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【往復書簡】『新しい領解文』は浄土真宗ではない!?

新しい「領解文」を考えるページをご覧の皆様
 「新しい領解文」問題は、ますます混乱を深めていますが、総局主導の各教区での学習会では、本願寺派総合研究所の満井所長が、教義的な質問について説明されています。しかし、私にはどうしても、満井所長のご説明が、氏のご本意とは思えません。よって、直接ご本人にお尋ねするお手紙を以下の通り送りました。
 満井所長は勧学寮員ではありませんので、「新しい領解文」の文案に同意した当事者ではなく、勧学寮の解説文の作成にも関わっておられません。にもかかわらず、職務上とはいえ、「新しい領解文」を擁護し、推進し続けておられるご苦労は大変なものと思います。
 しかし、どんな理由があろうとも、宗祖のご法義を歪めてはなりません。私たちは、これまでご法義をお伝えくださった先人方に対しても、これから生まれてくる子どもたちに対しても、大きな責任があります。ご法義に遇わせていただいた身としての責任があります。
 かつて三業惑乱において、安芸の大瀛和上は命を懸けて宗意安心を護られました。同じ安芸である満井所長が、ご法義に誠実にお答えくださることを願っております。
 なお、この質問状をSNS上に公開すること、お答えいただいた場合、満井所長のお返事も公開させていただきたいことを書簡には書き添えさせていただいております。

安芸教区安芸北組龍仙寺前住 武田昭英

 本願寺派総合研究所長・満井秀城さんにお尋ねします。
 「新しい領解文は浄土真宗ではない」満井秀城さん、あなたが本願寺新報で語っていることに照らすとこうなりますね。
 本願寺新報(二〇二〇・六・一〇号)で、浄土真宗のみ教えを伝えるためのキーワードの一つとして二種深信を上げて解説しています。
 長崎教区での説明会でもこの新報の記事と「新しい領解文」とは相容れないと指摘されました。しかし、その後も平然と「新しい領解文」の説明会に行って何事もなかったかのように解説が続けられています。この本願寺新報の記事と「新しい領解文」は相容れない内容ではないですか?
 この本願寺新報では、「浄土真宗のご法義から言って、これはどうなんだろうと迷った時に、『二種深信』を当てはめてみるとわかる」と解説しています。
 そしてまず、機の深信を説明して「『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし』と信じることで、つまり、自分自身の本当の姿に気づかされることです。」と語り、次に法の深信を説明され、「その願力によって必ず往生出来ることを深く知らされる」と示して、「二種深信が成立しているかどうかを当てはめると、浄土真宗かどうかが判る」と言っています。しかし「新しい領解文」には二種深信はありません。
 「出離の縁あることなし」という絶対否定とも称される機の深信がないどころか「本来ひとつゆえ」と、凡夫は本来、仏とひとつだからこのままで救われるのだと言い、さらに「少しづつ執われの心を離れます」と、機の深信を否定するかの言葉が続いています。ということは、「新しい領解文」は浄土真宗ではないということになるはずです。満井所長の御教示からすれば。
あなたが浄土真宗のキーワードのひとつと言われる二種深信は、「新しい領解文」にはないのです。愚身(み)という表現は、小生、愚生、不肖、拙者など日常の手紙などで使われる謙遜語と変わりません。これをもって機の深信と言われるなら、真宗門徒に限らず日本人には全ての人に機の深信があることになります。
 また、「本来ひとつゆえ、そのまま救う」と、宗祖がどこに示しておられるか御教示下さい。宗祖の御教示になければ浄土真宗ではありません。
 あなたは、前記本願寺新報の中で宗祖のお言葉「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり」を引用され、「『仏願の生起』とは、迷っている私がいるからということです」と示され、「『仏願の本末』とは、このような私を救うために願を建てられ(本)、名号法を仕上げられた(末)こと(法の深信)を聞くのです」と言われています。
 妙好人・源左さんも「ただのただでも ただならず 聞かねばただはもらわれぬ、聞けば聞くほどただのただ、はいの返事も、あなたから」と語っているとおり、「聞」のないところに救いは届きようがありませんね。
 さらに付け加えて申し上げると「少しづつ執われの心を離れます。・・・むさぼりいかりに流されず・・・、穏やかな顔とやさしい言葉・・・日々に精一杯勤めます」と、私にはとても恥ずかしくて言えませんが、満井さん、あなたは言えていますか。
 ご門徒の皆様とご一緒に「少しづつ執われの心を離れます」と阿弥陀様の前で言われているとすれば、まことにめでたいことですが、先に紹介した本願寺新報でのあなたの御教示「・・・永い間、迷い続け、そこから抜け出すことができない身と深く知らされること・・・」と矛盾しませんか。

 本願寺新報でのあなたの記事は、総局の責任で出されたものです。しかし今、総局が推進し、且つ、あなたが解説していることとは相異します。

令和五年十二月二十七日
浄土真宗本願寺派総合研究所所長
満井秀城様

返信(満井所長→武田前執行長)

冠省 失礼いたします。
ご心配をおかけしていますが、私は歴史に語られるほど大物ではありませんから、なにとぞご放念ください。今の職も長くは居りません。辞職を相談した折に、さるお方から慰留されたため暫く延期したに過ぎません。

二種深信の考え方については、ご指摘の新報拙稿に変わるところはありません。だからこそ、寮員でもないのに、徳永前寮頭から意見を求められた時、機の深信に違反する恐れがあると申し上げ、勧学寮からの答申には反映された筈です。しかし、結果はご存知の通りです。私の意見も「恐れあり」とする危険性を申し上げたのみで直ちに意義・異安心ではないでしょう。だから勧学寮も同意されたのだと思います。以後は御門主は二種深信を御存じの上で、どうしてこういう表現を敢えて取られているか、という視点に切り替えた説明をしています。但し、自力心との決別という視点は鮮明なので、この点の重要性は学習会でも申し上げています。

「そのままの救い」については、自然法爾章などの「行者のはからわざるを自らという」等かと思います。年明けは改悔批判があり、取り急ぎ要用のみにて。

満井秀城

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