は、赤文字で木魚の大量発注が記されているけれど、その群の中には、三分の一の確率で始末書が混ざっている。
 遅れて、大量の万年筆も降って来る。ぼくは硬い雨の中に割りばしを見出す。先端に刺された人間たちが次々に、「黒いインクが増える装置! あるいは段差のように成長する値段のスーパー・マーケティング!」とだけ発狂して死んでいく。くたくたになった死骸は五枚の小さな見積書に変換され、それは宙を上がると同時に大きくなる。そのまま雲の向こう側にまで行ってしまう。ぼくはそれを、発展途上の地下駐車場で見上げている。
 離婚届を渡している三人の男が、ぼくの頭蓋骨の中の脳にある、最古の記憶。ぼくはスーツを両手から落とす。新しい畳に、ココア色のワイシャツが散乱する。女のシクシクとした泣き声が、白いだけの乾燥した部屋に反響して溶けてゆく……。
「ぼくが美容室に行っていたとき、あの遊び場はまだ普通だった」
「でも、こっちの思い出のアルバムには、何も無い」ショベルカー運転手の隣人は、写真が一枚も入れられていない卒業アルバムを焚火の中に居れる。ぼくは後方で炎を見つめているだけ。
「お姉さんの卒業アルバムにも」さらに隣人は、ぼくの姉の顔写真だけが切り取られている卒業アルバムも同様に落とす。しかし、すぐに飛んできた反撃のような火の粉で簡単に死ぬ。ぼくは広がっていく炎に恋い焦がれ、灰の臭いに姉を感じながら、強い飛翔本能に身を任せようと必死に計算式を左右の手で解き始める。次第に数式が姉の顔面に変わっていき、いつものように四つん這いで性器を擦りたいと思うようになる。ぼくは地面の砂利の鋭さにすら快感を得ながら、ぬめぬめとした性器に集中を突きつける……。
 晒された素肌には、赤い線がたくさんついていた。四角い帝国が三分と二時間にも及ぶ審議を通り抜けると、隣国を象徴していた書籍がようやく食卓に並ぶ。人型の炭の処理を終えたぼくは、当時の理科室の顧問の二人が結婚したらしい旨を伝えている手紙をビリビリに裂いて食べつくした。残った封筒だけを円柱のゴミ箱に入れると、底から歓喜の声が返ってきたような気がして、顧問の理科室の、いくつもの巨大机の合間に時限爆弾が張り付いていないかを確認する。森の中の緑色の空気が固形になって、固形になりそこなった性欲がヤカンにとどまったと確信をする。校庭にある塹壕の中の蟻たちが一斉に、ぼくの曲がった耳によく似合うオーケストラを勧めてくる……。
 ぼくは客席から指揮者を睨む。そしてタキシードを着てるフリで、その場を乗り切ろうと奮闘を重ねる。それは最低限のフリ。学校中を闊歩しているコカイン星人には通用しない偽装を、ぼくもついに実行する。高級な光を発するライトが、自慢のストライプのパンツを不規則に輝かせていた。赤色が浮かぶ。脂肪が剥がれて顧問の老人教師の口に進む。ぼくはそれに嬉しくなって、海老反りで勃起を開始する。木造ステージの上の彼は、上半身だけは悪くない指揮者をしていた。
 紫色の背広にとても濃い驚愕を感じる。彼は指揮者であると同時に、探偵でもありながら大学の准教授を務める凄腕の女たらし。その証拠として、彼は人間が本音を吐き出すタイミングや、それに至るための場面作りに長けている。
 彼は、インターネットに投稿する写真に必ず赤い錠剤が映りこんでいることでインタビューを受けたことが二度ほどある。さらには傲慢なことに、その時の長文記事で、全国の居酒屋にツケ払いを迫っている。
 ぼくは、夕暮れを背景に設定した後に、一週間前の通院の最中、水平に飛び進む鳥を見て、たくさんの医療カルテの中に彼の名前があったことを思い出す。そしてすぐに、彼がぼくの心臓を寝床にしてくる夜を思い浮かべる。夕暮れが消えた空に鳥は存在できないことを忠告し、消臭クラスの全員の眼球が、優秀なミカンのようにブツブツになる。近くを歩いているクラスメイトのそれをちぎってみると、ブツブツは鳥になって夜空に溶けた。クラスメイト達は嬉々として薄くなって無くなる鳥に声を掛け、ぼくはその後ろでゆで卵を作り続ける。
「そんなに作って、どうするの」
「コンビニで、揚げてもらう」
 気づけば全員がぼくを見ていた。ゆで卵を切り分ける器具が興奮で揺れていることだけが感知できた。
 目を凝らすと、高級なファミリイ・レストランに居た時の風景が、不具合を抱えている紺色の埃と一緒に出現する。優勝者のゴールデン・オルゴールを開封するときのような気概が、空き缶で作られたチューブの中を流れている。ぼくは、見える限りの全ての範囲に血管のような細いチューブが張り巡らされている、黒い壁と白い天井の自室を思い出す。床に一列になっている蟻を見ていると、脳が固形になったような感覚になる。ファミリイ・レストランの個室トイレにて、国宝に指定されたばかりの自分の唾液の臭いを嗅ぎながら、てんとう虫を握りつぶしたことを振り返り、昆虫の命の尊さを予習する。ノートに教師の名前を書きながら廊下を最後まで歩いたぼくは、汗拭き用の完璧な紫色ナプキンで唾液を取り除いて、全てを繋げられる自分の教室に入る。
 給食の時のような香りが包んだ。授業の時には一切漂わない香り。壁一面に広がる、カマボコ型の消臭剤の群を眺める。次に机として置かれている銀色の揚げ物製造機の一つずつを見つめる。するとぼくだけが、この全身にあばら骨の白いパワーを感じていることを自覚する。
 消臭クラスメイトがぼくを見ている。赤い目の子と青い目の犬は、おそらくぼくと同じでパニック障害の子。揚げ物製造機にカルテを入れて怒られていた。でも、あの子たちはぼくのことをいじめてくる。ぼくは彼らとは違うらしい。指を火傷した教師が、いつでも包帯を巻きながら言ってくれた。
 ぼくは、自分だけの壊れた揚げ物製造機向けて、聖人君主のような行進を開始する。
「紫色の先導を、宿舎の二階に忘れたんですって」
 両手持ちのそばを油に落とす、検査官気取りの生徒。彼は世間で民間を玩具にする検査官の身なりを丁寧に真似ていて、警報をひたすら舐めるための紫色唾液を、緩い口角から垂らしている。
「だから不完全な緑なのね。海藻だけの給食にも、ゴキブリが無いじゃない」落ちこぼれ販売員を彼氏に持つ女生徒。彼女は等しく自分の油を胃の中に保管することで、低くなりがちな体温を高く偽装することに長けていた。
 区役所の滅亡を囁く人工知能。その最終プログラムと外装デザインを担当した経歴を持つ丸眼鏡の生徒が、壁一面の消臭剤に性器を擦り付ける。すぐに検査官が右肩を叩き、上下の運動を静止させる。丸眼鏡はすっかり抜けた顔で検査官の紫色唾液を眺める。
「でもでもさ、どうしてフレンチトーストの一斗缶なんて買ったの? 週末しか見えてないの?」
「それは金属だから。僕の頭は木曜日。水曜日、日曜と師走の間で……」検査官の中には、胎芽の臭いがする幼児が数人生きている。蜜柑の皮を泣きながら売る幼児……。
「えへえへえへえへ」
 ぼくは必死に盲目のフリをする。
 検査官が両目を発光させて近づいてくる。ぼくは偽装を続ける。
「ああ目が見えない! ワルツをすると鼻が指になっていくよぉ! ねえお願い。先生には何も言わないで」コカイン星人ですら欺く演技。検査官が今まで以上に紫色唾液を垂らす。
「駄目だ! お前には慈悲を感じるなって、お母さんが言ってたんだ! それに今日の花は、もう食べちゃったよ」
「えへえへえへえへ」
「三日月が僕の口の中にあるんだ。ほら、キミならわかるだろう?」
「いいえ」
「そうかい。なら今夜、しっかりとしたカナブンのレッスンを受けないかい? 帝国で作られた上質なカマキリの鎌もあるよ」
「ああ、えっと、気持ちは嬉しいけれど……私は放課後に歌舞伎の復習があるので。それと体育科目の塾が」
 誰もが、先日ここを去った水掛け数学教師のことを気にかけている。給食が、冷めてしまった後のことを警告している。後ろにある花瓶だけが、それを必死に想っている。クラスメイト達の頭の蓄音機が休まず音を発しているのを光で確認する。雑多の中には、人に飼われているカブトムシのような声で、ぼくが教師を一人でいじめて、一人で退職に追いやったと話す子も現れていて、コカイン星人たちが彼らに対して直立不動を続けている。
