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領解文問題/武田昭英

武田昭英 たけだ しょうえい
昭和19年生まれ、龍仙寺前住職、本願寺前執行長

以下の文章は、本願寺前執行長の武田昭英氏によるブログ「龍仙寺 前住職の部屋」へ複数回に別けて投稿されていた内容を本人の許可をいただき、まとめて掲載しました。

今、浄土真宗本願寺派が燃えています。新しく制定された領解文(りょうげもん)に異論が噴出しているのです。江戸時代にも教学論争があり、安芸の学僧・大瀛和上(だいえいわじょう)が活躍され裁判にまで発展して正されたことは有名です。今また、新しく出された領解文に大きな問題点がありネット上に投稿が続いています。親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の慶讃法要の今年、親鸞聖人はどんな思いでお浄土から見ておられるでしょうか?

まず、浄土真宗のみ教えって?そもそも仏教とは?から始まります。仏教とは、転迷開悟。迷いに目覚め、悟りを開く。一言でいうと「人身受け難し 今すでに受く」これが言える身となる。仏教の基本です。

迷いから目覚めて悟りを開くには・・・。
まず、迷いとは?悟りとは?迷いって?
「読んで字のごとく」という言葉もありますが、まさに米を書いて走るという字です。すなわち、ただ食事をしていたずらに走り回っている、どこに向かって生きているのか?生まれてきた意味、生きる意味を見失っている状態です。それを転じて方向が定まる、これが転迷開悟。それを目指すのが仏道です。表現を替えれば、「ようこそこの命、有難う」と言える身となることです。

せっかく生まれてきたのに生まれてきたこと・我が命が喜べない。生きる方向を見失っている私たちに、方向を指し示してくださったのがお釈迦さまのみ教え、仏教です。厳しい修行や学文をして自分の迷いの根源である煩悩を解脱(超越)し、悟り(生まれてきた意味と生きる喜びを知る)を開く道を自力聖道門と言います。しかし、それを成し遂げる事ができる人は一部の優れた人しかいません。厳しい修行に耐える意思や体力もなく、仏教の深い学文を学ぶ知恵才学のない私たちは永遠に救われることはありません。

生きる方向を見失っている人々を救うための願いを起こされたのが阿弥陀如来のご本願です。そのご本願は「阿弥陀如来の救いを聞き信じ、お任せする心が起きて念仏を喜び申すものは必ず往生(生き往く道が定まる)・仏の国に生まれてゆける身にさせる」というものです。ここで大切なことは、「信じ喜ぶ心」を恵まれることです。私が信じ喜ぶ事ではありますが、それは阿弥陀様のご本願に起こされた心・すなわち阿弥陀様から恵まれた心だということです。私が信じている、私が喜んでいることが大事なのではなく、「信じ喜ばせている力」阿弥陀様の本願力が確かであるから間違いがない、これを他力廻向の信心といいます。

ところが・・・!
今まで拝読されてきた領解文が昔の言葉で難しいからと、新しく出された領解文に疑義が起こっているのです。簡単に問題点をまとめると

一、後生の一大事という響きがない。
二、善導大師や親鸞聖人が真剣に見つめられた自分自身の現実への自覚がない。
三、お浄土を大自然と混同するかのような表現があって意味不明。
四、阿弥陀様が「そのまま救う」と働きかけてくださることに対して「このまま」と受け止めていること。

という疑問です。

その阿弥陀様のご本願も受けとり違いがあってはいけませんので、このように受け取りましょうという模範となる受け止め方を表現されたものが「領解文」です。お寺で御法話を聞いた後にみんなで唱和することが多いようです。「今日のご講師のお話は、このように聞かせていただきました。」と、みんなで唱和して、親鸞聖人がお示しくださったみ教えの確認をするのです。受け止め方のお手本になる言葉ですから、多くの僧侶、特に真宗の学者の最高峰である勧学や司教という方たちの多くが今回の「新しい領解文」への心配の声を上げていらっしゃることは重大です。

仏教・浄土真宗のみ教えは、この世を楽しく上手に生きてゆこうというものではありません。我が命を無限の過去を背景にしてやっと生まれ出てきた貴重な命と仏教では受け止めます。その二度とない人生を無意味に終わらせたくないという真剣さが「新しい領解文」にはありません。頂いた人生・我が命の重さに驚く感動も、感謝も、そしてそれに応えて行こうとする御報謝の強い思いも微塵も感じられません。後生の一大事(自分はどこへ向かっているのか)という響きが全くありません。

