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【重要】勧学・司教有志の会より第5弾の声明発表

浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会から「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明の第5弾が発表されました。

「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(五)

 このたびご消息として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)の内容について、勧学・司教有志の会はすでに、その「表題(名称)」「第一段落」「第二段落」「第三段落」における主要な問題点を「声明」において指摘してきた。今回の声明では、これまで「新しい領解文」の内容について述べてきた問題点をまとめ、【付記】として「新しい領解文」が発布されるに至った経緯についての問題にも触れておきたい。

一 はじめに「表題(名称)」については、「声明(二)」でその問題を指摘した。すなわち石上智康総長を中心とする総局は、《現代版「領解文」制定方法検討委員会》が出した「現代版〈領解文〉という表現は従来の『領解文』との混乱を招く表現であるので新たな名称を検討すべきである」という「答申」の主旨を全く無視する形で、「新しい領解文」として発布したという不可解な経緯、及びそれにより聖教ではないという位置づけで発布されたものが、実質的に聖教扱いされてしまうという危険性について述べた。

 そもそも今回の「新しい領解文」には「浄土真宗のみ教え」という副題が添えられているが、この表記自体がこの文章のもつ問題性を端的に表している。すなわち、「浄土真宗のみ教え」という「教義」と、それに対する念仏者の受けとめである「領解」との混同をすでに表題自体が物語っているからである。「領解文」に対する総局のこうした不見識は、「新しい領解文」を発表する際に、「ご親教(浄土真宗のみ教え)」(二〇二一年四月一五日)の時点では存在しなかった〈師徳〉を示す文言を、十分な検討もせずに第二段落として挿入した点にも表れている。ただ〈師徳〉を挿入しさえすれば「領解文」としての形式が整えられるとでも考えたのであろうか。〈安心〉〈報謝〉〈師徳〉〈法度〉という四段から成る従来の「領解文」は、その形式ではなく、そこに示された聖教に基づく確かな内容にこそ支えられるものであることを理解しておくべきである。現に多くの門信徒が毎日、あるいは仏事や法座ごとに従来の「領解文」を出言し、その確かな内容を受けとめてきたことを決して無視してはならない。

 今回の「新しい領解文」に関する問題は、従来の「領解文(改悔文)」を本願寺派と同様に大切に用いてきた大谷派や興正派等にも関係するものである。このように法義の理解に重大な誤解を生じる可能性のあるものを「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」と位置づけることは、真宗各派からも問題性と危険性を指摘されることは十分に予測できるものである。

二 次に「第一段落」については、「声明(一)」においてその問題を指摘した。すなわち如来の救いが起こされた理由を「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」と示している点について、「仏願の生起」である無始よりこのかた出離の縁なきわが身という機実(私の真実のありさま)をふまえていないばかりか、「生死即涅槃」「煩悩即菩提」という仏知見でのみ成立する見方を、凡夫の領解として示しており、これは宗意安心上の誤解と混乱を招くだけであることを指摘した。またこうした見方を凡夫の「領解」として安易に用いることは、戦争や暴力や差別などの人間の愚かな行いをも正当化する危険思想にすら陥りかねないことも述べた。このことは、これまで私どもが「聖人一流」と仰いできた浄土真宗のご法義を損なうだけではなく、浄土教における如来の救いの意味さえ失わせかねない。さらに、聖道門諸宗における修行の意味をも否定するものである。この箇所についてはすでに他宗の僧侶からも、この「新しい領解文」を掲げている限り、本願寺派は将来にわたって批判され続けていくだろうという声があがっている。

三 次に「第二段落」については、「声明(三)」においてその問題を指摘した。この一段は、先述したように、十分な検討がなされないままに挿入されたために、まず何についての〈師徳〉であるのかが文脈上明らかではなく、歴代宗主の果たした役割も明確にはなっていない。しかもご門主さまの名のもとに発布されるご消息において、ご門主さまが親鸞聖人とみずからとを尊い導き手として同一視されているようにも読める表現になっており、これが重大な問題となる。真宗各派からも、宗祖親鸞聖人の位置づけ、ならびに教団の法灯継承の意味について本願寺派の見識を問われるものであろうし、ご門主さまのお立場を深く傷つけるものと言わざるを得ない。