 木目の椅子を引く。床に擦れる音が反響していくうちに、大らかなオーケストラに聴こえ始める。周りのカブトムシたちがカサカサ歩きで去って行くのを感じながら、手元の音に釣られる形でタキシードを着ていた頃を再生する。ぼくは土筆で作られている客席の中で、床のストライプの赤にホームシックを感じてしまった。
「黒色のトロンボーンを、野党の前立腺に移植したんですって」
「だから不完全な臓物なのね。塾講師だけの給湯室にも、死にかけコオロギが無いじゃない」
「でもでもさ、どうしてブルーベリー味のハンモックなんて買ったの? 終幕しか見えてないの?」
「それは犬種だから。山羊の頭は木星。彗星、火星とギンガムチェックの倅で……」
「えへえへえへえへ」
 瞼を上げた瞬間に、ぼくはしっかりと歯車の中で便器を考えていて、牧場の一番良いところで年末の到来を願う……。素晴らしきセンチメンタル・コントロールの極小パネルを舌で舐めている弟のシリアル。兄が温めていた暗刻を食べてしまったので、ぼくは鳴り響くオーケストラに耳を任せた。
「ああ演奏が見えない! 種の講習会をすると万年筆が昇格戦になっていくよぉ! ねえお願い。消防団には何も言わないで」
「駄目だ! お前には感謝を感じるなって、お母さんが言ってたんだ! それに今日の花は、もう食べちゃったよ」
「えへえへえへえへ」
「三月が僕の口の中にあるんだ。ねえ、キミならわかるだろう?」
「いいえ」
「そうかい。なら今夜、しっかりとしたナプキンのレッスンを受けないかい? 赤飯で作られた上質な蛙柄の鉢巻もあるよ」
「ああ、えっと、気持ちは嬉しいけれど……私は週末に折り紙教室のバイトがあるので。それと東アジアの銃が」
 尿意が貫いてきたので、右隣りのコカイン星人に声をかけた。彼は話の分かる生命体だった。少なくとも、路地裏で雑巾の真似ごとをしている中毒の山羊たちよりは、巨大で精密な聞く耳を持っていた。
「すみません。トイレはどの方角にありますか」
「ええと……」青色皮膚のコカイン星人は必死になって、指揮者の真似で伸ばしていた人差し指をあちこちに振り回す。
「えへえへえへえへ」
 まるで、急速に回転している壊れた時計のようだとぼくが思い始めていると、その長針は右後ろの緑色の扉を刺した。ジャンクフードのような感謝を述べると、コカイン星人はその指をぼくの肩に乗せてくる。
「ねえそれよりさ、このピアノを弾いているのは誰だ? 最高の演奏だな」
「ぼくの叔父だよ」
「なんだと! やっぱりアンタは一番悪い!」ぷるぷる動きのコカイン星人。意図的に、器用に、金色に塗装された入れ歯の前歯だけを飛ばしてくる。ぼくはそれを歴戦の指揮者と同じ要領で裁く。オーケストラ会場の音のしない床に歯が落ちると、床の赤色と混ざって新しい入れ歯が完成した。
「所詮は中毒の怪物か!」
 ぼくはすぐに緑色の扉を押しのけた。アルカリ性の尿のような光がこちらに牙を剥き、ぼくの脳の県庁所在地を消し去った。
「えへえへえへえへ」

 腐ったミミズと婦警の鼻水で作られた坂道を、半強制的に玉乗りで下り続けた彼は、坂が終わる頃にはその玉を自分の足のように、比較的自在に操れることが可能になったという。
「坂が半分過ぎた頃、目下のミミズが焼きそばに見えてきたんですよ。するともう頭がおかしくなっていって、ぬちゃぬちゃと音を立てている鼻水も、美味しそうな餡かけに見えてしまう。数分も経たないうちに腹が鳴って、より一層、この玉を自分の足にするべきだろうって決心したんです。それから二日ほどで坂の一番下に到達しましたけど、真っ先に向かったのは商店街の焼きそば屋さんですね。ほら、二か月前に家宅捜索が入ったあの店ですよ。そこで山盛り焼きそばを注文したんですけど、一口目で土の味がして、恩知らずの店主に胃液を掛けてしまいましたよ。餡かけも、なんだかしょっぱいし。結局私は、水っ気の多いサイクリングで一位を獲ることしかできないんだなって、天井のテレビの、新型スマート・フオン紹介映像を見ながら思いましたね」
 特集記事が載った新聞紙を食べながら、新作スマート・フオンを想う。しかしぼくは、彼の偉業を疑ってしょうがなかった。図書室にいつでも着席をしている眼鏡の委員長のように。あるいは、職員室で一日中珈琲豆を噛み砕いているだけで、教頭先生よりも高い給料を得ている白帽子の特殊清掃員のように……。
 あの特殊清掃員は、いつでも赤色モップの先端を自分のカツラにしながら、昼食のカレーと未完成のココアを必ず憂いていた。三メートルの全身が余すことなくナイロン製の彼は、ひと月に一度の頻度で渡り廊下に発生するトカゲの死骸を片付けたり、長方形の視聴覚室内にある椅子の形と数、そしてそれらの裏側に時限爆弾が張り付いていないかを賢明に調査している。彼は、蟻の巣のような廊下で他の生徒や紛れ込んでいるコカイン星人、そして消臭クラスの人間とすれ違うと、全てが入れ歯で構成された歯列を見せつけてくる。しかしそれに歓喜を示すのはコカイン星人たちだけで、生徒たちはそれを目にする度に視聴覚室へと走り、中の椅子を破壊しようと試みる。
「ここの列は三つ減っているぞ!」
「それは一昨日と同じだ! クソ! 何も変わってないじゃないか!」
 衝動に駆られた彼らは、そのまま職員室の課長に新作ココアをねだりに走る……。取り残された特殊清掃員は、ぼくと共にその後ろ姿を見物する……。
 晴々しい午前中のデザートの、乳歯入りゼリーを誤って始めに食べてしまったでぶの男。彼は校門の前で、黄緑ジャージの体育教師と学年主任に怒られている。周りの人間や例の特殊清掃員はくすくす笑いでやり過ごそうと必死になっている。クラスの優秀な学級委員は、そんな学年主任と密会を行う。
 ぼくはその様を立てかけたマンホールの影から覗いている。
 三度目の密会の途中に、学年主任がついに黄土色のゲロを吐く。声は瞬間的にオーケストラに置き換えられていて、学年主任は申し訳なさそうに海老反りでシンバルを担う。
 ぼくはその姿を必死な自慰に使っている。
 飛び散る吐瀉物は学級委員のワイシャツに付着して、緑色のシミが全身に広がる。藁人形になってしまった学級委員は、翌日の職員会議でサイコロとして利用されていた。
「五色? それとも、葬式に持っていけばいいの?」
「いいや、夜食にするよ。ぼくは植物と婚姻届を書いていくだけだから。……後は君たちの仕業ね」
「わかった」
 銀色の婚姻届の枠が、イルカ型ボールペンの、発光インク臭で満たされていく感触。そんなものが、小さなヤカンに水が満たされていく時の、あの窒息感に似ていることを茶の間の温かさの中で発見。ぼくの鼻孔に生えた鼻毛が草原を目指して増殖する。誰も居ない廊下には、ぼくの湿った上履きのゴムの音だけが有るはずだと思っていた。
 ぼくは確実に、職員室の椅子でアーチを作ったことがある。
 いつも通りに職員室の前に居た。中は市役所のように鬱蒼としていて、教師全員の怨念が、ガスとして漂っている。ぼくはガスの中を駆け巡り、ようやくたどり着いた右曲がりの古びた木製階段を登る。木造が軋む音が、いちいちオーケストラに聴こえなくもない。そうして、ようやく正方形な職員室の間に足を乗せることができた。
 奥の市役所の扉を両手で開け放つ。中に居た真っ黒な顔の市役所職員たちが一斉にこちらを見てくる。彼らは職員室の教師よりもストレスとココアに敏感で、近所の悪ガキどもよりも珈琲豆を徹底的に嫌う。ぼくは、なぜか鳴らない足音の代わりに「ズカズカ」と口にしながら進み、一番奥の部長に婚姻届を提出する。
「ご結婚ですか。おめでとうございます!」
 両目を細めて、にやにや顔の部長に頭を下げる。藍色の絨毯がようやく目に入り納得をする。アラームが激しく鳴っていると思い込む。頭を上げると女職員が婚姻届をむしゃりとやっていた。双眼を見開くと、人間だと思っていた顔が泥になって溶け落ち、婚姻届をむしゃついている山羊の顔面が出てくる。横で部長のにやにや顔が濃くなっていく。黒色スラックスを見ると、膨らんだ中央が湿っていた。
