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領解文とは何か?

2023年7月14日に開催されたオンライン講座「領解文とは何か?」の講義から、ご講師の許可を頂き、特に重要と思われる部分を掲載します。

改悔(領解出言)という儀礼について

井上見淳司教

皆さん、こんばんは。井上と申します。
今年は立教開宗法要800年の年でありました。立教開宗(りっきょうかいしゅう)というのは、親鸞様によって浄土真宗が開かれてから800年の時間が経ちましたよというお祝いの法要だったわけです。これは、単にその時間が流れたということではないですね。私は最近特に強調しておりますが、浄土真宗の誇りは「聖人一流(しょうにんいちりゅう)」ということにあります。親鸞さまが教えを開かれて以来、そのみ教えの開く世界は、一つの流れとなってずーっと今まで続いてきている。これが私ども浄土真宗の誇りなのです。

それはつまり、いま私たちがご本堂でお聴聞している教えの世界を、先だたれた大切な方々、そして、さかのぼれば蓮如上人も、親鸞聖人も味わいながら、ご生涯を生きていかれたということですね。

このことの背景には、教えが曲がらないように守ってきてくださった方がいて、またお念仏する姿で、その背中で、このみ教えを私に伝えてきてくださった方がおられたということですね。
ではお話を始めてまいります。

これは改悔(がいけ)と言います。カイゲではなくガイケです。そしてカッコの中は領解出言(りょうげしゅつごん)と言います。まずは、これについてお話しいたします。

さて、この儀礼がいつ頃、どうやって始まったのかということですが、ルーツは第8代宗主、蓮如上人までさかのぼります。蓮如上人は1415年から1499年まで、15世紀をまるまる生きられたお方です。この方は43歳で本願寺を継職されまして85歳でご往生されるまでの約40年間で、東山に細々と存続していた本願寺を日本最大級の教団として、まさに爆発的に成長させたということで、中興の祖と仰がれているわけです。

43歳で継承されて、すぐに改革に動かれたようですね。それはいろいろとありますが、まず当時、本願寺というのは、浄土真宗という一宗派として独立したお寺ではありませんでした。天台宗の青蓮院の系統寺院として存在してたんですね。そうでしか生きられなかった。青蓮院といえば門跡寺院で、天皇家と非常にゆかりが深いお寺ですから、当時の本願寺は必然的に貴族意識が高かったようですね。そうした貴族化した寺院構造を改めて平座の教化を徹底した。

そして参詣者は「開山聖人のご門徒 一大事のお客人」という意識づくりを徹底させたといいます。「開山聖人のご門流の徒」ですから、ご門徒なんです。そして一大事のお客人という意識づくりです。ですから訪ねてこられたご門徒方を大切にお迎えするようになっていきます。

また平座の教化というのは、それまでご門主は訪ねてきた方とお会いする時は、高い段に座って低いところに座っているご門徒方を見下ろしてお話しされていた。逆からいえば、ご門徒方は当然見上げて、仰ぎながら話すわけですが、蓮如上人はこの段を取れと言われました。そして同じ高さの場所まで下りてゆかれ、膝を突き合わせて座られたのです。それだけでも嬉しいと思いますが、一緒にご飯を召し上がったそうですね。記録に残っているのですが、お雑煮をご門徒に振る舞うようにしていたらしく、時にお酒も飲みながらやるわけです。 

こうした意識づくりが徹底されていて、距離が縮まり、参る人は増え始めるわけですね。そして天台宗としての寺院機能を排除していって、親鸞聖人を宗祖とする施設づくりを進めていく。この一環として本願寺というお寺を「開山聖人の御座所」であると規定されました。この開山聖人の御座所というのは、「親鸞聖人が今おられる場所」という意味を持ちます。何をもっていうのかといえば、それは御影堂の御真影さまです。

詳しくいいますと、本願寺にはお堂が2つ立ち並んでますよね。御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)です。御影堂というのは、「影」と書いてますけど、この影は姿という意味です。月影という時も月の光でしょ。「陰」と書く場合は見えないという意味なんですが、「影」は姿です。御影堂には「ご真影さま」、つまり親鸞聖人のお木像が安置されています。あのお木像は親鸞聖人その方だと思いなさいという意義づけがなされています。

