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福岡教区学習会レポート

福岡教区遠賀組妙楽寺衆徒
岡部陽介(36)

9月26日、本願寺福岡教堂で開催された宗派主催の「新しい領解文」の学習会に現地参加しました。開会にあたり、真宗宗歌を1番のみ斉唱した後「新しい領解文」の唱和がありましたが、声高らかに「本来の領解文」を出言される方、「南無阿弥陀仏」とただお念仏のみを称えられている方、これらの方が多数おられ「新しい領解文」の声はほとんど聞こえず、異様な雰囲気でのスタートになりました。

まず総合研究所所長の満井秀城和上よりスライドを使用したご講義がありましたが、これにより私は「新しい領解文」に対する疑問がますます深まってしまいました。全て挙げると長文になりますので避けますが、最も気になったのは、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ、そのまま救うが弥陀のよび声」という文章の解説です。和上は「仏知見から言えば迷いもさとりもない、あらゆるものを平等にみつめるさとりの智慧」とおっしゃられましたが、そもそも領解文とは自身の安心を衆生の側から語っていくものです。仏知見をもって私の領解とする理由がそもそもわかりませんし、はたしてそのような理解は許されるのでしょうか。これは今まで聞いたこともない論理でしたし、このような説明が可能となる根拠がお聖教のどこにあるのかということも不明なままでした。仮にそのような論理が成り立つとしても、平易でわかりやすく、現代の若者に対して伝わりやすく配慮されたはずの文章が、このような表現で語られるのはやはり理解に苦しみます。

私はこの学習会に参加するまで、これは「私が理解出来ていないだけ」であり、しっかり説明を聞けばきっと意味がわかるはずだと思っていました。しかし、その期待は見事に裏切られました。聞いても全然わかりませんし、ますます混乱が深まっていくのです。私の理解力不足が問題だと自分を責めながら講義を聞き続けるのは、精神的にかなり辛いものがありました。勧学寮からは長文で難解な解説が付され、「真宗教義に沿った解釈を基礎に持たないと誤解が生じる可能性があるため、解説を熟読してほしい」という見解が述べられていますが、まさにその通りであると痛感いたしました。休憩時間を利用して参加者の何人かにこの思いを打ち明けましたが、みな同じようなことを思っておられたようです。そもそも今回のような長時間にわたる説明がなぜ必要なのでしょうか。学習会が開催されていること自体に疑問を感じます。繰り返しになりますが、多くの方が矛盾を感じ、説明を聞いてますます不安が広がるというのはどう考えてもおかしいです。そして今まで私が聞き続けてきたご法義とはまったく合致しないことがわかり、崖から突き落とされたような気分になりました。

満井和上の講義の後、質疑応答の時間が設けられました。特に印象に残ったものを紹介いたします。

①「新しい領解文」の発布による現場の混乱をどのように認識し、どのように対応をとっていくつもりなのかという問い。

総局は「それなりに混乱は認識しているが、学習会をすること、法規に則って動くことしか出来ない。」という返答。どれほど混乱が広がってもこれ以上の対応はしないのかという問いには、そうではありませんと言いつつも、具体的なことは何一つお答えがありません。唱和を推進していくという基本方針は変えられないということだそうです。その答えに宗意安心よりも法規の方が大事なのかと感じましたし、法規そのものにご法義や御門主様を傷つけてしまう“欠陥“があるのではないかとも感じました。

ある参加者は、「私は本来の領解文でご法義をずっと聞いてきました、領解文は私の骨肉です。それを差し置いて、今まで聞いてきたご法義とは異質とも思える新しい領解文を唱和せよと言われるのは、私の身体を切りなさいと言われるのに等しい」と訴えられたご門徒さんの切実な声を紹介しました。しかし、それに対しても、もし自分がその声を聞く立場だったらつらいでしょうねと、何か他人事のように返答された印象でした。

②「本来の領解文から次第相承の善知識が省かれているが、隠れ念仏などまさに命懸けで教えを伝え残してくださった方々や、この教えが私に届くまでの先人たちのご苦労はどうするのか」
「新しい領解文の“歴代宗主の尊いお導きによるものです”という文言は、御門主が自分を崇めろと言っているという意味になってしまわないか」
「新しい領解文は本当にご門主がお書きになったのか」

この問いに対して総局はなんと「御門主の“ご意志”である。書いたかどうか私はそこの内情を存じません。」という驚くべき返答をしました。また、善知識に対しては満井和上より、「私は御門主が自分を含めておっしゃったのではないと思う。先人たちのご苦労を無にしたわけではない」という内容を言われましたが、ならばなぜ誤解されるような文章になっているのだろうかという疑問があります。

ここ以外にも多くの疑問点や法義と照らしておかしな文言が散見される「新しい領解文」ですが、満井和上は、「このように解釈すれば誤りではない」「御門主の深意をくみ取りましょう」というような解説を繰り返されました。しかし、そもそも、解説を加えなければおかしく理解されてしまう文章が“領解文”として世に出されたことに極めて大きな問題があるのではないかと思いました。

