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大阪教区学習会、質疑応答

2024年2月16日に開催された大阪教区の学習会より、質疑応答の要約を記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


一益法門になる危険性

Q 資料中に「本来一つだからそのまま救われると理解したらとんでもない事態になる」とお示しをいただいている。という事は悟りに至る上で大切な事は「無常を感じる事である」という領解や、「コトモノすべて縁起空であるとさとり安楽になる」(本願寺ブックセンターで販売している本の中の言葉)、というような因果関係は、浄土真宗ではありえない異安心だとうかがってよいか。

A 空を悟るのは証知として語るべきものであるとするならば、それは真宗的な安心とは違うという事になる。だた空の道理そのものは仏教的には、否定されるものではない。ある意味、他力回向法というものは空の思想と無関係ではありえない。教義的には空を他力回向法の根源という学説はある。ただし異安心と切り捨てるわけにはいかない。証知、さとりの上で空を悟るという、さとりの上というところをこの世で語ると、いわゆる一益法門になってしまう危険性はたしかにあるかもしれない。(満井所長)

領解文は聖教に準じるものか

Q 富山教区の質疑応答の中で、宗制の中の「聖教に準ずるものは何なのか」という問いに対して、中井部長は「まず新しい領解文は聖教にあたらない。従来の領解文もお聖教にあたらない。蓮如上人作と言われるという所で領解文はおさまっているため、等という表現にはあたらない」という発言があったが、よろしいか。

A たしかに、宗制だったか、お聖教に準ずるものの所に、「ご文章等」とあるところに、従来の領解文も入らないという事は私も思っているしそのはずだと思う。(満井所長)
A 私も同じ意見(三好総務)

Q 宗制の解説の中に、「御蔵版として刊行され敬重されてきたという意味で聖教に準じたという扱いをするものである」とある。領解文は天明七年に法如上人の署名と花押、文如上人の識語をのせた本願寺蔵版なので、これは聖教に準じたものとすべきと思うがいかがか。

A 法制部に確認したところ「等」に領解文は入らないということであった。私もそう思っているのは、枚方の光善寺さまに残っている本を三業惑乱の直前に領解文として制定されたもの。事実としては異論はないと思う。ありようにおいて、蓮如上人作と断定できるかというと、色んな説があるのと、私自身も蓮如上人の作とは考えていないので、そういう意味で、蓮如上人の作と断定できるものでない以上は、聖教に準ずるものと言えない。御一代記聞書は蓮如上人の語録として認定されているが、語録である以上一言一句の正確性が担保できず、これも聖教に準ずるものとは言えないだろうと。(満井所長)

Q 今のご説明は、あくまで満井先生が学術の立場のテキストの検証としてはうなずけるけれど、宗制に関して言われるならば、ご門主様のご蔵版はやはり敬重されなければならないと思う。宗制を制定された時に、関わった方に事情を聞いて書面を作成したので、これは提出したい。読ませていただくと、「現行の宗制に、本宗門の正依の聖教は、次のとおりとする。一浄土三部経、二七高僧の撰述、三宗祖の撰述と聖教とし、上記のほか、宗祖の教えを伝承し、その意義を明らかにされた第三代宗主覚如の撰述及び第八代宗主蓮如の『御文章』等、並びに宗祖や第八代宗主蓮如が信心の鑑として敬重された典籍は聖教に準ずる。」と準聖教に制定したのは、その根拠となるものがある。それはまず初めに本願寺蔵版という事を、そして本願寺が定める真宗聖教とある。その本願寺蔵版とは江戸時代において、浄土三部経、七祖聖教、親鸞聖人の教行信証、正信偈、和讃、浄土文類聚鈔、覚如上人のご伝鈔、報恩講私記、存覚上人の嘆徳文、蓮如上人のご文章、領解文、そして明和二年に刊行された真宗法要などが蔵版としてあげられており、本願寺蔵版か否かであることは真宗の聖教規定の大きな前提となっている。宗祖のご聖教と準聖教を真宗法要にあてはめると次のごとくであると整理をしており、聖教か否かという事をご蔵版かどうかという事をもって宗制では解説されているのは、至極全うだとうかがう。得度でも蔵版でなければ使う事は出来ない。

A ご蔵版の意味や大きさは仰る通り。ただし、ご蔵版であればただちに聖教、あるいは聖教に準ずるものと言いうるかというと、いささか疑念がある。御一代記聞書、実悟記など100パーセントの信頼性がおきえないものには限界がある。蓮如上人が大切にされたという事において歎異抄は聖教であるが、唯円の語録という点において聖教というのではない。(満井所長)

Q 般若心経は読まないのか。仏智見の仏徳讃嘆になるか。

A 仏徳讃嘆にはならない。阿弥陀様に向かってお読みする性質のものではない。(満井所長)

本願寺が作った愚身(み)という言葉

Q 愚身(み)という言葉について。新しく本願寺が作り出した言葉だと言えると思う。今後一般の日本語として使われることを非常に恐れる。愚身という言葉は、凡夫や大衆という仏教用語でも一段下げて扱う印象の言葉だと思う。宗門の人々に、自己肯定するような考えではなく、自己の浅ましさを認識に持って、そして実際自身はそうなんだと思ってもらう事が大事だというのが、エッセンスの一つなのだろうか。そんなに簡単に説明していいものなのか。使い方として、例えば「愚身な私が質問した。次のように総務様がお答えくださった」という文章を作って、失礼でないのか。

A 一般論として。謙譲表現ではなく、ご自身の深い自己内省で語られる言葉であれば、そこに議論が生じるとは、私は思っていない。(満井所長) 
A 自分で自分をみつめて「愚かだ」という事ではなくて、仏さまに照らし出された我が身として、自分自身を愚かだという風に自覚していくという事として、受け止めている(三好総務)

