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どうして生じた?領解文問題 vol.10

松月博宣ノート

門主制についての一考察①

新しい「領解文」についての消息が発布され、その内容とともに発布の経緯に疑義があると宗門内は混乱の極みにあります。また一般メディアもこの問題を宗門を分断するほどの内紛であると報道する向きもあります。同時にご消息を発布した門主にその責任があり「門主制」そのものの在り方を問うという意見も散見されます。筆者はこの度の混乱の主因を単に門主制に求めるならば問題の所在が明らかになる事はないと考えます。

この度の混乱は「門主制」を巧みに総長が利用したことに、大きな原因があると筆者は見ており、先ずはその点を明らかにしていきたいと考えるものです。

1.そもそも門主とは?

門主について本願寺派では

第2章 門主
(門主)
第6条 門主は、この宗門の宗制及び宗法に基づき、法灯を伝承して、この宗門を統一し、宗務を統理する。
2 門主は、本願寺住職をもって充てる。

と規定され「法灯伝承を行うこと」に門主の役割を置いています。これは門主は本願寺派における「宗教的権威としての存在」であり「本願寺住職がその任にあたる」ことを示すものです。

では、本願寺典令ではどのように規定されているか。

第3章 住職の法灯伝承
(法灯伝承の順序)
第17条 住職は、世襲であって、宗祖の系統たる大谷宗家の家系に属する者が、次の順序によって、これを伝承する。
一 住職の嫡出の長男子
二 住職の嫡出の長男子の長男子
三 前号以外の住職の嫡出の長男子の子孫
四 前各号以外の住職の子孫
五 住職の兄弟及びその子孫
六 住職の最近親の系統に属する者
2 住職を伝承する者は、得度式を受け、僧籍にある者でなければならない。

「本願寺典令」(寺則)

とあり、本願寺住職は大谷宗家の家系にある者で、その長子が世襲によって就くことが明記されています。この規定によって門主は大谷宗家が世襲していく根拠としています。

次に「門主無答責」の原則というものがあります。これも法規で規定されているものです。宗法の同じく第3章 (門主)の「宗務の執行」について

第9条 門主は、宗務機関の申達によって宗務を行う。
2 前項の宗務については、申達した宗務機関が、その責任を負う。

宗門法規 第3章

この条文に明らかなように、門主としての宗務は全て総局(宗務機関)の申達によって行うもので、門主の宗務上の行為の責任は申達した宗務機関にあると規定しているものです。つまり「責任はあるけど、責任は問わない」ことを原則とするものです。何故かといえば「門主を宗教的権威」として存在させるということです。

門主制を「貴人信仰」だと批判する考え方もあります。それは血筋とか家柄とか家系により、それを尊いものと「崇め奉る」ことへの批判であると思われます。その批判はもっともなことと筆者も思います。

ブッダの言葉にも

136  「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる。」

中村元訳『ブッダのことば』第1.蛇の章・7.賤しい人(35頁)より

「貴人信仰」の対象として門主を見るならば、その批判はあたります。これを一般寺院の「僧侶」に置き換えて考えてみると分かりやすいと思います。私の娘が大学生時代得度をし僧籍を持ったので、ご門徒宅へ数軒の盆経に行ってもらったことがあります。その時、ご門徒は孫のような娘に対して最大の敬意をもって迎え入れ接遇されたと。そして「私のような者にそう接してもらうことが烏滸がましくて」と口にしたことがあります。それは「お寺の娘だから」とか「孫のような娘が尊い」と接遇された訳ではなく、娘の付けている「お袈裟(仏法)」を尊いものとしておられるからの所作であっただろう事は想像できます。

 個人としての大谷光淳氏を親鸞聖人からの血筋を引く方だから「貴い」とする考えは危険です。あくまでも浄土真宗本願寺派の伝燈されている宗義を護るシステム上での役割が「門主」であるから「尊い」という捉え方が必要不可欠な事だと考えます。

例えばカトリックのローマ法皇も宗教的権威的存在です。ただ本願寺派と違うのはコンクラーヴェという「教皇選挙」で、全カトリック教会の最高司祭たるローマ教皇を枢機卿による投票で選出する手続きでもって就任するもので、大谷宗家つまり親鸞聖人の血統に繋がる方が就任するのとは明らかな違いが有ります。