 ぼくはすぐに黒ズボンのポケットから赤の錠剤を一つ取り出して、口に入れると同時に舌で高速でこねくり回す。丁寧に溶けた後に出てきた白い液体を部長のはげ頭に垂らすと、部長は粗悪なキャンドルのような、無理やりな甘い匂いを放つと同時に溶けてしまった。高級な机に液状の部長が流れ、近くの部下どもがそれを必死に舐めている。少し後ろで例の山羊が婚姻届を食べ終えていた。
 そんな様を前にして、ぼくは真っ先に家族のことを思い浮かべた。すぐに老人の唾液の悪臭が顔面を覆ったので、「そそくさ」と口ずさみながら退室する。
 クラッカーらしい轟音が、救急車のサイレンに混ざって聞こえてくる。早朝らしい高音を思いながら、肺の伸び縮みを意識する。他国で作られたアメジストのような、腹式の恋愛模様が空から降ってきたので、ぼくは釣られて上を見た。赤い空が映り、ぼくの足は強いベルトコンベアー。
「怠惰を掛けたスイミング・スクールと、抑揚を刺したパソコン絵画。まるで別人のような声を使う課長がココアを取り換えた瞬間を、昼間の年寄りニュースキャスターは堂々と暴くんだ。彼は、ぼくの心臓の濃さを知っている。いつでも七三分けを誰かに進めているが、その愚行はすぐに、童心に帰った応援歌によって閉鎖されたらしい」図書館から持ち出した絵本から顔を上げ、未熟な肺に外の紫煙を入れる。後に来る成長に伴った改革を開始したことを脳で宣言する……。
 吐き出す頃には黄緑になっていた。
「なあ、その時のぼくの感情をしっているかい? ぼくは誰よりも大股で、誰よりも長座体前屈を披露した!」
 あの日の噴水広場前がパラパラ漫画のように思い出される。たくさんの民衆がぼくを見ていて、ぼくは中心でドーナツを焼き上げる機械の分解を進める。女の客が小銭を投げてくる。二十円硬貨がマイナスドライバーに触れると、すぐにプラスになって、ぼくはありえないほどの怒りを身に宿す。一瞬でドーナツ焼きの機械が黒い鉄くずになる。ぼくは女を追いかける。
 三メートル以上の長座体前屈が、黄土色の森の奥からこちらを観察している。目の前を走る女は自分が観察されている事実を全身で察知する。ぼくは温かいオーケストラが、集団になって耳奥から進んでくるのを感じる。音響の進撃が三つの蝸牛を丁寧に溶かしている。
 汽笛が、何よりも硬質な卵のような形を成して、女の眼窩から突き出てくる。ぼくは体勢を崩した女の、破裂した眼球を高速で舐める。女が簡単に喘ぐ。四角い前歯で女の眼球に噛みつき、眼窩から完璧にひっぱり出した。萎れた風船のような眼球を口に入れようとした時に、耳鳴りがぼくを押しつぶした。誰かの足が頭にあるような気がして、高い音と一緒に体が地面に叩きつけられる。ぼくは急いで叔母に連絡を繋げようとした。叔母は生粋の薬物常用者だったが、精密な医学者としてコンビニエンスストア内に老舗を構えている。グレーの巨大な椅子に深く座っている彼女の姿に、全ての田舎者は女神を視ている。ぼくも女神を感じている。その美しさにあやかろうとしている。
 しかし、テーブルの上にあるはずのスマート・フオンはどこにも見当たらない。布団の上、毛布を全身に掛けているぼくは、腕だけを毛布から出して必至に冷たいテーブルの上を探す。しかしどこにも見当たらない。ゴム製のカバーは永久に指に触れない。嫌になったので腕を引っ込めて、五年前の予定を現在のものとして記入した、インク臭い日記の中のアップルパイの味を考える。甘味の唾液が脳に満たされる。ぼくはダムの多い国のひと時の長になったつもりで、見せかけの玉座に座っている自分を右斜め後ろから見ている……。
 一度、自分のことをワカメの粉末だと思ってみる。すると頭の中のオーケストラは緑色を含んでいき、ついには遠ざかった。耐久性のある三つの蝸牛が徐々に元の形に膨らんで、カスタネットと成長を遂げる……。足も無くなっていて、脱ぎ捨てられた革靴が深緑色の絨毯の上に散乱している。
 舌にあるのは違法薬物の味ではなく、純正なアップルパイの味。ぼくは布団から飛び上がって、すぐ近くのテーブルに目をやる。先ほど片腕が這いずり回ったテーブル。その中央に、スマート・フオンはしっかりと置いてある。新作のそれに腕を伸ばす。
 一瞬だけ、ぼくの指がスマート・フオンを貫通したような気がしたが、頭を振ると、しっかりと手の中にあった。カメレオンの舌のように素早く腕を動かして、スマート・フオンを自分の身体に近づける。横の硬いスイッチを押し込むと、発泡スチロール同時が擦れ合う音がする。液晶が白くなると、口の中に女の眼球の味が落下してきた。眼球が三つになったことを母親に報告するために、ぼくはメール作成のアプリを起動する……。
「お母さま、赤髪だったお母さま。わたくしはどうしても、幼少期に見たトマトのバケモノの映画のせいで、あるいはアナタが投げつけてきた悲しきお仕置きトマトのせいで、農園などでトマトを見つけると、どうしても上腕二頭筋あたりがヘビメタのゲリラライブを開催してしまうのです。まるで上物の落語家のように、彼らはギターをかき鳴らしているのです。カレーのみを好む肥満体型の男が、脂汗を流しながら必死にドラムを叩いているのです。ああ、あそこに見えるのはボーカリストでしょうか、まるであなたそっくりだ。天然パーマを嫌って、すぐに髪を剃りあげて、中途半端なスキンヘッドがとても似合っている。本当にあなたそっくりだ。ところで、私は自分の舌の上に、好んだ女の眼球の味を感じたのですよ。鉄と肉と腐ったモノの臭いが朝から取れなくて、すでに三回ほど果ててしまった。その様子をここに、この電子の媒体に記そうと思うのですよ」
 そしてぼくは、どうしても気になっていた右手人差し指の瘡蓋を一気に剥がす。熱のある痛覚が身体をゆっくりと現れ、同時に真っ赤になっている患部から、スライムのような血液が、ゆっくりと流れる。
 数分の時間を有して、流れた血液が床に付着したのを確認してから、ぼくはメール作成を開始した。
「二日に一度ほどの頻度で市役所に現れる赤髪の老夫婦。片方は画家で、片方は顎関節症のみを専門にしている精神科医の老舗医学者。そんな老夫婦はいつしか、互いに重度の認知症を持ち始める。日を増すごとに大きくなっていき、アルコールの空き缶や銀のカトラリーを投げ合うだけの生活が始まる。一年もすれば、自慢の赤髪もすっかり消え、ただのボケ老人が二つ完成していた。現在は、はげでこげ茶のベストを常に着ている方が夫で、同じくはげで、しかしサツマイモの皮のような色のベストが妻。
 二人は軍隊の行進のような強い歩行をし、市役所のガラス製の両開き扉を押す。左が妻で右が夫。二人は必ず限界まで扉を押し込む。市役所内部にて、せわしなく手続きに取り組んでいたり紺色のソファーで雑談をしていた老人や若者、コカイン星人、そして山羊たちは開かれる扉を見ると、それまで開いていた口を閉じ、そそくさと便所室へ走る。この時のコカイン星人たちは必ず後回しにされる。受付の女たちはそれを横目に、すでに張っている背筋をさらに伸ばす。
 老夫婦は一直線に受付カウンターに走り、受付女に一枚の紙を突き出した。それを確認するフリだけをした受付女は、表情の無い老夫婦に決まった文言を吐く。
『お客様、離婚届ならあちらの窓口にお願いします』
 老夫婦は鼻を鳴らして右にゆく。夫のほうが放屁をし、その音に受付が笑顔になる。楽しいフリをして、ガスのような空気感の苦痛を必死に誤魔化している。
 老夫婦は三つ隣の受付に再び緑の紙を突き出す。丸眼鏡の受付女は薄い鉛筆で書かれた内容を事務的に確認してから顔を上げる。
『はい。確認終了いたしました。機械に取り込みますので、おかけになってお待ちください』
 老夫婦は待合スペースに歩いて行く。この時の二人の足取りはすでにバラバラで、便所室からはみ出ているコカイン星人が、それに対してヘリコプターを見出す。別のコカイン星人が鉛筆をノートに走らせ、その削るのような音で老夫婦の待機時間が幕を開ける……」