四 最後の「第三段落」については、「声明(四)」において問題を指摘した。すなわち、煩悩具足の凡夫という機実(私の真実のありさま)をふまえることなく、「少しずつ 執われの心を 離れます」とのみ示されていることは、浄土真宗の本義を逸脱しているばかりでなく、ご門主さまの本意に沿うものとも思えないことを指摘した。ご門主さまもご著書である『ありのままにひたむきに』の中で、

出家せずにこの世間を生きていく私たちは、どうしても自己中心的なあり方を克服しきれません。自己中心的な姿、考え方を持っている私たちがどうやって生きていくのかを示してくださったのが、親鸞聖人なのです。煩悩から離れきることはできなくとも、阿弥陀さまの光に照らされながら、一日一日を「意味あるもの」として生きていく

と述べられているように、浄土真宗のみ教えは煩悩を離れきることのできない凡夫のためのものである。にもかかわらず安直に、私たち凡夫が執われの心を離れることができるように示すのであれば、それは親鸞聖人がご苦労の末に開顕された浄土真宗のみ教えに乖くだけではなく、仏教諸宗からの厳しい批判を免れることはできない。

 以上、これまでの「声明」において指摘してきた「新しい領解文」についての問題を、やや角度を変えながらまとめてきた。「新しい領解文」の内容が、もはや宗門内の問題にとどまらず、宗門外からの批判をも招くものとなっているのは明らかである。

 なおこれらの声明文は、「ご門主無答責」という原則、すなわちご門主さまは責任を負うものではなく、すべての責任は申達した総局にあるという原則に基づいて発出したものであることをあらためて強調しておきたい。

【付記】 ー「新しい領解文」発布に至る経緯の問題ー

 ところで、この「新しい領解文」という文章に、「声明(二)」で述べた通り、石上智康総長の著書に酷似する表現が多数見出されることは、今や周知の事実である。そこで想起されるのは、かつて『拝読 浄土真宗のみ教え』が出版されたときのことである。その中に示されていた「浄土真宗の救いのよろこび」という文章は、公開から順調に全国の僧侶・門信徒へ普及が進んでいき、本願寺および関係各所はもとより、全国各地の寺院でも次第に唱和がなされるようになっていった。ところがそうした中、石上総長を中心とする総局は、『拝読 浄土真宗のみ教え』からその「浄土真宗の救いのよろこび」を抹消した。そして今回、石上総長の著書に見える文言と酷似した文章を作成して「新しい領解文」と称し、ご門主さまのご消息として発布して普及・唱和を呼びかけているのである。今回は、そのことにも触れておきたい。

 『宗報』(二〇二三年四月号)掲載の「石上智康総長 執務方針演説」や「常務委員会報告」は、「新しい領解文」制定の経緯について、「約二〇年前からの議論」を経た上で、昨年に立ち上げられた《現代版「領解文」制定方法検討委員会》の「答申」を受けてご門主さまの発布を賜ったと述べている。その議論とは、二〇〇五年を始期とする「長期振興計画」に掲げられていた「現代版領解文の制定」に関する事業を指している。

 上記の演説や報告ではなぜか触れられていないが、その事業案を受けて、当時の教学伝道研究センターが中心となり、各界の有識者を招聘して幾度も検討を重ね、その成果として発刊されたのが『拝読 浄土真宗のみ教え』(二〇〇九年)である。その冒頭には「浄土真宗の救いのよろこび」という文章が掲載され、「『領解文』のよき伝統とその精神を受け継いで、浄土真宗の救い、信心のよろこびを自ら口に述べる文章」という趣旨説明が添えられていた。その後一〇年間にわたって、「領解文」のこころをあらわした「浄土真宗の救いのよろこび」は、本願寺および関係各所はもとより、全国の布教現場でも重用され、各地では積極的に研修会までも開かれるほどに浸透していったのである。

 しかしながら石上総長を中心とする総局は、二〇一九年に発刊された改訂版『拝読 浄土真宗のみ教え』において、明確な説明のないまま、「浄土真宗の救いのよろこび」を全文削除し、当該の文章が掲載された『拝読 浄土真宗のみ教え』の在庫をすべて廃棄させた。その後、昨年に《現代版「領解文」制定方法検討委員会》が立ち上がるまでの間に、いかなる場所において、どのような議論が尽くされたというのであろうか。その経緯についてはどこにも報告が記載されてはいない。そして、昨年立ち上げられた当該委員会においても、制定方法の検討のみを課し、内容については一切審議を許さず、しかも、その制定方法についての「答申」さえも無視して、総局は「新しい領解文」を発布したのである。その上、その内容がご法義についての重大な誤解を招き、ご門主さまの立場を傷つけ、宗門を混乱させるものとなったことは、すでに述べてきた通りである。『拝読 浄土真宗のみ教え』における「浄土真宗の救いのよろこび」の制定と抹消に関する経緯を覆い隠して、あたかも「約二〇年前からの議論」を経て「新しい領解文」が発布されたかのように語られている上記の演説や報告は、到底事実を伝えたものとは言えない。