どちらが良くてどちらが悪いというものではありませんが、枢機卿による選挙は幾度となく修正と改正が加えられとても厳しい決まり事が設定されていると言われます。おそらくその間には選挙にまつわる人間業が禍いしたことがあったからだろうことは想像出来ます。それだけ人間には深い闇があります。何しろ枢機卿と言えども人間ですから、その人間が「宗教的権威者」を選ぼうとする難しさが制度を何度も修正させているのでしょう。

もし本願寺派門主を選挙で選ぶ事になれば、門主に「就けたい人と就きたい人」が現れ、そこには自ずと人間の業が現行(げんぎよう)し、政治的・利権的駆け引きという宗教教団として最も忌避すべき状況が起こるであろうことは想像に難くありません。まさに歎異抄の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」ですから。その点大谷宗家が本願寺住職を世襲によって継ぎ、本願寺住職が門主に就任するという制度は、それらを排除する意味では合理的なものであろうとは思います。

一方大谷派の場合は教団問題の混乱を経て、「宗憲」の改正が行われ、門首は

真宗大谷派のすべての僧侶及び門徒を代表して、真宗本廟の宗祖親鸞聖人御真影のお給仕と仏祖崇敬の任にあたるとともに、僧侶及び門徒の首位にあって、同朋とともに真宗の教法を聞信する地位

と規定されていますが、依然として大谷宗家が就任されています。ただし宗意安心の裁断権は与えられていません。先般、東本願寺で催された「子どもの集い」でのご門首の挨拶の様子を録画で視聴しましたが実に血の通った温かい言葉と人間臭い様子でした。また門首の座席の位置に驚きました。なんと参加している子どもと同じ場でご本尊に向かう形でした。これだけで私の門首に対する親しみが増したことは言うまでもありません。おそらくそこに集う子ども達も同じでしょう。「求心力」という事がありますが、それを感じました。大谷派「宗憲」の門首規定に「僧侶及び門徒の首位にあって、同朋とともに真宗の教法を聞信する地位」であることを、こういう形で具現化しているのだなぁと思ったことです。

短絡的に本願寺派も大谷派に倣うべきと言うのではありません。あの形に何故なったのか、大谷派に何をもたらすのかを思うのです。大谷派は過去の騒動の反省からか「宗憲」によって門首の宗務権限は悉く排除され、特に宗意安心の裁断権は「講師」と「嗣講」の内から宗務総長の指名を受けた10名以内で構成される「薫理院」がその権限を持つことになっています。つまり教学者が直接宗意安心の裁断権を持つ形になっています。ですから大谷派の門首は「宗教的権威の立場ではなく」親鸞聖人の門徒として首位にある存在とされ「大谷派門徒のお手本」との位置付けなのだろうと思います。この事の善し悪しはご隣山・他派の事ですのでコメントのしようがありません。

これに対して本願寺派の門主制度は宗意安心が保たれる「安全弁」であるという見立てもできます。ただ大谷宗家に長男として生まれた方には職業選択と一定の個人の自由が始めから保証はされていない面があります。ご門主がそのようなお立場でおられる事は知っておく必要があると思います。

【参考法規】
本願寺典令
第3章 住職の法灯伝承
(法灯伝承の順序)
第17条 住職は、世襲であって、宗祖の系統たる大谷宗家の家系に属する者が、次の順序によって、これを伝承する。
一 住職の嫡出の長男子
二 住職の嫡出の長男子の長男子
三 前号以外の住職の嫡出の長男子の子孫
四 前各号以外の住職の子孫
五 住職の兄弟及びその子孫
六 住職の最近親の系統に属する者
2 住職を伝承する者は、得度式を受け、僧籍にある者でなければならない。
(法灯伝承の時期)
第18条 住職の伝承は、住職の遷化又は退任によって行う。
2 前項の伝承は、嗣法が就任しているときは、直ちにこれを行う。
3 前条第1項第1号又は第2号に掲げる者が得度式を受けていないときは、得度式を受けないことが確定するまでは、同条第1項第3号から第6号までに掲げる者が得度式を受けている場合でも、住職代務を置かなければならない。
4 前条第1項第3号から第6号までに掲げる者のうちから、住職を伝承する者を選定する場合においては、伝承委員会の議決によらなければならない。