後生の一大事が抜けている

Q 浄土真宗で一番大事な後生の一大事が抜けている。

A 私も自力心との決別という観点がほしかったと思っている。(満井所長) 

唱和を割愛できるか

Q (学習会で唱和が割愛されたが)各寺院でも唱和を割愛させていただいてよろしいか。

A 割愛という言葉は適切ではないと思うが、各寺院においては、代表者の責任で取り扱いを決められてかまわないと思う。(三好総務)

学習会のポイントは

Q 中外日報にご門主のインタビュー記事があった。「新しい領解文」のポイントはどこかという質問に、仏法にであったら人は変わるんだとあった。そこが表されているのが第三段だと。「執われの心を離れます」に繋がっていくのかと感じた。学習会でもそこを説明した方がよかったのではないか。

A そのお心は受け止めた上で、次の段階へと私も行きたいと思う。(満井所長)

内容を書き換える予定は

Q ご開山さまも坂東本を見ると、書きかえ書きかえ制作して下さった様子がある。「新しい領解文」は反対が多いように見えるが、書き換える事はないのか。

A ご消息として発布されたものを、お書きになられた方以外のものが書き換える事は到底考えられないと思う。(三好総務)

Q 民衆の問、ご門徒の問、僧侶の問に向き合っていただいているのか。

A ご消息としてご門主が発布されたものを、われわれが書き換える、変更するという事はできない。(三好総務)

Q 新しい領解文をなぜ変更できないのか。

A ご消息として発布されたので我々が手を加える事はできない。 (三好総務)

ご門主はいま何を思われているか

Q 出したのはご門主。このような事になって、いまご門主はどう思われているのか。

A ご門主としょっちゅう会える場にいるわけではない。会う機会は多いが、このような話をできる場ではない。一般紙のインタビュー記事によると、「新しい領解文」を発布したのですすめてほしいと仰っていた。おもんばかる事しかできない。(三好総務)

もっと議論すべきだった

Q 内容についていけない。ご門徒にも説明できない。ご門主に会う機会があれば伝えてほしい。私の口にいえないものをご門徒さんに伝える事はない。愚身もそう。宗会でもっと議論した方が良かったと感じる。総局にはこの事態を収束してもらいたい。カルトみたい。いま宗門はこのような事をしている場合ではない。

A ご心配かけて申し訳ない。ご意見として受け止める。(三好総務)

混乱を生んだ原因は

Q あわてて法要に間に合わせるように出されたように感じる。そういうやり方が混乱を生んでいると感じる。この内容を、ご門主が出されたからやっていこうとなってしまうと、内容がもしずれたものであった場合、その感覚を持った方々が、ただただ唱和をされていくと、随分と中心がずれてしまうように思う。推進してきたのは総局。この学習会は総局主催で総合振興計画の予算からでているのか。

A 拙速だと各地の学習会で意見がある。ご消息の中での願いもあり、昨年の定期宗会でも報告のとおり、慶讃法要で唱和をすると報告をさせていただいた。学習会については普及周知についての説明もさせていただいた。(中井部長)
A 昨年の定期宗会の中で議決されたもの。この学習会の予算は宗門総合振興計画の中でたてられたもの。特別会計で進められている。学んだあとに唱和すべきという事について、法要での唱和はご消息が発布されたものとして法要で唱和されたにすぎない。(三好総務)

Q 釈尊は唯一の生き仏だと思っている。仏智見が出てくるならばご門主は生き仏か。

A あきらかに論理飛躍だと思う。仏徳讃嘆として語っておられると申し上げた。(満井所長)

Q ご正忌報恩講において。満井所長は改悔批判の与奪者となられた。その期間はご門主という事。その中で、「新しい領解文がご消息として発布された事は皆さんもご存じでしょう。せっかくご制定いただいた」と仰った。制定とは決まり事。これは正しい表現だったのか。先ほどは「自力の行をつのるものではなく法律や道徳で縛るものでもない。」と仰った。これは制定とは真逆のこと。

A たしかにご消息は発布なので、制定は表現上まずかったかもしれない。もちろん縛るものではない。最初の領解出言は当然自力心との決別が必要だという事において出言。どちらかいうと約生で語って下さっている領解。その他のありようを皆さん味わってみましょうという意味において、あの場ではご説明申し上げて、このような理解を通して味わっていただきたいという思いをお伝えして、みんなで唱和してくださったという形式でつとめた。(満井所長)

Q 改悔批判は真宗の安心の正否を判断する儀式。ご門主の代わりに、「新しい領解文」を説明したのか。

A 安心の正否を判断する内容については、出言していただいた従来の領解文についての安心の内容を、安心・報謝・師徳・法度として説明した。「新しい領解文」についてもふれた。(満井所長)

お唱えすることは不適切

Q 「新しい領解文」は聖教ではないと思っている。お聖教でもないものを諸仏や菩薩の前で聖人の前でお唱えする事は不適切だと思う。

A お唱えするものではなくて、信心の自己表明としてということ。(満井所長)

意見

・何のための学習会か。
・浄土真宗の一番大切なもの「後生の一大事」が抜けている。
・学習会は大切。
・原点に戻っていただきたい。
・学校の入学式などの行事で君が代の斉唱が法律化された。歌わない人、起立していない人は、勤務ノートにマイナス評価がされることがあった。同じように感じる。上から下、というのは、宗教界ではやめてほしい。
・ご門主がすすめているのに、唱和は個々のお寺に判断をまかせるなどという事は止めてほしい。
・学習会ではなく討論会のようだった。ご消息は伝達するものだったはず。


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