③「戦後教育を受けてきて自己肯定感が強い現代人には、いきなり罪深い、浅ましいと言われたら反発される恐れがあるから機の深信は出さなかった、『一念多念文意』の理解は動かないと満井和上はおっしゃられますが、文書に出てなかったら伝わりません。機の深信をあえて説かなかったというよりも、もはや機の深信を否定しているようにしか聞こえません」

それはご留意を頂きたい。ご消息に少しずつ執われの心を離れるとあるけれども、お育てを受けた中で少しずつということはありうる。しかし、臨終の一念に至るまでとどまらず消えず絶えずとは私どものあり様だと根底に踏まえておくべきだ」と苦しい返答を終えた後、同質問者が「あと先程の所長の説明では、機の深信は戦後教育を受けた人間には時代遅れであると受け取れかねない」という厳しい指摘もありました。

④「過去4教区(北豊・安芸・熊本・佐賀)の学習会では全く受け入れられていない。それはなぜだと考えるのか。混乱している原因は、今回の消息発布は総局の責任では」

「手続き上の責任はあっても内容に責任は無い」と公文名総務が発言。これは責任逃れのように聞こえました。御門主や勧学寮に責任があるように受け取れます。これで「門主無答責」が成り立つのでしょうか。申達した総局が責任を持たないとなると、一体、この責任の所在はどうなるのだろうと思いました。

⑤現代の社会状況を鑑みてこの領解文を出したというのならば、今後50年後にまた社会状況が変わったら、「“新しい”新しい領解文」が出るのか。

これに対して総局はわからないと言いつつもその可能性を示唆しました。予測はしにくいが状況の変化の中で新たな消息が出るかもしれないということでした。もし「領解文」を「新しい領解文」として作り直すとするならば、例えば真宗宗歌がそうであるように、今後100年、あるいはそれ以上に大切に扱われる御文として世に出してほしいと思います。次の世代、はるか先の未来の世代のためにも誤ったご法義の文章を決して掲げてはなりません。それが今を生きる私たちの責任であると私は思います。もし今後のことを見据えずに、今の御門主の代においてのみの観測でこの文章が出されたのだとするならば、これはとても悲しくて危ういことだと思います。

質疑応答の予定時間が過ぎても参加者からの質問は最後まで止まることなく、残念ながら時間切れとなりました。発言ができなかった方も多く、発言できた方でも本当はまだ言い足りなかったと数人の方が言われていました。また思い余ってマイクを持たずに発言される方や、総局の返答に「ちゃんと答えて下さい」という厳しい指摘の声も挙がるなど、今までに経験したことのないほど紛糾した学習会でした。最後に議長が、参加者全員に納得できたかどうかをお尋ねされましたが、ほぼ全員ができなかった方に手を上げました。そして、「これが福岡教区の現状です」と、議長が総局に告げられ、学習会は幕を閉じました。

総評

彼岸の最終日にも関わらず、各地で教えを説いておられる宗学者様、布教使様の姿が多く見られたのは大変ありがたいことでした。そしてそんな方々からも、周囲で戸惑いの声があるということを聞き、事態は深刻であることを憂うばかりです。

総局は同じことを何度も繰り返され、納得できると感じられた答弁は一つもありませんでした。また質問の度に顔を曇らせたり、言葉に詰まったり、慌てたりしていたことも印象深いものでした。もしかしたら総局の方々も立場上、業務を遂行しているだけで、本心では動揺し納得されていないのかもしれません。法規と法義は一体どちらが大切なのでしょう。法義であることは当然ですが、総局がそのような姿勢であるかというと、残念ながら私の目にはそのようにうつりませんでした。

満井和上におかれましては、時間をかけて丁寧に解説をくださいましたが、やはりそれは満井和上だからこそできる特異で好意的な見方であって、高度な宗学の知識や仏祖に対する尊崇の念を持たない未熟なものがこの文章を読むと、かえって教えを曲解させてしまう恐れがあることはすでに沢山の和上さま方が指摘されています。結局、文章自体がおかしいものは、どれほど時間をかけて素晴らしい解説を施しても正しくは理解されないということです。一般的な僧侶や一御門徒はもとより、特に初めてご縁が結ばれた方がこの文章を見られたとき、浄土真宗のみ教えが誤って理解されることがないと本当に言い切れるのでしょうか。ただ心配だけが膨らんでいきます。以前、本願寺新報の記事で満井和上が「浄土真宗であるかどうか、それは二種深信があるかどうかを照らしてみて下さい」という内容を書かれていたのを思い出します。この「新しい領解文」からは機の深信が読み取れません。満井和上の言われる「現代人は自己肯定感が強い」という認識ははたして正しいのでしょうか。そしてこの文章は、本当に浄土真宗のご法義を聞いている人が書かれたのでしょうか。謎は深まるばかりです。

およそ800年前、御開山様がお示し下さった浄土真宗のご法義は、多くの先人たちの艱難辛苦を経て21世紀を生きる私のところにまで届いて下さいました。親鸞聖人と全く同じご信心のお流れを、聖人一流と申します。今そのことに思いを致すと、ありがたい、もったいないと喜びの思いが自然と込み上げてまいります。この仕合わせを子供や孫、また縁ある方々、次の時代へと伝えていくことができる、そういった教団であってほしいと強く願っています。

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