 ぼくはそこまで記入をすると、さっさと赤い送信ボタンを押してしまった。テスト期間に遊び歩く女子学生の時代を連想した。彼女たちが男を蹴り上げ、男物の財布を片手に高笑いを繰り返す。しかし唐突に現れた蕁麻疹によって破顔は悲鳴に変わる。ぼくはその姿で興奮をする。そうせざるを得なかった。悲しみに明け暮れている姉の姿が脳裏にある。父がソファーでくつろいで、弟がその足を舐めている。雇い主である老夫婦が、おやつとしての赤ワインをもってくる……。
「ほら、お前たちはこれが好みでしょう? さっさと飲み干してちょうだい」
 老婆が机にワインを垂らす。自分の髪を溶かして作った赤ワイン。便器に尿を放った時のような音がする。木目の茶色が赤赤と染まる。
 父が足元の弟を蹴とばして、机に広がったワインに必死にしゃぶりつく。犬のように舐め取るのを見ている弟もそれに続く。
「ほら、嬢ちゃんはこっちだ」
 あとから出てきた老爺が、弟に続こうと四つん這いになった姉を上から抱きかかえる。姉は舌と歯の全てをこの老爺に抜きとられているので、人間らしく喋ることができない。なので肘から先、膝から先が無い四肢を適当に動かして抵抗をする。老爺はすぐに怒り狂い、尻の穴から鉄パイプを取り出す。茶色い糞垢だらけの鉄パイプを姉に振るう。
「私はガリの箱を空にします! それとも卵焼きしか食べません!」
 老爺の少し変わった怒声で家の壁が少し揺れる。丁寧に喘ぐ姉を無視して、ぼくはすぐに首のリードを右手で持った。硬い赤い紐が皮膚の中に入り込んだと思ったら、次にはそれが五本の指から伸びて、上手にワインを舐めとる弟が四つん這いのまま微笑みかけてきた。ぼくはそれに微笑みを返しながら、親指から伸びるリードの先を犬歯に引っ掛けて家を出た。
 秘密主義が功を奏して、ぼくはたった数年で、『自分が喋っていると思っていても、実際にはただ口を動かしているだけで何も喋っていない』という特殊な体質を手に入れた。市役所の責務の全てを自動的にゴミ箱に放り込んだぼくとサツマイモの愛犬は、上司のタロットというはげの男から迸る小粒の唾液と共に退職を命じられた。愛犬は逆らっていたけれど、ぼくの一撃ですぐに晩御飯になった。ぼくは三度目の退職願に、飛びつくように同意した。
 退職届に押印する印鑑を握った時から、ぼくの次の稼ぎ場所は決まっていた。何を思っても、何を喋っても言葉にならないぼくは、これを希少な映画監督業に使おうと考えた。あの界隈なら、この特質も歓迎されるはず。おそらく数か月で、基礎的な恐怖要素を十二分に含んだ短編映画を創り出すことができるはずだ。
「ね? どうしてもすき焼きの温かさを思い出すでしょう?」
 ぼくは左隣で焚火を続けている少女に唾を落とす。白い玉が少女の広いく綺麗な肌色の額に付着し、蜘蛛の巣のようにじゅわりと広がる。ぼくはそれを見て大きく笑う。体をいつものように海老反りにして、口角を限界まで釣り上げて笑う。すると少女は立ち上がった。ぼくはすぐに真顔になる。表情筋の中に張り巡らされているワイヤーがそうなるように動かしている。ぼくは上を見ているままだったが、地面の砂利が動く音で、少女が白と薄い青色のハイソックスを装着した細い二本の脚で立ち上がったことがよくわかった。それから少女はぼくに近づいてくる。一歩一歩をとても慎重に、まるで逃げ場の無い獲物を前にした狩人のように、ゆったりとした脚でぼくに近づいてくる。
 ぼくは海老反りをやめて、本当にぼくに近づいてきていた少女と向かい合う。少女の身体はナイロン製ではなく、正式なエナメル質で、金色の頭髪は十二時の方向を向いて、こちらのことなどキャタピラのように気にしない。少女の身体は常に緑色に輝いている。少なくともぼくにはそう見えている。十秒以上の時間を使ってじっと見ていると、過去のいつかに見学に出向いた刑務所と、それに付属する警察訓練校の壁を思い出す……。ぼくの胸に、はまだあの日のトランシーバーが装填されているはずだ……。
「頭を撫でてみて?」
 ぼくは注文通りの手さばきを少女の頭に施す。少女は不器用そうな笑みでぼくを見上げていた。
「昨日ね、駄菓子屋さんに行ったの」
「どうして? あるいは朦朧としたキミの記憶のせい?」
「そうね」
 少女は最新型のディスプレイのように表情をクルリと切り替える。ぼくにはそれが、少女には本当の感情なんてものが存在していないことの一番の証拠なのではないかと思った。思いながら、口の中からあの時の女の眼球の味を噴き出す。少女は軽い悲鳴を上げながら二時の方角に歩いてゆく……。よく見ると、その先には虹のような蟲たちが散乱していて、これが彼女の今夜の食糧になるのだろうかとぼくは学者然とした態度で考察していた。
「脳と、それに付き纏う血液や神経が、誰かの手によって動かされているような気がする……」
 ぼくは、自分ではない誰かがぼくという乗り物を操縦している感覚を作り上げてみた。無いはずの丸眼鏡を押し込むと、すぐに今度は、湾曲する脳が反響し続ける声を作り出す。
 太陽ではない絶対的な光源によって、少女の不完全な、なまめかしい身体は光を発していた……。湾曲しきった少女の身体に、自分の手が伸びそうになったことを今さら恥じている……。ぼくにはそれが、驚くべき惑星の誕生と死、或いは赤髪の隣人の、寒く強烈な魚捌きの余興に見えていた……。
 脳はそこまで見せてくると、すぐに固形に戻る。ぼくは近くの水たまりで、自分は本当に丸眼鏡を掛けていないことを確認してから、三年前の博士号取得の瞬間を手放した。
「どうして液体放出システムを放棄したの? アレなら、キミが経営するファミレスは世界を貪り、東の食糧問題の解体ができたはずなのに!」
「……故郷が、恋しかったから」
 少女の残した蟲たちが、次なる人型実態を作り出してゆく。ぼくは足元の地雷を取り出して、すぐに股間辺りにあてがう。プラスチックと血の塊の感触が性器を震わせ、すぐに白い粘液を発射させる。ぼくは、小銭を落とした時のように驚き顔をしてそれを見下ろし、学者どものような、ほぼ完璧な球体の眼球を三つも付けている蟲たちが、地雷の起動スイッチを入れたところで、老爺のように尻の穴から単三の乾電池を引き抜いた。
 景色は、たくさんの銀色のラック。そこには、ガラスの板の水槽。何百という数のラックの中には、何千という数の水槽がある。
 ぼくは右隣りの、老婆になった少女に訊ねる。
「どうして曇天じゃないの?」
「あなたこそ。こんなものを作って、どうするつもりだったの?」
 少女の両手には首吊り用の太い縄があった。少女が笑い、ぼくが笑う世界こそが正解であると思った。
 少女は全身が放課後の色で塗られていた。放課後の、誰も居ない教室に降り注いでいる、橙の伸びた光の色。それが少女の顔や四肢、腹部を包み、べっこう飴のような甘い香りを振りまいていた。ぼくはそれに必死に土下座をして、必死に許しを志願して、少女は老婆でも老婆は少女ではなくて、明日の朝に食べる秋刀魚の切り身に、唾液と共に思いを馳せて……。
 ぼくが駄菓子屋の隅にある金色の飴を手にする前に、少女は坂道に向かって走り出す。比較的鋭利な砂利と乾いたミミズで埋め尽くされている緩やかな坂道。巨大な公園の横を進む坂道。無いに等しい歩道の横に、必要以上の幅の車道がある坂道。それを少女は、少女らしいぴちぴちの若い肉体と、しわくちゃな老婆の肉体をクルリと切り替えながら進む。
 競技用のランニングシューズに、全体が紫色の陸上選手のようなタンクトップを着た同僚。ぼくの右隣りを、わざわざぼくと同じ速度で走っている同僚。狩野優来。
「私は決して銀行強盗犯ではないから」狩野優来は頭に付けていたプロレスラーらしい覆面を引き剥がす。そして砂利の地面にボスンと捨てる。
 ぼくは彼女に、キミは誰なのかと問う。すると彼女はどうしても昆布を食べたいおでん好き女子社員のような右腕で、ぼくの肩を撫でてくる。すぐに道が橋になる。ぼくは狩野優来と共に橋に足を入れる。
