見出し画像

立教開宗800年の意義③

(21)法友との交流④ 明遍僧都②

2023年4月17日

 隆寛律師の弟子の信瑞が書いた『明義進行集』には、明遍僧都と法然聖人との問答を伝えています。(井川定慶編『法然上人伝全集』996~997頁)
 明遍僧都は、ある年、長野の善光寺にお参りしようと思い立ちました。そのついでに小松殿におられる法然聖人にお目にかかろうと、「お遇いしたい」と連絡すると、法然聖人から「お越しください」というご返事がありました。2人の対話は、どんな問答になるのかと、皆がワクワクしながら待っていました。

 法然聖人がさきに客殿で待っていると、明遍僧都が明かり障子を引いて入ってきました。互いに顔を見あわせるや、明遍聖人はまだ座りもしないうちに、いきなり質問しました。
「末代濁世のわたし達のような罪深き者は、どのようにして迷いの生死を離れることができますか。」
 
法然聖人は、お答えになります。
「南無阿弥陀仏と申して、極楽に生まれるのを望むのが、わたし達にできることだと思っています。」
 明遍僧都は、言います。
「それは、よくわかっています。そのことをはっきりさせるために問うたのです。」
 明遍僧都は、再び問います。
「念仏は称えても、心が散り乱れるのはどうしたらよいでしょうか。」
 法然聖人は、お答えになりました。
「それは、この源空もどうすることもできません。」
 明遍僧都は、さらに問いを重ねました。
「それを、どのようにされていますか。」
 法然聖人は、お答えになります。
「心は散れども、なおも称えれば、仏の願力に乗じて往生すると思っています。」
 明遍僧都は、言いました。
「それだ、それだ。それを聞きたかった。」
 そう言うと、すぐに出て行きました。

 初対面の法然聖人に対して、始めの挨拶もなければ、終わりの言葉もありません。聞いていた念仏聖たちも、「ほんとうに道を求めている人だ」と感嘆しました。明遍僧都が出て行った後で、法然聖人はそこにいた念仏聖たちに語られました。
「欲界に生まれた人には、みな散り乱れる心しかありません。それは生まれた人に、目や鼻がついているようなものです。散り乱れる心を捨てて往生しようというのは、不可能です。散り乱れる心のままに念仏する者を往生させるのが、本願の尊いはたらきです。この明遍僧都が、念仏をしても心が散るのをどうしましょうかと疑問に思われたのは、心が散らない念仏があると思われたのでしょうかね。」

なもあみだぶつ。合掌。



(22)法友との交流⑤ 遊蓮房円照

2023年4月18日

 遊蓮房円照(1139~1177)は俗名を藤原是憲といい、藤原道憲(信西入道、1106~1160)の三男で、弟が明遍僧都です。平治の乱によって父が殺され、一族が配流になった平治元(1159)年に、21歳で出家します。
 京都西山の広谷(京都府長岡京市粟生付近)に草庵を結びました。始めは『法華経』を覚えましたが、後には一向念仏者となり、経典や書籍は一巻も持たなかったといいます。善導流の念仏を実践し、毎日三時に高声念仏していました。高声念仏は必ず現徳を得る行であるとし、念仏三昧において極楽の荘厳を観察するなどの証(あかし)をたびたび得ていました。
 身体は細々としていましたが、わずかに歩くにも極楽の曼荼羅を首にかけ、休むときには西にかけて六時礼讃を唱え、念仏していたのです。道心は堅固で、まったく俗に交わることがなく、一族から仏さまのように尊敬されていました。

 遊蓮房は、法然聖人(1133~1212)と同じ叡空上人の弟子の、信空上人(1146~1228)の叔父にあたります。おそらく信空上人の紹介で遊蓮房を知った法然聖人は、43歳の廻心以後に比叡山を下りて、西山の広谷の草庵で遊蓮房と一緒に住みます。やがて遊蓮房は広谷の草庵を法然聖人に譲り、善峰に移って往生を遂げてゆきます。その臨終の導師を勤められたのが、法然聖人でした。

 臨終に望んで、9遍まで念仏を称えたところで息絶えようとしたので、法然聖人が「もう一念」と励ましました。遊蓮房は、高声に一声称えて往生したのです。39歳でした。後に法然聖人は、「今生の思い出は何ですか」と尋ねられ、「善導大師の浄土の法門に遇えたことと、遊蓮房に遇えたことがこの世の思い出です」と答えられています。
 念仏往生の姿を、実際に見せてくださった方が、遊蓮房だったのです。
 法然聖人は、遊蓮房から譲られた広谷の草庵を、東山の地に移築します。これが、吉水中ノ房と称される房舍です。ここにたくさんの方がお参りに来られるようになりました。