「そのまま」と阿弥陀様から呼ばれた親鸞様は、「このまま」とは一言も仰っていません。それどころか、「身を粉にしても、骨を砕いても御報謝させてもらいます」と90年の御一生を伝道にご苦労されました。私がそのご苦労をも顧みず、安易に「このまま」と受け止めるなら、お念仏のみ教えが真に私を支えて下さる力にはならないでしょう。生涯かけてお聴聞し、信心喜びお念仏相続する姿勢こそが、苦難の人生を支え続けるのです。

本願寺の歴史の中で、宗意安心(しゅういあんじん)のことでこれほど大きな問題になったのは江戸時代に起こった三業惑乱以来です。ご門主に傷がつくことを怖れますが、親鸞聖人は間違った教えを説いた御長男・善鸞様を義絶してみ教えを糺されました。正しくみ教えを伝えてゆくことこそ、親鸞聖人のみ教えを信奉する教団と言えます。

ナントナント
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要だというのに、記念布教は「新しい領解文」について法話をするようにと布教使に指示がでているとのこと。・・・間違った情報かもしれませんが?本来、浄土真宗本願寺派の布教は親鸞聖人の教えを伝えるものであり、親鸞聖人の撰述を中心に仏説三部経、あるいは蓮如上人の撰述を讃題にあげて布教をするものです。その基本を本願寺が壊すとは?それが事実とすれば、本願寺はどこに行くのでしょう?戦前の日本のように政治権力で強引に進めて行こうとする本願寺派、悪い夢を見ているみたいです。

「そのまま」と呼ばれているんだから「このまま」でと考えるのは、至極当然です。でも、親というものは、世間から嫌われるような悪い子ほど可愛いものだと言われますが、救いようのない子ほど親は心を痛め、何とかしたい、何とか良い子になってほしいと願うものです。悪い子になってくれと願う親はいません。その親の願いに気付いたら、子供が申し訳ないと思うのが自然ではないでしょうか。親をこれ以上悲しませてはならないという思いが起こるのが自然であって、悪い子ほど親は心配してくれるのだから「このままでいい」とはならないでしょう。なかなか良い子になれなくても「このままではいけない」という思いが起こるのが親の思いに気付くということです。「そのまま」と働いてくださる阿弥陀様のお慈悲に気付いたら「このまま」ではなく、「もったいない」と御報謝の心となって現れてくるのが自然です。

本願寺教団の教義を守る責任者は本願寺派門主です。しかし、ご門主といえども真宗学学者ではありませんので、浄土真宗の宗学(教義)を守るために勧学尞があり、ご門主の諮問について答申することとなっています。その勧学寮の規定では、宗意安心に関することは全員の意見が一致しなければ行うことはできないとなっていますが、「新しい領解文」はそれが怪しいのです。当時の勧学尞頭はすでにこの問題発生の後、体調不良を理由に退任されました。いずれ明らかになる、いやならねばなりませんが、ご門主を傷つけることにもなるだけに皆さん口が重いのではないかと思われます。

これだけ問題があり、真宗学者の最高学位である勧学・司教の多くが声を上げているのになぜ、取り下げないのでしょうか。すでにご門主が了解されているからということと、宗門の議決機関である宗会で議論が行われたものの反対意見は少数だったことです。宗会議員の約4割を締める門徒議員には真宗学のことが分かっている人は少なく、僧侶議員は、人事権を持った総長に逆らわない人が多いためだと思われます。

以上、簡単にまとめてみました。
「そのまま」と阿弥陀様から呼ばれた親鸞様は、「このまま」とは一言も仰っていません。それどころか、「身を粉にしても、骨を砕いても御報謝させてもらいます」と90年の御一生を伝道にご苦労されました。私がそのご苦労をも顧みず、安易に「このまま」と受け止めるなら、お念仏のみ教えが真に私を支えて下さる力にはならないでしょう。生涯かけてお聴聞し、信心喜びお念仏相続する姿勢こそが、苦難の人生を支え続けるのです。


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