「上質なバーで出された赤い酒が気に入らなくてね。私はそれを店主のはげ頭にぶっかけてしまったんだ。でも……」
「酒はひっくり返らなかった」
 ぼくは右手の人差し指をピンと立てる。狩野優来は右手で後頭部を撫でる。
「ははは。まさにそうさ。まるで氷にでもなったかのようにね、酒は店主の頭にかからなかった。あいつのはげは、テカテカと輝かなかった!」
 すると狩野優来は、まるで汚い居酒屋でおつまみが叩きだされたような顔、あるいは、機関銃の弾丸を大っぴらに食らってしまった新兵のような顔をする。そしてぼくに、酒飲みガンマンとしての心得を教えようとする。
「ああそうだ。お前ってピラミッドの理由って知ってるか?」
「スフィンクスの性癖しか、知らないよ」
「あれって実はね、宇宙空間から地球に振ってきたんだぜ。落っこちて来たって言った方が正しいかもな。そんで、当時ピラミッドが落ちた場所に居た人間はどうなったと思う? もちろんピラミッドの下敷きになって死んださ。肉も骨も臓器も、全部宇宙のどっかの星の岩だか砂だかドーナツだかで作られたピラミッドに潰されちまった。だからピラミッドは墓なんだ。あの下に空間なんて無い。ただ、ピラミッドと地面の隙間には、いまだに腐りきっていない当時の人間の血肉がこびり付いてるはずなんだ」
「ああそうかい! おい! こいつはとんだ偽善者だ! それか屋台のひったくりだ!」瞬間的に、幼稚園での小石のようにみじめな思い出が脳に噴き出る。「だ、だって、ぼくのゆったりとした走りに、合わせてきたんだから!」
 二世代ほど前の、四角いテレビの電源を入れてみる。ピンク色の肌をしたキャラクターが動いている蛍光色のアニメが映る。女だとわかる声がする。どこか別の世界でも聞いたことのあるような声。それが全く別人の口から流れている。ぼくの耳に、濁流のように入り込んでくる……。
「あなたの頭は立派にはげていて、丸っこい顔面の輪郭と合わせて眺めると、まるで卵みたい。ほら、こうしてコツンコツンってやれば、中からひよこでもでてくるんじゃないかしら?」
 握りこぶしで頭頂部を二度叩く。するとその位置から黒いヒビが入る。ヒビは頭部を駆けていき、やがてバリバリと音を立てながら、頭部は砕けて散ってしまった。
 そして中から出てきたものは、薄桃色のひよこ。そのひよこには一切の体毛が無い。おまけに全身はぬらぬらとしていて、天井からの光を反射している。さらに細かいシワがいくつもある。それはひよこという生命体というよりは、その形を模して造られた、とても不細工な粘土細工のように見える……。
 ぼくは気づけば、強烈なデパートの地下に居た。
「あら、脳みそひよこ……」
 真白い球体の照明が、遥か遠くの薄黄色の天井に見えている。中高生の素肌に出来るニキビのようだ、とぼくは思った。ぼくはこのデパートの中心に位置する人工大木の目の前に立っている。見渡すと、それに合わせて露店のような門構えの店たちが見える。赤文字で『紫色唾液』と書かれた看板が目に留まる……。
「あの子はここが出身だったのか。なら、駅前の落語会には掃除当番を申し付けよう」ぼくはかつての小さい枠組みの消臭クラスの、あの唾液を垂らしている捜査官もどきの顔を思い出す。すると鼻孔を埃が通過し、鮮明に消臭クラスが蘇る……。溶けたアイスのような顔面に、腐ったバナナのような湾曲した口。そこから垂れる唾液はやはり紫色で、焼き上がったサツマイモの香りがする……。
 露店に出ているのは、オレンジ色の半そで制服と同色のキャップを装着し、ぼくとは違って黒色のスカートを履いたこげ茶の魚肉ソーセージたち。腕として伸びているのは乾燥パスタの黄色で、球体の関節部分からは、街はずれの書道教室でよく嗅ぐ黒色の臭いが漂う……。「どうしてか、君たちの身体が魚肉であることはすぐに理解できたよ」
 ぼくは彼らに手早く注文をしてみると、お馴染みの「紫色の先導を、宿舎の二階に忘れたんですって!」という台詞と共に紺色の紙コップに入れられた紫色の液体が出てくる。サツマイモの香りは無い。それはただの、温い紫色液体。一息で呑むと、すぐに全ての赤血球たちが浮く体験に捕らわれる。しかし脳だけ瞬時に、最新の列車到着予定時刻を割り出している……。
 表情の無い長身たちが早足で歩いている地下のデパート。ぼくはデパートの、白い大きな空間の中に直立していた。口の中の液体はすでに消えた。上を見ると、やはり光がある。下を見ると、突風がスカートを翻してくる。マンホールの蓋が退けられた後にようやく見えてくる暗い円形の穴を、誰でも無いぼくは落ちていた。
 下から盛り上がって来る固形のような風。空の色をしたスカートと真白い下着の合間を縫って、ぼくの身体を抜けてゆく……。両目を閉じると上昇しているような感覚にやはり臓器が浮く。消臭クラスメイトの紫色唾液を舐めた時に現れる感触に酷似した、炭酸の浮遊……。工場のパイプのように雑に広がる血管が、風によって一つにまとまって、ぐしゃりと縮こまっていく。瞼の裏でその様子を見ていると、足裏にはデパート三階に新設された『新鮮フード・コート』の床の冷たさがあった。
「『死』はあったほうがよくない?」
「でもアナタの身体、とっても毒々しい色で、見ているとテレビ番組と一緒。すぐに虹色みたいに、おかしくなっちゃう!」
 丸テーブルに空気椅子で居る金髪が嗤う。制服からして過去の高校生であることは明白だった。スナック菓子を硝子皿に落とした時のような音が斬新フード・コート内に一斉に広がり、最も近くで直立をしていた黒色サラリーマンがビジネスバッグを放り捨てて、自身の地元だけの盆踊りを開始する。四肢がそれぞれ別の方向性を見出している踊りを視た金髪は破裂するように破顔をし、口からカレー南蛮の汁を噴水の如く噴き出しながら脱糞を開始する。その上空を飛んでいったビジネスバッグは、そのまま三メートル先の赤ん坊のはげ頭に当たる。そこからは頭に素早くヒビが走り……。
「あら、脳みそひよこ……」
 ぼくは斬新フード・コートの一部の、カフェーに注文を取りに向かう。三回ほど歩いただけで、ここがどこなのかを忘れてしまった。零れた水たちは二度とコップの中に戻らないように、落ちてしまった記憶は二度と戻らない。ぼくは長身たちと丸テーブルで埋め尽くされた賑やかすぎるこの場を見渡し、すぐに近くの警官らしい風貌の老人に声をかけた。
「あの……」
「ああ、ご注文を」老人は手元のプラスチック板をぼくに差し出してきた。そんな服装のくせに、乾燥わかめのようなその声は職に就いていなさそうだな、とぼくが思っていると、案の定彼は人間ではなく、生粋のコカイン星人であることが、ゴマのような双眼から察知することができた。
「え……なんですか?」七色の飲料や、先ほどの紫色唾液の飲料の写真がプリントアウトされたプラスチック板。ぼくはそれをすぐにコカイン星人の老人に突き返す。「ぼくは一般の飲料は呑めないから」
「え、ええと、しかし僕は、コカインを持っていませんが」
 コカイン星人の彼は近くの丸テーブルに空気椅子で着く。そしてぼくを見上げると、まるで給食のメニューが全て苦手な食物だった時の男子小学生のような顔で降参を願ってくる。
「もしかして、密集地帯に現れた馬車と、それを音読しているうちに通り過ぎた滑空戦士の欠片が必要なんですか?」
「い、いいえ……ええと、炭酸ではなく」
 ぼくは頭を左右に揺らしながら、必至に間合いを決める。コカイン星人の老人は新しいプラスチックのボードを和服の間から取り出して、空気を避けるように丸テーブルに置いてみせた。
「これでキミも帰れる。どうしても機関銃が撃ちたい」軍服に腕を任せていた当時を、彼の眼底にぼくは視る……。「まるで、義父のような楽観主義者。彼は、どうしてもコカイン星にたどり着きたいと願っていた」
「軍人気質の家庭料理しか、食べていなかったから?」