一方で、阿弥陀堂は阿弥陀さまが御安置されていますが、まさに親鸞聖人の開かれた宗教世界に基づいて、阿弥陀仏中心の空間ができています。たとえば、阿弥陀如来の両脇に七高僧さまを左右に三祖ずつ六祖が出され、その外に聖徳太子と法然聖人を別に出してあります。あれは阿弥陀さまの脇士として、慈悲と智慧の象徴である観音菩薩(聖徳太子)と勢至菩薩(法然聖人)を出されているということももちろんありますが、それだけではなくて、親鸞聖人の生涯がそうなっているのです。親鸞聖人は、六角堂で観音菩薩(聖徳太子)の夢の告げを受けて「法然聖人のところに行け」と言われたと確信して、バッと起きてそのまま吉水の草庵に向かっていかれましたね。そこで、勢至菩薩の生まれ変わりと言われた法然聖人によって真実の阿弥陀さまに出会われた。そのことを表すと共に、その背景を支えた左右の三祖ずつの六祖ということで配置されているわけです。

この御影堂・阿弥陀堂の両堂ですが、これは本願寺を親鸞聖人の「家」に見立てていると考えるわけです。すなわち御影堂というのは親鸞聖人のお部屋であり、ご真影さまを通して親鸞聖人その方に会わせていただく。そして阿弥陀堂というのは親鸞聖人のお宅のお仏間です。梯和上は昔、「阿弥陀堂というのはお内仏ですからなー」と言われてましたが、同じ事ですね。こういう風に思ってお参りすると、確かに気分がぜんぜん違うものですよ。

そして、この改悔について話す上で大切なのが、この両堂の位置づけと共に、もう一つ蓮如上人の特徴的なご教化方法のことがあります。それは『蓮如上人御一代聞書』という、蓮如上人の言行録に、このような言葉が残っています。

これによれば蓮如上人は「物を言え」と繰り返し仰せられたようですね。物を言えとは、「自分のご法義の理解を語れ」ということです。「信不信ともに」、信心のある者もない者も、共にただ物を言えば、心底も聞こえ、人にも直してもらえる、ということで「物を言え」と強調しておられます。この蓮如上人の「物を言え」という教化は他の箇所にも出てきます。こうした蓮如上人の思いが、山科本願寺が出来た時に、一つの宗教儀礼になります。それが改悔・領解出言だったわけです。

御正忌(ごしょうき)の『ご文章』を見ますと、「今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして」とありますが、「改悔」とは、悔い改めると書いてますから、意味としては、もともとは自力の信心から他力の信心へという意味を持ちました。

各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において

蓮如上人のおっしゃる「当寺」はもちろん本願寺のことで、「御影前」とはご真影さまの前です。つまり親鸞聖人に向かってということですね。そして回心懺悔して諸人の耳にこれをきかしむるように、毎日毎夜語るがよい、と書いてありますね。これは蓮如上人の特徴なんですが、『御文章』がそうですけど、聞くことが前提ですよね。蓮如上人の言葉の中には『御文章』を聴聞せよと出てきます。これは文字で書いてあるんですが、読むものとしてじゃなくて聞くものとして書かれています。どうやら蓮如上人には、信心の内容を他者と共有するというような思いがあられたようですね。

しからばまことにこころあらん人々は、この回心懺悔をききても、げにもとおもひて、おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。これぞまことに今月聖人の御忌の本懐にあひかなふべし。これすなはち報恩謝徳の懇志たるべきものなり

まことに心あらん人々は、この回心懺悔を聞いて、本当やなぁと思って、同じく日頃の悪心を翻して、善心になりかえる人もおるだろう。これぞ誠に今月聖人の御忌の本懐、最も心持ちにかなうことになる。これすなわちまさしく報恩謝徳の懇志になっていくことなのだとおっしゃってます。

一旦まとめますと、開山聖人の忌日法要、報恩講で改悔を行うことになりました。場所は聖人の御座所、本願寺の御影堂の御影前です。報恩講は親鸞聖人のご命日の法要で年間最重要の御法座です。その時に御影堂の御真影さまの前で、親鸞聖人その方が開かれたみ教えの領解を言上してみせる。それを、「ご開山の名代(代理)」である宗主がきいて、批評する。これは本願寺における最高舞台といっていいでしょう。

こうして改悔は、宗主から自分の領解に直接お墨付きをいただくような貴重な場ということで、真実信心をうる場として受け止められるようになっていきます。蓮如上人もそれを意図して設定されたでしょう。
来年の1月も行われますけれども、今は従来型の領解文で改悔批判をしていますが、一体どちらの領解文でやるのか非常に注目を集めていますね。