(参照 『新纂 浄土宗大辞典』「遊蓮房」「広谷」の項。『明義進行集』二「第二高野僧都明遍」)

なもあみだぶつ。合掌。



(23)法友との交流⑥ 顕真法印① 

2023年4月19日    

 顕真法印(1131~1192)は、梶井門跡の最雲や明雲の弟子となり、天台の顕教を中心に学んでいました。承安3(1173)年、43歳の時に法勝寺御八講講師を辞退し、大原の龍禅院に隠居します。寿永元(1182)年、源平合戦で荒れた世相を回復し平和を祈念するために、『法華経』の読誦や書写を貴族や民衆に勧めます。翌年、木曽義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で、流れ矢に当たって師の明雲が死亡しました。
 この年、顕真は法印となりますが、京都に出ることなく大原に留まります。大原での籠居は17年におよびました。建久元(1190)年に、第61代天台座主に任命されます。その在任中に病いで亡くなります。62歳でした。

 この顕真法印が生死を超える道に悩み、文治2(1186)年に法然聖人(1133~1212)を大原に招いて、浄土教について教えを請います。これが世にいう大原問答です。

 きっかけは、顕真法印の悩みを聞いた永弁法印が、法然聖人を勧めたことでした。
「近頃、都に法然房という者がいて、念仏の教えを説いているそうです。一度お遇いになってみてはいかがですか。」
 それはよかろうと、法然聖人に使いの者を出しました。
「今度、比叡山に行かれる途中で、ご連絡いただけませんか。」
 法然聖人から快諾をえて、2人は比叡山のふもとの西坂本で遇うことになりました。

法然聖人に遇うと、顕真法印は尋ねました。
「この度どのようにしたら生死を離れることができますか。」
 法然聖人は、お答えになります。
「それはあなたのお考えのままになさったらよろしいでしょう。位からいっても、わたしがあなたに説くことではなく、あなたがわたしに説いてくださることです。」
 顕真法印は、言いました。
「わたしなりに思うところはあります。しかしあなたは浄土教の先達です。仏道は位ではありません。お考えがありましたらお示しください。」
 法然聖人は、お答えになりました。
「わたし自身のことで言えば、思い定めていることはあります。すみやかに往生極楽を遂げようと思っています。」
 顕真法印は、お尋ねになりました。
「わたしは、このいのちが終わっても、直ちに極楽に往生できるように思えません。それでお尋ねしているのです。」
 法然聖人は、お答えになりました。
「仏の覚りを開くことは難しいですが、弥陀の浄土に往生することは易しいのです。道綽禅師や善導大師の意によれば、仏の願力を仰いで強縁とするので、凡夫が浄土に往生することができるのです。」

 その後、顕真法印が何もお尋ねにならなかったので、法然聖人も何もお答えにならないまま、2人は分かれました。(つづく)

 (参照 『新纂 浄土宗大辞典』「顕真」「大原問答」の項)




(24)法友との交流⑥ 顕真法印②

2023年4月20日

 坂本から帰ってきた顕真法印は、こんな感想を述べました。
「法然房は、智慧は深いようだが、少し偏っているようだ。」

 この言葉を、法然聖人に伝える人がいました。法然聖人は聞いて、次のように言いました。
「人は、自分が知らないことを聞くと、必ず疑いの心を起こすものだ。」

それがまた顕真法印の耳に入りました。顕真法印は、愕然としました。
「誠に、その通りだ。わたしは天台の顕教や密教について学んできたが、それも名利のためであって、覚りをめざすものではなかった。浄土に生まれたいと思わなかったので、道綽・善導の浄土教を学んだこともない。法然房でなければ、だれがこのような厳しい指摘をしてくださるだろうか。」

 顕真法印はそれから大原で、100日間浄土教を学んでゆきます。そして、再び法然聖人に使いを出しました。
「先日は失礼いたしました。もう一度、お教えいただきたい。」

 法然聖人が了承されたので、今度は顕真法印の隠遁の地の大原の勝林院でお遇いすることになりました。(つづく)