 二つほど頷いてみせる、コカイン星人の老人。「職員室に入るときは、必ずレンタカーの上で一礼。それから校長の右耳にある耳毛を、勇猛果敢な医者と冷蔵庫の気概の中でひと抜き。この際の祭り開催予定地に現れる神の類は、粗悪な駄菓子なので無視をしよう。鋭く優雅に無視。雑巾のように無視。冷たくなってはいけない。ココアの後味のような無視を心がけよう。そして、数学教師が偶然を装う。英語を扱う金髪が、ひっきりなしのカレー南蛮を吹き飛んだ音がしたと感じたら、すぐに職員室の扉を引き裂け。……ワシは一度、深呼吸をしなくてはならなかった。ワシは、気まぐれに肺に服を舐めなくてはならなかった。綺麗ではなかった。ワシはいつでも、ピーナッツと呼ばれていた。あるいは落花生。あるいはホースを持たない特殊清掃員。そして、昆布を忘れるコンビニバイトのおでん係。……そうすることで、全員からの了承を得るから」
 ぼくは人知れず、コカイン星人のこの老人に合掌をした。彼のグレーのライダースジャケットが、カタカタと揺れた気がした。それでも合掌を続けると、二つの素手の皮膚の間から、職員室ではなく精神病用の対面室の臭いがした。コカイン星の輪郭を妄想しながら瞼を上げると、目の前には主治医を名乗るミスター・酒飲みが、医者用の高級椅子に体を預けている……。
 競技用の薄桃色白衣に、全体が紫色の陸上選手のようなスクール水着を着た主治医。ぼくの前方で、わざわざぼくと同じ目線で佇んでいる主治医。本名不明の、ミスター、酒飲み……。
 そんな彼のニキビを見ていると、これまでぼくの病名を当てられなかった医者どもの鳴き声が聞こえてくるような気がする……。その中には彼も居た。優秀な精神科医のペンウィー・ドダーのにやけ顔が暗闇の視界に見える。ぼくは彼のコブのような出来物が占拠している額に小指を突き刺す。すると彼はバナナのように湾曲した口から、一般販販売が可能な濃度を持った血液を流して倒れる……。再び医者たちの悔しがる声で、ぼくはようやく戻る……。
「昨日は……台所で秋刀魚を切っていましたよね?」
 ミスター・酒飲みは分厚い唇をブルンとさせる。すると唾液の紫色が急きょ薄緑色に変わる。ぼくはその動作に、自分の経歴を話しておかなくてはならないと思い、スラックスの膝の部分の黒い布を握った。
「ハラワタで冠を作ったのよ? それから出来上がった刺身を……ええと、どうしたんだっけ。そうだ、どんぶりに置いてしまったんだ……ああ、刺身。どうしてそんな冷たい場所にあるの……ああ。あああ……」
 どうしようもなくなった……。どこかに資金を落とした過去が、母親の子宮の中にある。脳は必ず、不透明なシリンダーで完成されている。いつでも清掃ができるように仕組まれている。ひと月に一度の特殊清掃員の訪問。ぼくの自慢の双眼から、大粒の涙があふれているような気がする……。
「違うんだ……違う。ぼくはどうしても、あの赤い薬に頼りたくなくて……」
「ああ、わかりますよ。そういう患者さんは山のように居る」
「だって! あれは消臭剤の臭いしかしないじゃないか! どこが医学なんだ! どこがっ! どうやって患者に寄り添うっていうんだ!」
「ああ、わかりますよ。そういう患者さんは山のように居る」
 潤っている視界の中で、ミスター・酒飲みが自慢の厚い唇をブルンとさせていた。黄緑色に変化していた唾液は、今度はどこにでも売っているピンク・カップの桃色に変化する。ぼくは耐えられなくなって下を向く。牛乳のような白さがプラスチック素材として目に映る。
「だからあ」
 ミスター・酒飲みの温かい両手がそれぞれの肩に触れた……。顔を上げると、ミスター・酒飲みの輪切りにした大根のような大きな顔がある。最悪すぎる歯並びのせいで、完全には閉じられない口を持った顔が、誰よりもすぐ近くに位置している……。
「なんですか……」
「漢方薬、増やそっか!」
「ひいぃっ!」
 ぼくは両肩を飛び上がらせて、ミスター・酒飲みの両手を跳ね退ける。茶飯の香りが鼻孔を侵した。黄色の唇は、例の昆布を忘れるコンビニバイトのおでん係と全く同じ。
 自分の鼻毛が一斉に抜けて消えるのを、血管が震える痛みとして感じる。後ろに倒れかけると、背もたれが背骨を刺した。皮膚を通り抜けて、骨だけを砕いている。ぼくは悲鳴を出し、そのままミスター・酒飲みの顔を見つめながら、ゆっくりと瞼が落ちていくのを悲しんだ。
 次に意識がしっかりとしたのは、対面室から出た瞬間だった。床には、脱ぎ捨てられたオーバーホール。一つを掴んでみると、出したばかりの尿のような温かさがある。口づけをすると、ぼくは迷わずデパートに向かった。
 コカイン星人の老人には負けずに、彼のはげ頭に自分の学生時代を思い描く……。歯が全て揃っている彼のような老人は大変珍しい。大木のような自我を持っているので、路地裏の中でもやっていけるし、このデパートでも注文を受け付けてもらえる。
 コカイン星人の老人は、丸テーブルの上に抜けた乳歯を並べていた。見つめていると、彼の辺りの人々が空気の呪文を口にしながら未知の踊りを繰り返す。まるでコピーを取った和紙の香り……。あるいは乾燥しきった昆布の欠片……。ぼくは自分の二つ目の故郷を思い出した。赤い屋根の家や、鼠色の饅頭が盛んに行動している水分の多い故郷。電車からではたどり着けないあの街は、必ずバスが二時間ほど遅れてしまう。市長が晴天を嫌う男なので、いつでも雨が降っている。
 マンホールがふさがる音がしたので、ぼくは名人になったコカイン星人の老人の右肩に接吻をしてから上昇を願う……。スカートが再び翻し、足が冷たい床から浮遊する……。

 遊撃用のアップルジュース……。全身が、紫色の医療技師のようなタンカーを咀嚼した、詮索と棟梁……。ぼくの左隣りを、わざわざぼくと同じ年齢で偽っている棟梁……。おそらく、狩野優来……。

 翌週。私はいつでもマンションの隅で、スカートを汚しながらしゃがんでしまっていて、ハエの死骸でどろどろな頭には、赤錠剤を取り出した後の、空になった瓶がいくつも降りかかっている。エレベーターへと続く白いゲートをくぐった時に視えた、電光掲示板のような塊のドリンクバーはすでに誰かに取られてしまっていて、私はもう、何も見えなくなった眼球で、大好きな園長先生の眼底を妄想する。
「三キロ先の、惑星に出向く……」コントロールを脳の中だけで執行していく。シワにもまれた丸い操作キーが、赤色のプラスチックを生成する……。
「彼は……ガスマスク装着男に変換することができるのかね?」
「いいえ、不可能です。だって飛距離が、すでに薬物との差別化を行っているので」
 最新宇宙ステーションの、白いスーツの職員たちが、学校の論者たちとの議論に薔薇を咲かせている……。コカイン星の日程をモップに浸している彼らは、あのコカイン星人がどのような肺を持っているのかを知らない。夕日を溶かした珈琲に、エナメルの全身で殴りこむ大統領が一人。彼は奇しくもコカイン星人ではなかったが、コカイン星人のような心理状態に陥った青年が住まう廃棄処分のガソリン・スタンドを熟知していた。
「新しい議題として、例の特殊学級の保護者の方々から、チョークがコカインに見えてしまうという苦情が寄せられています」
「……アスファルトの隙間に、新作の種を落としたことがあるでしょう? あれをしたことで、黒板の中心にそびえるチョークだけが、遠心力のアニメーションを生徒たちに見せつけていったのよ」
 結局、どこまで待機をしても現れなかった妹たちに苛立ちを感じた私は、その大きなマンホール広場、および埃臭い新作宇宙ステーションからの清々しい退却を開始した。様々な色や大きさのマンホールや、灰色だけが使われている惑星の模型で形作られた円形の立体噴水に白スーツを投げ入れ、元の温かいオーバーホールに着替える。受付カウンターの、コカイン中毒の女に放屁で別れを告げて、空の注射器で構成されている歩道を行く。正面から突撃してくるオカルト的蛸飯ジェネレータのことは、鋭く優雅に無視。横道からの二匹の精神科医も、雑巾のように無視。冷たくなってはいけない、と脳で唱え続け、天井のガラスの向こう側の、宇宙らしい暗闇で涙を拭う。最後に待ち受ける、ここのステーション・ガーディアンたち。発泡スチロールのような白色の角ばった体を見ていると、やはり発泡スチロール同士が擦れる音が耳奥からやってくる。両サイドに直立している彼らから、ズワイガニのような尖った敬礼を受け、私はココアの後味のような無視を届けた。