さて、山科本願寺で始まった当初は、とても厳かに行われていたようです。実悟さまは蓮如上人の第十男です。この方は長生きされましてね。四代の御門主にお仕えしまして、蓮如上人、実如上人、証如上人、石山合戦の顕如上人まで生きておられました。そしてこの方はライターでしてね。いろんなこと書き残されますから、一級の歴史資料になっていくんです。実悟さまの残された資料に「山科御坊事并其時代事」というのもありまして、ここに当時の改悔の様子が出てきます。

太夜過ては 坊主衆・御堂衆 はかまばかりにて手に蝋燭をともし持って御堂衆同前に人をことごとく選び出され、 御堂の庭にも人一人もなく御門を打ちて閑に候つる

報恩講の時期の夕方はもう真っ暗ですね。人が多く見える時も100人もいなかったと。50、60人、70、80人が多かった時で、その中で坊主衆ばかり1人ずつ改悔せられ、一心のとおり心しづかに申せられたと。これ別の実悟さまの資料によると、まずご真影さまに自名を名乗ったというんですね。たとえば「福岡教区の井上見淳です」とか言って、ご真影さまに名乗るんです。それで5人から10人の改悔がそこで続いて、蓮如上人あるいは実如上人がじっと聞いておられて、その後に「只今の領解は…」と批評がくると。これはとても緊張しますよね。自分だったら何と言うんだろうかということなんですが、おそらく僕らが言うと長たらしくなるんです。だって端的に言うのはちょっと怖いでしょう。言い足らんかもしれんから。人々は思ったわけですよ。「これ、一番うまく言うとしたら、どうやって言うたらいいんやろう」と。これが実はポイントだったんです。

さて、この山科の雰囲気が大坂に移ると一変するんですよね。改悔が浸透したというのもあると思いますけど、実悟さまは嘆いておられます。多くの人が、今日改悔をするんだと決めてお参りしてるんです。それで、もう間に合わんと思ったら、お堂の外であれ中であれ、自分のお領解を叫び出すというです。それも50人とか100人とかが。それで改悔をしたことにするということなんですけど、それだけ大勢が自分の領解を好きにかたって、中には喧嘩まで始まるという(笑)。もうこれむちゃくちゃですよね。実語さまが「興ざめして肝も潰れて、尊げもなく候。 喧嘩などもでき候かと聞きなし候」と書かれています。

『耶蘇会士日本通信(やそかいしにほんつうしん)』という当時の宣教師さんの日記が残ってまして、当時の本願寺は、「毎年甚だ盛なる祭りを行ひ」と出てくるんです。この「甚だ盛なる祭り」これが「報恩講」です。「参集するもの甚だ多く、寺にいらんとして門に待つものがその門が開くに及んで競って入ろんとするが故に恒に多数の死者を出す」とありますから、もの凄かったんですよ。こういう中で改悔もわーっとみんなが言い始めたわけですね。
 
ところで、なぜ人が殺到したのか。それは親鸞聖人が、浄土真宗では往生成仏の正因は信心であると何度も強調されてますよね。念仏往生のご法義は信心が正因なんだと。それで、民衆が改悔をすれば信心を得られると受け止めていったんですね。そういう認識が広がっていった。そして一部のものは、信心とは改悔を通してしか得られないと認識していきます。たとえば「お前、えらい熱心に聴聞しとるけど改悔をしたか」となりましてね。「いや、改悔はまだですけど」と言えば「それならまだご信心を得てないやないか」という話になるんですね。この流れが後に三業帰命説となり、三業惑乱を生んだと思います。

改悔文の誕生

さて、こうした中で「改悔文」が誕生してきます。少しずつ核心に入りますが。人々のこうした熱烈な往生浄土への渇望というのは、亀鑑(きかん)的、つまりお手本的な改悔を求め始めます。先ほども言いましたが、端的に改悔を言うというのは、やはりなかなか難しかったんですよ。端的に言うのはよっぽど自信がないと言えませんから。そこで人々が「これ一番うまく言うたらどうやって言ったらええんやろう?」と考え出したんですね。その頃に、ちょうどいいくらいの理想的な内容をもった改悔が活字化されて世の中に登場しはじめたのです。しかも、「蓮如上人が作成したんだ」という由来付きで、です。