門主制についての一考察②

本願寺派における門主は、大谷宗家の長男子が世襲する本願寺住職が就くことが宗門法規と本願寺典令よって定められており、その役割は広範囲に及んでいますが、全て本願寺派総局と本願寺内局の申達によって行われ、その責任は全て申達した総局と内局が負うことになっています。それは門主の「宗教的権威」を担保保証するものであることを前回①で述べました。

ここで、もし本願寺派に「宗教的権威的存在である本願寺住職が世襲する門主制度がなかったとしたらどうなるか?」をシュミレートしてみます。以下は荒唐無稽な話に終始することになり失笑を買うと思いますがお付き合いください。

○全く門主という宗教的権威を置かない場合
まず「法灯を伝承し宗門を統一し、宗務を統理する」存在がないという事は宗門の依って立つ物柄・軸足がない宗門になるという事です。私どもの家庭では意識はされていませんが「祭祀承継者」が存在します。概ねその「家」を継ぐ者にそれは代々受け継がれ、その方を中心に仏事などが執り行われています。昨今はこの「家」制度の崩壊が言われていますが、家制度に頼った仏事執行に頼りながら辛うじて出来ていた「寺院護持」と「法義伝承」が出来にくくなった結果が、今お寺をお預かりする者にとって大層な痛手となっています。またご門徒も「家の宗教」として保っていたものが無くなるどころか、各人の「私の生きる軸」としてのご法義に会うご縁さえ無くなってしまっているのが現状ではないでしょうか?

家制度に頼った寺院運営と法義伝承は江戸時代の悪しき寺請制度を利用したもので本来の在り方ではない、と論評することは可能です。しかし事の良し悪しではなく事実私たちはその中にどっぷりと浸かり享受してきたのです。またそれによって仏縁に会う方がたくさん存在していたことは否定出来ません。私たちはそれに依存して寺院活動を行っていたのです。「閉ざされた安泰」と前ご門主が表現されていましたが、これからは閉ざされた安泰そのものの根本をも完全に失う時代になります。お寺の未来というか近未来の寺院は如何なるものに変化できるのか?これが私たちに突きつけられている大きな課題です。

ここで「祭祀承継する者」を「法灯を伝承する門主」と置き換えて考えると、門主制の無い本願寺派は軸足を持たない根無草的存在になり、早晩消滅に向かうと予想できます。「家」がそうであるように。包括団体である宗派は無くなっても一般寺院は存在し得るかもしれません。しかし大きなサンガが無くなるのです。寺院を住職を中心とした同信の同行が集う場と定義するなら、孤立した寺院となりますから、ご法義の伝承も学びも独善に陥る可能性さえあり得ます。このように考えてみると、私たちは良きにつけ悪きにつけ「宗門を統一する存在である門主」に依存し、それを頂く宗派という大きな傘下でさまざまな影響や恩恵を受けながら存在していることを思うのです。

次に、〇「宗意安心の裁断」の役割を担う門主が不在の場合を考えてみましょう。大谷派のように、宗意の裁断をする役割は勧学・司教に委ねられることは考えられます。しかし大谷派には大谷宗家が継承している「門首」の存在があっての上です。すでに述べたように宗門を統一する存在である門主を失ってしまったら宗派さえ消滅するのですから、勧学司教などの存在さえあり得ません。すると各寺院の僧侶は師匠を持たないままに聖教を読み始めることになります。「師無き学問は外道に陥る」で、独善独学の自分の勝手な見解「自見の覚悟」で法を伝えてしまう恐れは十分考えられます。

このような状況になると、心ある僧侶達は各地で仲間を作り師を求める動きを始め、やがて集合体を形成することになるでしょう。その集合体の芯をどこに置くかが課題になるものと推測します。おそらく新たな宗教的権威を求め始めるに違いありません。なぜなら集合体には求心力が必要であるからです。それは概念としてのものではなく実体として揺らぎの無いシンボリックなものでなければならないのです。