なもあみだぶつ。合掌。




(25)法友との交流⑥ 顕真法印③

2023年4月21日

 文治2(1186)年に、大原の勝林院で行われた顕真法印と法然聖人との対論には、いろいろなお方が集まってこられました。顕真法印56歳、法然聖人54歳です。東大寺を再建されている最中の俊乗房重源(1121~1206)も、30人の弟子を連れて参加されます。重源上人は66歳になっていましたが、いまだに自身の生死を超える道が見いだせずにいました。それで、法然聖人に誘われたのです。
 親鸞聖人編集の『西方指南抄』「源空聖人私日記」や、覚如上人の『拾遺古徳伝絵詞』巻4末第2段には、明遍僧都や解脱上人貞慶の名前もあります。(『浄土真宗聖典全書』3巻963頁、4巻157頁)醍醐本の『法然上人伝記』(『同前』6巻698頁)や『法然上人行状絵図』第14巻第1図(井川定慶編『法然上人伝全集』62頁)には見えません。この方々は、参加されていなかったようです。

 問者は大原の本成房で、論争は一昼夜におよびました。『法然上人行状絵図』には、法然聖人の答弁を次のように伝えています。

「法相、三論、華厳、法華、真言などの法は、みなその法義は深く、利益も勝れています。機と法がかなえば、いずれも覚りに至ることができるでしょう。しかし源空のような愚かな者は、その器でないので、覚りがたく、迷いやすいのです。
 いま善導大師の教えや浄土三部経のこころは、阿弥陀如来の願力を強縁とするので、智慧のある人もそうでない人も、持戒の人も破戒の人もわけへだてなく、煩悩の垢れがまったくない無漏無生の浄土に生まれることができます。これが浄土門であり、念仏一行の仏道です。」

 このように法蔵菩薩の本願から、阿弥陀如来の今日の救いに至るまで、本願の念仏によって往生することを詳しく説かれました。その迫力に、姿を見れば法然聖人、まことには阿弥陀如来の応現であると、人びとは感嘆しました。
 参集の人びとは喜んで、それから3日3晩念仏を称えながら、弥陀如来像の周りを行道したのです。
 重源上人は、思いついたことを人びとに披露します。死んだ後に閻魔さんが名前を尋ねた時に念仏を称えることができるように、法名を「○阿弥陀仏」とつけようというのです。仏師の快慶の法名が「安阿弥陀仏」であるのは、ここに由来します。重源上人自らは「南無阿弥陀仏」と名のりました。
なもあみだぶつ。合掌。



(26)法友との交流⑦ 重源上人

2023年4月22日

 俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん 1121~1206)は、中国の南宋に3回も渡り、最新の文化や建築技術を習得された方でした。
 治承4(1180)年、奈良の東大寺の大仏殿は、平重衡が放った火が延焼して、避難していた村人3000人とともに焼け落ちてしまいます。その再建の任に当たられたのが、大勧進聖と称された重源上人です。江戸時代の歌舞伎で有名な弁慶の勧進帳は、この東大寺の勧進を題材にしています。
 盧舎那仏像の大仏もほとんどが焼け落ち、その上を覆う大仏殿の再建も、たいへんな苦労がありました。近畿一帯に大きな材木は残されていなかったので、周防国德地(山口市德地)から、佐波川に118カ所の堰を設けて、長さ39m、直径1.6mの巨木を奈良まで運び出したといわれています。
 重源上人は、建仁3(1203)年に、自身が行った善根をまとめた『南無阿弥陀仏作善集』を著します。それには、東大寺や各地の伽藍や仏像の造営や、南宋の阿育王寺への材木の輸送や、若い日の山林修行や、人びとに阿弥陀仏号を授けたことが記されています。

 法然聖人との関係は、次のようなことが伝えられています。
 仁安3(1168)年、重源上人が南宋から帰るときに、浄土五祖の像を将来されます。これは渡る前に、法然聖人が「中国には浄土五祖の影像があるから、持って帰ってほしい」と依頼されたことによって探されたものでした。
 文治2(1186)年に、京都大原の勝林院で行われた大原問答にも参列しておられます。
 その4年後の建久元(1190)年には、作りかけの大仏殿に法然聖人を招き、「観経曼荼羅」「浄土五祖像」をかけて、3日間にわたって浄土三部経と浄土五祖の講座をお願いします。その時に法然聖人は、浄土宗の立教開宗の宣言をされます。法然聖人58歳、重源上人70歳でした。
 (参照 ウィキペディアWikipedia・『新纂 浄土宗大辞典』・『法然辞典』「重源」の項。)
なもあみだぶつ。合掌。