「最古のもの」と書いてますが、丈愚(じょうぐ)という方の『改悔私記』という本があります。これなんで私が言うのかって言いましたら、昨年の5月に実は私が『たすけたまへの浄土教』という本を出したんです。これは10年かけて論文を書き溜めたんですが、この中にたまたま『改悔文(領解文)』についての論文が2本入っていたんですよね。その時にちょっと調べた情報ではあるんですが、今、この領解文問題をうけて、その『たすけたまへの浄土教』がけっこう今、売れているみたいですね。それはいいんですけど(笑)。この中、「改悔文」を見てみますとね、よく似てるけど違うんですよね。1660年に出てきたやつですが、読んでみましょう。

諸の雑行雑修自力の心をすてて、一心に阿弥陀如来、今度の我等が一大事の後生御助候へと奉頼(たのみたてまつり)候。頼(たのむ)一念の時、如来の御助一定、我が往生治定と存じて、加様の心に被成(なられ)候も、宿善の催とは申乍ら、偏に御開山聖人御出世の御恩、次第相承、真の善知識の不浅(あさからざる)御勧化の御慈悲の極にて候。此上には、仰出し在々す御掟を、随分(随分ていうのは自分に与えられた分)命を涯(かぎ)りに嗜(たしなみ)可申(もうすべく)候と云々。南無阿弥陀仏分々々

と書いてあります。
他にも紹介しますとね、今度は『甲州満福寺本』。これも当時蓮如上人のものとして非常に名高かったんですよ。これも似てるけど、ちょっと違う。

諸の雑行雑修自力の心をすてヽ、一心に阿弥陀如来、今度の我等が一大事の後生御助候へ南無阿弥陀仏とたのみたてまつり候。たのみ申す一念の時、往生は治定、御助は一定と存、御恩報謝の御礼の念仏申たてまつり候。かやうのことはりまぎれもなく聴聞申したてまつる
こと、ひとへに御開山聖人、此土へ御化導の御慈悲、次第相承、唯今の真の善知識の御勧化の御重恩と難有存候。此上には御本山より仰出るる御掟の趣、命を限りに相(あい)嗜(たしなみ)申べく存(ぞんじ)たてまつり候

と書いてありますね。次のは、天明7(1887)年に本願寺から出されたものです。もとにしたのは、出口の光善寺の所蔵本です。これも見てみますと、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝とぞんじよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟おんおきて、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。
本願寺釈法如(花押)

これは、我々が従来『領解文』と呼んで親しんできたものです。当時はこうして、ちょっとずつ文言の違う「改悔文」が同時並行で世に広まっていたと思われます。それを天明七年に、蓮如上人のものとしてもっとも名高い光善寺本によって一本化しようとされたみたいですね。

これを見てみますと、「御恩報謝とぞんじよろこびまうし候」とあるじゃないですか。この「そんじ」、実は出口の光善寺にはないんですよ。だからお東さんのには、「ぞんじ」はありません。「御恩報謝とよろこびまうし候」です。本願寺の南隣の興正寺さんも「御恩報謝とよろこびまうし候」なんですね。西だけ「ぞんじ」が入っちゃったんですね。ここに「往生一定御たすけ治定とぞんじ」と出てきて、この下にも「ありがたくぞんじ」って出てきて、1個多く入ってて、当時そのことにも気づいていたのですが、当時の事務方の強硬な人物がいまして、押し切ってこのまま出してしまったのです。

そしてまた、興味深いのが、私が調べた限りで、江戸時代に出てきた「改悔文」がちょっとずつ文言の違うものが27、8本もありました。とにかくいっぱい出てくるわけですが、面白いのがほとんどがこの「安心(あんじん)」・「報謝(ほうしゃ)」・「師徳(しとく)」・「法度(はっと)」という4段構成をとっているんですよ。どれもこの構成で作文されている。改悔はもともとフリースタイルで語られていたということを思えば、興味深い展開です。特に師徳のところは印象的な部分だったからでしょうかね。今回も「ご消息」にする時点で、あの文章を書いた人物が「師徳」を書き足しましたが、大して考えずに追加しましたが、あの部分も批判的な声を集めましたね。