 、太陽を擬人化した喫茶店に、自慢の二足を進める……。まるで順調な時の『すごろく』のように、あるいは宝くじのように、敷かれている注射器の一つ一つに足を置き、息を吐いて、進む……。
「これから君に行う質問は、この録音機で全て記録されるということを、常に頭に入れておいてほしい。鴉は黒いがココアは白くはない。それを肝に銘じて、私の執刀に耐え忍んでくれたまえ」
 無機質。喫茶店の中の、埃を含んだ臭い空気が舞う取調室で、白衣の女取締官が私に冷ややかな目を向けている。私は少しでも身体を動かせば、そのたびにゴキゴキと音が鳴るパイプ椅子に座って、彼女の卵のように白い肌だけを見ていた。
「君は……コーラ購入男に変換することができるのかね?」
「いいえ、不可能です。だって宇宙が、すでに軍手越しにコーラを掴んでいるので」
 右手を、高らかに上げてみせる。彼女のミミズの死骸が張り付いた双眼からの視線が手の平に集中していくのがわかる。視線とは、熱だ。私は他人からの視線の熱を細かく探知することができる。私の手の平には幾千ものニキビと、妹の鼻水を固めた微小な塊がまぶしてある。ニキビ同士が交流を重ね、固形鼻水たちと時には争い、しかし常に発展を進め、現在はその小さな敷地内にアンモニアの匂いが漂う白い街を創り上げている。私はそれに感動をしている。しかし、彼女はどうだ。目の前のミミズだらけの彼女。この人型実体は、私の平の中の小さくも力強く、何よりひどく匂う街に、恐怖と不気味さしか感じていない。より一層鋭くなった視線と、周りの沸騰していくミミズ死骸の様子で全てがわかる。目線は熱いはずなのに、どうしてか手の平に注がれているそれは冷たく感じられる。
 私は失望と共に手を下げ、元のテーブルの下の位置に隠す。途端に彼女が安堵したことがわかる。肺の音が極端に落ち着いたのを耳と性器で感じた。ミミズ死骸は急速に冷め、双眼の恐怖はすでに消えている。
「あなたが美麗なグラフィックスではないことは理解しているけれどど……それでも土に還るだけが人生ではないと思った。もしも自分の周りでポリゴン加工が発生してしまったら、と考えると……私はやはり、ダイナマイトよりも未来が恐ろしい」
 彼女の表情をうかがう。はっきりとした冷静さが鼻水として落下している。
「それでも私は判断を続けますよ。ええ、洗濯板のようにね!」震えた声で両手を上げると、すぐにその両手で洗濯板の物まねを始める。右腕をそれに見立てる様は見事ではあったが、溶けかけているアイスのような表情には滑稽さしか感じることができなかった。
「そうかい。でも、私はミスター・酒飲みではないので」
 ため息とともに立ち上がる。彼女はまだ自分の数学的な推理や決め台詞を放ちたい、放ち足りないといった口で舌を出し、必死に鼻水を舐めとりながらも洗濯板を続けていたが、私はその蛸の吸盤のような形になった唇を無視し、彼女の顔面を正面から掴みかかる。柔らかい肉と鼻水の冷たさが私の指に触れ、めり込む。私の指先の爪たちが、彼女の顔面の中に入り込んでいく。
 彼女の産まれたての鳥のような高く鋭い悲鳴と同時に、林檎を潰すように指たちを一点に集結させる。彼女の顔面は赤い肉になった。
 顔面から手を離す。手の全体と顔面が、何本もの真っ赤な橋で繋がっている。私はその彼女の血液とミミズ死骸を全て舐め終えてから、彼女の後ろにある出入り口に歩く。
「それと私は、ペンウィー・ドダーでもない」
 埃だらけのドアノブをひねる。彼女の、熟成しきった野生動物の雄叫びのような泣き声が背中を十二分に押してくれた。野太いそれに、私は心の底から顔射をする……。
 私は一度、西の遊園地を経営している白い髭の初老と話したことがある。奇しくもコカイン星人ではない彼は、自分の中にある世界は常に幻想であることを信仰していて、私には、「人間とは殺してから犯すのが正解である」ということを教えてくれた。
 私は等価交換として、引き出しの中の冒険のことを語ってみせる。まるで深海のような時間。あるいはまさに、遊園地の人気アトラクションの順番列に並んでいる時のような時間を過ごす。白い丸テーブルに黒いチェアーの私たちは、互いの話にひどく嗚咽し、鬱がひどい時のポジティブ精神のような空回りをしている旅行計画を右の蝸牛だけに感じていた。
 互いに、自分のクマが恐ろしく見えていたと思うし、両足はどちらも、公園でまれに見かける頑丈な太い木の枝になっていた。私は初老の両足の太さにかつての女取締官の雄叫びを重ねていることに気が付く……。
「ええ、それで、その女の顔面をぐしゃりとやってしまったのですか?」
「はい。それはもう。林檎を潰すようにね。ぐしゃり、と」テーブルの上の黒い紅茶を一口だけ啜る。あの消臭クラスの、書道の授業中に溢れていた臭いが鼻を通過する。
「それは、それは……ほほほ、大変だったでしょう。……ははは、ほほほ」
 初老は基本的に両肩を揺らす笑いを採用している。おそらく、それしか知らないから、それしかしない。私は無機質で色の無い茶会をさっさと切り上げて、どこか赤色のある場所に転勤をしなくてはならないと強く考えた。血液と血液が通い、そこで生まれる熱エネルギーに肉塊が反応することで得られる思考能力による決断。身体を動かすと、不透明な血液だけが脳の細部の細かい管を通り抜け、熱を持った臓物たちが沸騰を楽しみ、頭蓋骨がカタカタと震えているのがわかる。やがて脳だけが固形になり、それ以外の全ての臓物がゼリー飲料に変換される。崩れた私は上から落ちた固形の脳に寄り添う。そして、おびただしいほどの、脳みそひよこ……。
「バイトがあるので、もう……」
 私は近くの人型コート掛けに吊るしておいた、薄黄色のコートを引っ張り出して立ち上がる。初老はやはり引き留めようとしてくる。まるでホームレスの物乞いのように、直立している私に下からすり寄って来る。私はその細い両腕をさっさと払い、コートをバサリと翻しながら茶会室を後にした。まさに学校の廊下こそが世界の全てであると理解した瞬間であり、紫陽花型の訪問販売員が趣味で所持していた落花生色の花火が、逆流するように飛んで破裂する瞬間だった。火薬の臭いが書道の悪臭を上書きしてくれて、新しい給食の時間に肺が迎え入れられる。草原のような中で、私はいつの日かにランニングをした坂道を見上げていた。上には、すっかり劣化してしまった、紫色の陸上選手のようなタンクトップを着た、あの狩野優来が仁王立ちをしていると思った。私は狩野優来の筋肉と、その先の繊維の一つ一つに触れたかったので、彼女の居る坂の上に行こうとした。しかし足を進めても坂にはたどり着かない。私の身体は常に、草原のような涼しい平地の上にあった。
 目をよく凝らして、上を見る。するとじんわりと、見えてくる。狩野優来はその両手の、それぞれの中心に、古いテレビに付いていた、チャンネルを変えるためのダイアルが埋め込まれていた。ニタニタ笑いをこちらに向けている狩野優来。その後ろに広がるのは緑色の空。私は気づけば、赤い鉄骨の橋の上に両足を付けていた。
「一緒に、ファミリィ・レストランに行こう。あそこなら、どうしようもないしなしなポテトも、やる気の無い店員の尿意だって食べ放題さ!」私はファミリィ・レストランの名物たちに思いを馳せる。小学生のような頭の悪さ、幼さを駆使した油使いの料理たちに舌が舞い踊り、脳がコカイン星を一周したような感覚に臓器が浮いた。両目を瞑ってめまいを殺すと、すぐに目の前の狩野優来を視認する。しかし彼女は膨らんだ頬を紫色に点灯させて、その優しく脆い光を左右に震わせるだけだった。これは私の提案が気に入らなかったときの合図だ。私はこの狩野優来という女性とは幼馴染だった。注射器を分け合う幼馴染の間柄……。