(27)法友との交流 ⑦重源上人 ㈡東大寺の説法

2023年4月23日

 建久元(1190)年に東大寺で行われた法然聖人の説法は、鮮烈なものでした。それまでの仏教のすべてを「聖道門」と呼び、それとはまったく違う救いの構造を持つ仏道を「浄土門」として、浄土宗の立教開宗の宣言をされたのです。
 東大寺には戒壇院があり、ここで国家仏教の僧侶が任命される、当時の仏教界の中心的寺院でした。その東大寺で、新しい仏教の独立宣言を行うのですから、剛胆というか、とても真似はできません。
 当時の仏教界は、中国から伝わった三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の南都六宗と、伝教大師最澄の天台宗と、弘法大師空海の真言宗の平安二宗の、八宗しかなかったのです。
 奈良の都に激震が走りました。

「法然は、自分が伝教大師や弘法大師ほど偉い人間だと思い上がっているのか。最澄も空海も、中国に渡って、師から仏法を伝授されている。法然は、中国に行くこともなく、師から教えを伝えられることもなく、善導大師の本を読んだだけで一宗を開くという。天皇の許しも得ずに、勝手に浄土宗となのるのは不当である。」(『興福寺奏状』第1条)

 この批判に対して、法然聖人は次のように答えています。

「わたしが浄土宗を開いたのは、勝他や名利のためではない。ただ凡夫の往生を示さんがためである。」
(醍醐本『法然上人伝記』、『浄土真宗聖典全書』6巻700頁)

 こうして凡夫が直ちに弥陀の浄土に往生できることを明かされたのが、本願念仏の仏道でした。

なもあみだぶつ。合掌



(28)法友との交流 ⑦重源上人 ㈢立教開宗の意味

2023年4月24日

 東大寺の説法をまとめたものが、『浄土三部経釈』だといわれています(『法然辞典』7頁)。そこには「立教開宗」と明記されています。(『浄土真宗聖典全書』6巻279頁)
 後の建久9(1198)年に著された『選択集』は、立教開宗の書ですが、この言葉は見えません。58歳の東大寺の説法と、66歳の『選択集』選述の間に、何が起きたのでしょうか。

 建久5(1194)年、京都で禅宗を広めようとしていた大日房能忍(生没年不詳)や栄西禅師(1141~1215)が、延暦寺や興福寺からの排斥をうけて、朝廷から禅宗を禁止する宣旨がくだされ、追放されます。一宗を独立することが、どれほどの重みを持っていたか、今からは想像もできません。

 天台宗や真言宗や南都八宗も、修行によって悟りに至ることを説いています。それに対して念仏は、修行に入るために心を整える前方便にしか見られていませんでした。
 それを念仏一行こそ、万人が平等に往生することができる、真実の仏道であると開顕されたのが、法然聖人です。念仏こそが、弥陀の本願によって誓われた往生行であり、このことを説くことが釈尊の本意であり、諸仏の勧めであるというのです。(『選択集』八選択の文、『註釈版』七祖篇1285頁)

 法然聖人が浄土宗の独立を宣言されたことは、寓宗的な地位にあった浄土教の価値を上げたということにとどまりません。
 当時の民衆を支配していた律令国家に従属する、天台・真言・華厳・法相・三論などの顕密体制による宗教的な権威から解放し、人びとに新しい本願念仏の地平を開いていったのです。

なもあみだぶつ。合掌。



(29)法友との交流 ⑦重源上人 ㈣東大寺十問答①

2023年4月25日

 建久元(1190)年に行われた東大寺での説法の翌年の3月13日に、重源上人は法然聖人に質問しました。その内容が、「東大寺十問答」として伝えられています。
(『拾遺和語灯録』卷下、『浄土真宗聖典全書』6巻654~659頁)