さて、本願寺が京都に移って江戸時代を迎える頃には、第3代能化の若霖(じゃくりん)さんという方がこうおっしゃってます。これは小児往生を問題にした資料です。

小児往生とは、今もこの問題はありますが、浄土真宗は信心正因です。信心が正因だというのなら、言葉が理解できない早世した子どもは、浄土に往生したといってよいのか、という問題です。真宗の僧侶でこの問題を考えたことの無い人はいませんよね。どうやって往生への道を開くか。お聖教のどこを根拠にするのか。遺族に対しては何と伝えるのか。こうしたことが江戸時代にものすごい論争になるんです。この時に真宗で一つ伝えていた方法が、改悔がベースになった「名代(みょうだい)だのみ」というやり方でした。名代とは代理です。どういうことかと言うと、当時、子供を授かった親はお寺参りをしました。そこでご住職に法話をしてもらうんですね。子ども抱いたまま。それで「分かったか?」と言って「分かりました」となったら、「じゃあ今からやるよ」と言って。この頃は改悔が相当にもう弘まっています。ですから親が子供を抱いたまま、お坊さんが「改悔文」を言わせるんですね。「もろもろの雑行雑修、言ってごらん」という形で一言ずつ、口伝えに言わせて、「われらが今度の一大事の後生」の部分を、「この子の今度の一大事の後生」とそこだけ文言を変えて言わせておったそうです。それによって、この子は、親が代理で改悔をしたので、一応改悔が済んだ。これで信心得たことにしようという理解がありました。これについて「そんなので信心を認めていいのか」と反論もでて、一〇〇年以上も続く議論になった。この小児往生についても『たすけたまへ浄土教』でまとめています。学ぶところもたいへん多いわけですが、その中で、「口移しに改悔文を言わせてそれで改悔にするのはダメではないか」という意見があり、それに対して若霖さんは、「いやそうとも限らんで」と言うんですよ。

口移しに改悔にて頼むに及ばずと一概にかたづくはあやまりにて候

未安心、まだ信心得てないものでも、仏前にひざまづいて知識(先生)の言葉を受けて、口に唱える間に 、覚えない間、知らない間に、恭敬の(うやうやしく思う)心が起こってきてね、歓喜の思いがあらわれて、たちまちに往生を決定していくもの多いじゃない。世間はおおかたそうでしょう。と若霖さん言ってらっしゃいます。

私はここになぜこの資料を出したのかと言いましたら、『領解文』と言われるものは、私自身が初めに言い出した頃というのは、意味が全部わかって言ったわけではないからです。ただあの言葉を口に出す中で感じさせてもらうこともあったし、ご法話で聞いた内容、あるいは自分が勉強して知った内容が、「あれは、このことを言うてたんか」と、どんどんどんどん自分の中で馴染んでいったっていうのがあります。ここであの若霖さんがおっしゃってるのこれじゃないでしょうかね。

だんだんだんだん馴染んでくるという話ですけども、この前、福岡県で『領解文』の勉強会で質問タイムがあった時、先陣を切って質問されたのはお同行さんでした。その方が「今回、あの文言が古いということで、新しくすると聞きましたけれども、自分は『領解文』の文言が古いから新しくするっていうのは、違うと思いました」
とおっしゃるんですよ。そして
「私がお聴聞させてもらうようになってから、始めに興味持ったのが『領解文』でした。私の浄土真宗の教えの学びは『領解文』とともにあるんです。ですからあの『領解文』を別のものに代えると言っているとのことでしたけれども、それは無理だと思った。なぜかと言ったら、これは洋服を替えるのとわけが違うから。『領解文』を代えるというのは、私にとっては体を代えろと言われているのと等しい。『領解文』はあれしかないんだ。」
とおっしゃってました。それを聞いたお坊さん方から、逆にお念仏の声があがるという、そういう時間がありましたね。いま「新しい領解文」なる文章で、従来の領解文を徐々に上書きしようとしておりますけど、それがいかに乱暴な手段かよく考えてほしいです。

それで、五帖八十通の『御文』と『改悔文』というのは、江戸時代はお東もお西も蓮如上人が書いたものとして広略の関係にみています。具体的(広)に見たら『御文章』だし、要点のみ(略)を言えば『領解文』になるという見方が一般化していました。そういう時代なんです。

井上 見淳(イノウエ ケンジュン)
1976年、福岡県生まれ。浄土真宗本願寺派司教。龍谷大学社会学部准教授。宗学院講師。正恩寺衆徒。
著作:『「たすけたまへ」の浄土教』(法蔵館)、『真宗悪人伝』(法蔵館)、『日々の暮らしと歎異抄』(本願寺出版社)、『親鸞教義の諸問題』(共著、永田文昌堂)など。

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