 そうした不可解で不透明な経緯を経て「新しい領解文」は発布されたわけであるが、総局はさかんに財政難を訴える一方で、多くの浄財を費やして当該文書を掲載するために刊行物を刷り直し、全国の寺院へポスターを改めて作成して発送し、さらに聞法会館のロビーに「新しい領解文」を大きく張り出し、今回の慶讃法要でも僧侶・門信徒に唱和するようにはたらきかけている。その上、得度式などでの唱和も進めようとしているという。

 しかしながら、現総局の思いとは裏腹に、総局の方針に異を唱える電話や書簡が続々と届き、全国各地で僧侶・門信徒有志によって今回の問題に対する勉強会が開催され、さらにインターネット上などでも、この文章に対する強い違和感を訴える声があふれかえっている。この文章の唱和に対する拒絶感は広がっており、ポスターを本願寺へ返却しようとする動きも聞こえてくる惨憺たる状況である。現総局は、なぜそこまでしても、「浄土真宗の救いのよろこび」のように普及が進まないのかを冷静に考えるべきである。「新しい領解文」に書かれている内容は、これまで大切に頂戴してきた「聖人一流」のご法義とは異なっていることに、全国の僧侶・門信徒は気づいているのである

 「新しい領解文」が発布されて以来、愛山護法で生きてこられた門末の僧侶・門信徒はそのことを懸命に訴え、我々も「有志の会」を結成して「声明」を出し続けてきたが、総局はなおもそれを等閑視して強引に方針を進めている。それによって、あの「三業惑乱」以来ともいわれるほどの混迷を招いてしまった。

 ここまでして推進される、総局のいう所の「伝わる伝道」とは、いったい誰に、何を伝えようとしているのであろうか。総局においては、「聖人一流」のご法義を立教開宗以来八〇〇年の間、心血を注いで護り抜き、伝えてこられた先人方への敬意はないのであろうか。

 「浄土真宗本願寺派宗法」では、ご消息は、総局の申達によってご門主さまから発布されること、及び、その責任は申達した宗務機関(総局)が負うことと規定されている。このたびご消息として「新しい領解文」が発布されたことによる全国的混乱の責任が現総局にあることは明白である。また同じく「宗法」では、ご門主さまがご消息を発布されるにあたっては、勧学寮の諮問を経ることが義務付けられており、勧学寮は「宗意安心に関するものは、全員の意見が一致しなければこれを行うことができない」と規定されている。はたして寮頭を含めた寮員五名からなる勧学寮において、どのような議論が尽くされ、どのようにして寮員全員の意見の一致に至ったというのであろうか。その「議事録」と、寮員五名全員が承認した「同意書」が開示されていないことは、すでに新聞紙面にも報道されているところである。寮員三名が含まれていた《現代版「領解文」制定方法検討委員会》の「答申」の主旨が全く無視されたことを考えるならば、「新しい領解文」に関する総局からのさかんな申し立てに対して、勧学寮は混乱し、相当な苦渋があったであろうと思われる。

 宗祖親鸞聖人の御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年という記念すべき慶讃法要の年において起こったこの混乱について、総局はもとより、各教区から選出された宗会議員一人ひとり、そして選出した私たち一人ひとりが、一人の念仏者として、何を受け伝えられ、何をよろこびとしてきたのかを改めて深慮しなくてはならない。

 石上智康総長を中心とする総局は、このたびの宗務方針が、将来にわたってご門主さまのお立場を傷つけるものであること、そして宗門を根幹から突き崩すものであることを真摯に受けとめ、速やかに「新しい領解文」を取り下げて、宗門が目指すべき本来のあり方、すなわち正しい宗意安心にもとづく念仏の一門としてのあり方を示してしていただきたい

称名

二〇二三年 五月一九日

浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠  淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内  恒(司教)
武田  晋(司教)
藤丸  要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名


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