 最初の問いは、法然聖人が、仏教を大きく聖道門と浄土門に分けられた教相判釈についてでした。

「釈尊一代の聖教を、みな浄土宗におさめるのですか。それとも、浄土宗のなかにあるのは『大経』『観経』『阿弥陀経』の浄土三部経だけですか。」

「南都六宗や、天台・真言の平安二宗や、近頃盛んな禅宗にしても、みなそれぞれの教義において、釈尊が説かれたすべての聖教のなかで自らの教えがどのような意味を持つのかを解釈しています。
 いま浄土宗も、釈尊のすべての教えを聖道門と浄土門に分けます。聖道門のなかに、権教と実教があります。浄土門に、十方浄土と西方浄土があります。西方浄土に、雑行と正行があります。読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行の前三後一が助業で、第四の称名が正定業です。
 聖道門は、末法の時代に機根が劣っている者には、悟りに至ることは難しいのです。それに対して浄土門は、弥陀の本願によって往生して迷いの境界を離れるのですから、だれでも往きやすいのです。それで、聖道門を捨てて浄土門に帰し、雑行を捨てて称名正定業に帰しなさいと述べたのです。
 一宗を独立する教相判釈を知らない人が、“浄土宗のなかにあるのは浄土三部経だけだ”と非難しているのです。」

 次に重源上人は、正行と雑行について尋ねました。
「正行も雑行も、どちらも本願ですか。」

「念仏は、本願です。十方三世の諸仏菩薩に見捨てられたわたし達を助けようと、阿弥陀さまが法蔵菩薩であったときに、五劫もの長い間にわたって思惟し、兆載永劫の修行をして、救いの法を完成されたのが、本願の名号です。
 雑行本願ということは、決してありません。雑行は、仏智を疑う罪により、真実の報土に生まれることはできず、極楽の辺地にとどまるのです。仏にあうことも、教えを聞くこともできません。
 これは道心もないものが、ちょっと物を知っている山寺法師に誉められようとして言ったことです。釈尊の本意にも、弥陀の本願にも外れています。」

(つづく)



(30)法友との交流 ⑦重源上人 ㈣東大寺十問答②

2023年4月26日

 重源上人は、さらに法然聖人に質問しました。
「三心を具足している念仏者は、必ず往生できるのですか。」

 法然聖人は、お答えになりました。
「できます。至誠心・深心・廻向発願心の三心に、智具の三心と行具の三心があります。
 智具の三心とは、諸宗を学んでいる人が、浄土宗に説く仏智を知らないので、信じることが難しい人に対して、お経にはこのように説かれている、祖師方はこのように解釈されていると詳しく説明して、信心を取らせようと説かれることです。
 行具の三心とは、ひとすじに帰依するのが至誠心です。疑いの心がないのが、深心です。往生しようと思うのが、廻向発願心です。このように一向に念仏して、疑いの心なく往生しようと思うのが、行具の三心です。
『往生礼讃』に説く五念門も四修も、一向に信じる者には自然に具わるのです。」

 重源上人は、問いを重ねます。
「念仏するときに、念珠を持たなくてもかまいませんか。」

 法然聖人は、お答えになります。
「必ず念珠を持つべきです。念珠をくりながら、念仏しなさい。世間に、歌を歌ったり舞を舞うのにも、拍子によっています。念珠を手がかりにして、舌と手を動かすのです。
 ただし、念仏していても、妄念は起きます。その時は、妄念を数えているのではなく、念仏の数を数えているのですから、念仏が主人で、妄念はお客さまです。
 念仏を称えながらも、妄念が起こるのを許していてくださるのは、阿弥陀仏の深いお恵みです。
まして、嘘や悪口を言いながら念珠をくることは、あってはなりません。」

 重源上人は、大仏の功徳についても質問しました。
「この大仏を礼拝すると、大仏の力で浄土に送ってもらえますか。」

 法然聖人は、お答えになります。
「大仏の力では、浄土に行くことはできません。
 仏・法・僧の三宝について、3つの見方があります。
 1に一体三宝です。仏・法・僧とも、法身のさとりから現われたものです。
 2に別相三宝とは、十方の諸仏が仏宝、その智慧と説かれる教えが法宝、三乗の弟子が僧宝です。
 3に住持三宝とは、絵像木造が仏宝、経典が法宝、出家の弟子が僧宝です。
 もし大仏が迎えに来てくださるのでしたら、別相の三宝と住持の三宝と混同することになります。
 大仏はこの世にとどまり、行者は西方にゆくことは、ありえないのです。ただし、浄土の仏に心がひかれ、その形を作ってご恩に感謝することは、功徳をうることです。」

(つづく)

岡本 法冶
本願寺派布教使・輔教
真宗学寮教授・広島仏教学院講師
https://fukyo-shi.com/okamoto-houji/

いただいた浄財は、「新しい領解文を考える会」の運営費に活用させていただきます。