滋賀教区学習会、質疑応答
2024年1月17日に開催された滋賀教区の学習会より、質疑応答の一部を要約して記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。
Q 布教の現場では、従来の領解文と新領解文、どちらを扱うかは現場の判断に任すということか?
Q その答えと、100%唱和という宗派目標は矛盾しないのか?
Q 6月1日付けで私のお寺の総代と共に連名で総局宛に手紙を送った。まだ回答はもらっていないが読んでいるのか?もし読んでいないのなら後でもう一度渡す。
Q 学習会が開かれるということは総局の側にもこの新領解文になんらかの問題があるという認識があるのではないか。ならばこれを修正していくというのが一番妥当な解決方法である。それなのにそれが出来ないというのは制度の問題なのか、出し方の問題なのか、それともそれ以外の問題があるのか。
Q 各教区からこの新領解文についての問題があげらている。問題があるということについて総局内で話し合いがなされているのか?
Q 通常は題目の意味を言ってから内容の教義説明をするが、今日の講義では題目について全く説明がなかった。領解文という言葉が入っていること自体が問題である。従来の領解文と合わせて、聖教に準じない新しい領解文を改悔批判に使っているのは事実上の聖教化を図っているのではないか?宗制違反にならないのか?
Q 領解というのは私の領解。蓮如上人は念仏を腹に入れて言うことが領解だと言っているわけで、仏さまの側に立って領解する必要はない。私が味わったこともないような真実ということが何の役に立つのか。
Q 仏徳讃嘆に約仏約生があるかということになるが、その聖教の根拠はあるのか?領解をされている姿から仏徳讃嘆になるわけで、自分自身で仏徳讃嘆をしていると言うと驕りにはならないか?
Q 師徳段の所で宗祖と歴代宗主が並列されている。これは同格ということか。これは当門さまが発布されたということは、ご自身を宗祖と同格、つまり自分が導いているのだという表明にならないか宗主と宗祖を並べることによって、宗祖を教祖化しようとする目的があるのではないか。総長が中外に御影堂は祖師信仰の場であると書いていた。これを普遍化すれば統一教会のような教祖信仰になりかねない。
Q 前門さまが宗制を改正しているのは、戦時中の戦時教学の轍を踏ませないようにする反省から、歴代宗主の消息は聖教扱いしないようにするためである。しかしここに歴代宗主と宗祖を並べている。これはその反省を反故にすることであるし、基幹運動を反故にすることである。そのことを総局はどう考えているのか?
Q 学習会は議論する場というが、議論して修正してくれるのか?
Q 褒められて育った人には浄土真宗のみ教えは受け入れがたいというが、これで傷つく人がいるということは認めるのか?
Q 書籍「新時代の浄土真宗」に満井和上は、新領解文に対して「わかりやすい現代語の言葉とともに、七五調に語調が整えられていることで、自ら口にかけながらリズミカルで聞きやすく耳に入ってきます」とある。私はこれが七五調には全く響いて来ないが、これは七五調なのか?
変則七五調とは?満井和上だけが理解している変則七五調ということか。
制定過程について
Q ご門主にご消息を依頼して、それが届いたのはいつか?
Q 1週間で新領解文がおりてきている。公式の文章を作る時は1年をかける場合もあるが、それをわずか1週間とはあり得ない。これはご門主に対しても失礼ではないのか?
Q そうすると、ご依頼する前に、準備しておいてくれという話があったのか?それはそれで大問題ではないか。
Q 今の話を聞くと、前に半分あったから、もう半分加えたということなのか?
Q ご門主に1週間で依頼するのは失礼千万。
制定過程の質問においては、1週間で制作されたことへの疑問が投げかけられたが、結果、それ以前から用意されていたような答弁がなされている。
いただいた浄財は、「新しい領解文を考える会」の運営費に活用させていただきます。