「そうかい。人が多い場所は嫌いなのかな。えへへ」必死に誤魔化しながら、右腕の注射痕をワイシャツの上から撫でていく。過去に彼女にも施した手つきを、堂々と彼女に見せる。「……でも、でもさ。ちくわぶだって、キミのことを迎え入れてくれるだろうし。私はそれが嬉しい。あと、家族とは籠城的な存在なのかもしれない。少なくとも、二十世紀の後半の私の頭の中では、その概念が固定化されていたから」私は都市部のことを思い出す。上空から都市部に落下しているような、あの浮遊の感触ですら全身で感じ、そのまま高級鉱石を使った自宅に突っ込んでゆく。「……まるで使い古したフライパンにこびりつく、スクランブルエッグの残りカスのように」
 私は自分の頭の中で、三度目の自宅落下を無事に終えた。木製テーブルの上のぶどうジュースを必死に舐めている弟と、それを満足そうに眺めながら、露出した男性器からオレンジ色の尿を垂らしている父が居る。私はすぐに自宅の出入り口から飛び降りて、金色の階段に両肩の骨を落としながら外に出た。
 濃い紫色になっている太陽に、野菜の臭いが漂う全身が炙られている。汗という油が、緑色の血管を滴っているのを感じる。私はすぐにあの丘に戻ろうと決心をした。そして、後半戦が始まって間もない熱気に包まれた、蒸れた野球観戦の現地客席に居るような女性販売員から紙コップのシャンパンを購入し、一口だけ飲んでから彼女の存在に疑問を抱く。
「君は、どうしてここに居るの?」
 彼女はオレンジ色のバイザーを被り、同色の半そでシャツに私と同じように黒色のスカートだった。こげ茶のポニーテールが揺れ動き、見え隠れする隙間からこちらに突き刺す日光によって、私は両目を瞼裏の血管に埋め尽くされる。困惑をしているらしい彼女の顔が数分後に映る。ようやく私は自分が千鳥足で後退していることに気が付く。二度目の悲鳴が頭に響き、教会の上にあるような巨大な鐘が鳴ったと思い込み、白くなった視界に、冷たい清潔感が塗られた彼女の顔と、汗の動物的な臭いが溶けていく……。
 脳内に飛び散った閃光が消えて無くなるころには、私はしっかりとした球児の装備で、何人もの女の頭を跳ね上がらせた、父親譲りの、糞垢まみれバットを握りしめていた。
「行け―! 殺せー! あと三点だ!」
「打てよぉ。打てよぉ……明日のドックフードは、鉛筆削りで作ったカマボコだけだぞお!」
 サイレンのような歓声によって、私は立っている。目頭に力を加えると、ミミズが死ぬ音が鳴る。すぐにプロ野球戦士の表情が顔に張り付いた。ふかふかの土で出来ているグラウンドから、木製のなめらかミミズが這い上がって来ている。
 対面に居る投手。インドカレーを重火器の形に固定する特殊工程を趣味としているゲイの彼は、やはりインドカレーの臭いが噴き出ている黒色のグローブを丁寧に握りしめている。こちらの位置でもスパイスが香る。彼は、痣だらけの腕が自慢の短髪女子マネージャーの眼球を受け取っている。私はその身振りだけで、彼が絶対的な主従関係の上位に位置し、私のバットを投球の威力だけで破壊しようとしていることを誰よりも理解する。ありきたりな若い薬物常用者らしい乾燥した灰色の肌に、焦点が回転している眼球を持った捕手の助言を無視し、私はいつの間にかミミズの色に変化しているバットを握りなおす。三度目のサイレンが鳴り響いた。
 熟成しきった投手が実際に投げる時、腕は上質な鞭のようにしなやかに流れる。その瞬間に限り、骨格や筋力の人体的法則は無へと消え、弾丸とも比喩できる強力な豪速球が放たれる。私はバットを握る。白いマスキングテープに汗が染み込む。鉄と糞の臭いが包む。勢いよく振るうと同時に、全身に豪速球が感じられる。抵抗力に快感を得ながら突き飛ばし、バットを担いで走り出す。私は野球の心得など一切無かったが、それでもここは走り出さなくてはならないと思った。蒸れている頭蓋骨の中の、饅頭のような脳は機能していない。うなじ辺りの即席司令部が私の足を動かしている。
 それから、あの野球場での試合がどのような運びになったのか、それを私は知らない。二酸化炭素に包まれる形で霧の中に入った私は、かかりつけの精神科医の待合室で流れている子宮のような音楽を一瞬だけ耳で感じ、すぐに球児用装備を脱ぎ捨て、尿の温かさがあるオーバーホールに着替える。液状になった私の脳は、すでに現在がバイトの時間であることを誰よりも理解していた。
 六度目の三十五年と四月の解剖授業。私の前の席の赤パーマは、必死に蛙の残骸を舐めていた。さらに授業終わりには、あと片付け係を率先して引き受けた。私はその瞬間に一人で確信した。あの変態野郎は独りになった途端に、大量の蛙の死骸を食べるつもりだ。
 私は屋上にて、解剖学の担当講師を二つの肺の中心部にて思う。彼は時より彼女にも成り、私を含んだ高度なスカート好きの医学生に鮮血の美しさを説いた。そのたびに私は、テレビのコマーシャルで目にする眼鏡を掛けた精神科医のことを考える。彼の目……おそらく彼はいつでも彼……の目は、人間を見ているようで見ていないと私は思う。いつでも心臓の鼓動を想っていて、彼はおそらく解剖学者になりたかった。
 綿毛が良く燃えるこの世間では、解剖学者や精神科医は麻薬取締官と同等の、高貴な職として知れ渡っている。しかし世間の民衆は、たとえ市役所職員であろうと、彼ら彼女らが実際には何をしているのかを知らない。本当に高貴で質の良い人間は、こぞって薬物常用者になっていることも知らない。実際のところ、この世間においては、解剖学者も精神科医もスカートが好きで、どこの老舗よりも好奇なのだ。
 白色の自動販売機が、アルバイト先のコンビニエンスストアに実装された。私は必死にカワウソを解体する。いつかの授業で教わった解剖術。それをコンビニエンスストアの店長に見せつける。すると、はげの彼は喜んで、カワウソの皮フライを新メニューにしようと提案してくる。上機嫌な彼は発酵作用のある汗をはげ頭に浮かばせて、奥のバックヤードでさっそく提案書を執筆する。私は十匹目のカワウソにメスを入れる。
 この世の物とは思いたくない臓物が私に姿を見せるたびに性器が上を向き、すぐに硬くなっていく。私は利き手でそれをなだめながら、溢れた白い液体を最新の揚げ物製造機に垂らし終えると同時に、タイムカードを店員のはげ頭に張り付けた。
「あれ、もう上がりだっけ?」タイムカードははげ頭からの白い光で神々しくなっていた。
「ええ。今日はもう一つの方に行かないと」
 私は学生鞄をわざとらしく揺らす。中の軍服が擦れる音が発生する。
「ああ、そう。お気を付けて」
 店員は提案書に顔を落とした。私は、戦場の臭いを鼻孔に呼び起こす……。

 恍惚たる夢心地とは、この浮遊感のことを指すのだろう。私は自分の赤色自転車で、ぬちゃぬちゃと煩い巨大な坂を下りながら、全身を素早く撫で上げている、温かい風に身を預ける。季節が移り変わるよりも素早く両目を閉じ、すぐ隣を走る紫色の大型車両の存在を思考の奥に追いやると、自分が優雅な鳥類になったと感じる。
 鳥類六千年の歴史や、それに伴う生死がなだれ込んでくる……。黄色いラブホテルの面影を忘れ、私は充実している大学生活を噛みしめた……。思わず両手を広げると、大型車両は青い翼になる。瞼がどの位置にあるのかがわからなくなると同時に、全身が雲に飲まれる。水平に伸ばした翼を二度羽ばたかせると、ひときわ強い上昇の後に、冷たい下降の突風が全身を抜けて、溶ける。
 私はどこかへ潜っていた瞼の位置を無事に見つけることができた。
 紺色の空に、橙色が伸びている。雲なんてものは一切無かった。それがどうしても気になった。私はすぐに自分の眼球が誰かの機械的実験に利用されていることを理解し、新しい報告書の中心に万年筆の先端を描いた。林檎の皮のような赤いインクはすぐに行動を開始し、二人の男を描き出してから、彼らと共に鳥類を唱える。
 私は報告書を引きちぎり、横断歩道を渡りきった。

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