また宗派がなくなると僧侶になる儀式執行も叶わなくなるということです。
このような事を考えている時ふと、その状況になり初めて本来の宗教形態「私の宗教」の意識が芽生え原点に立ち返る可能性もあるやに思ったりもします。右往左往し荒っぽい話に終始しましたが、私たちは気付く気付かないに関わらず、また是否を抜きにしても宗教的権威を担保するシステムとしての「門主制」に依存しているものと思われます。

門主制についての一考察③

前回②では、もし本願寺派から門主制を無くしたらどうなるかを考えてみる事で、門主という宗教的権威は宗派の求心力となり私たち一般寺院に対して少なからず影響を与えていることをあらためて思った事です。法規上の門主の役割は既に幾度となく述べています。今回は「門主は果たして無謬か?」

今回の混乱で聞く言説に「ご門主が発布されたものだから」その内容に疑問を持つことは「門主批判」につながるから避けるべきことと言うものがあります。これは「門主無謬説」に立った考え方でしょう。なぜ無謬説が存在するのかと言えば実に単純で「ご門主だから」なのです。つまり「ご門主は間違った事は行われないし、仰らない」という大前提の思考が働くのです。

これはある意味正しいのかもしれません。何故かというと「門主の宗務は全て総局の申達により行わられるものであり、宗意安心に至っては宗門最高学階位にある勧学寮員全員の同意制でもって法義的間違いが起こらないよう目を光らせている」という制度上の安心感がそう思わせ言わせていると考えられます。

それは門主の「宗教的権威」に信頼を置くにふさわしく感じさせるよう「システム化」されているからです。このシステムは私たち僧俗が総局並びに勧学寮に委託していると考えていた方がいいように思います。委託している事柄が間違いなく機能しているかをチェックする役割を持つ機関が宗会であり議員であると考えています。

その上でシステムがきちんと機能するという大前提が「門主の無謬説」を産んでいるのです。ですから正常に機能している状態では、そのことが意識されることなく宗門は粛々と時を刻むことが出来ていたのです。私の投稿はシステムが機能不全を起こしてしまった原因と経緯について多方面から検討を加えてきたつもりです。

システムの機能が健全に働いてるかどうかをチェックする宗会において、先の言説「ご門主が発布されたものだから批判してはならない。だから唱和推進に反対してはいけない。」また宗意安心をチェックする機関の勧学寮では「勧学寮の役割の一方にはご門主を守る役割もあるから、先にご親教になったものを否定する訳にはいかない」

見事に2つの機関が完全に機能不全に陥っていたのです。これでは「門主制」を守るどころか壊してしまうような事をしてしまっていると私は見立てています。「門主の無謬性を成り立たせるものが宗務機関」で、言うならば「門主機関説」とでもいっていいと考えています。それらの機関の機能不全を起こさせ宗門を混乱の窮地に陥れたのは極めて個性的で特異な思考を持つ人物「石上智康」という1人の総長であると言わざるを得ません。

門主制についての一考察④

宗門を混乱の窮地に陥れたのは「石上智康」という個性的で特異な思考を持つ1人の総長であると言わざるを得ないと、その責任を総長にあるとしたのは「宗教的権威システムとしての門主制」を総長という権力を濫用し「ものを言わせぬ状況」を作り上げ、極めて個人的な領解を宗門全体のものに塗り替えてしまうといった、まったく宗祖の教えに背くような宗務運営をしていると見立てているからですが、果たしてそれだけでいいのかという思いもあります。総長の責任は当然のこととしても大方の人が最も知りたいのは「ご門主の本心はどこにあるのか?」です。それと「前門さまはどうお考えになられているのか?」でしょう。

5月16日からは慶讃法要最後の第5期が始まり21日にご満座を迎えます。お参りしてもアンコンシャス・バイアスがかかっているためか50年前のご法要にお参りした時のような感慨とご開山ご出世のご恩を静かに想い、お礼を申す気持ちに中々なれないどころか、混乱の最中でのご法要にしてしまった「申し訳なさ」が先に湧いてきたことは悲しいことです。

法要後の「ご親教」を直接に、また中継画面を通して幾度かお聴聞していますが、随分お疲れの様子のご門主が語られることは「石川県地震被災者お見舞い、コロナ関連のお見舞いと感謝、それにロシアによるウクライナ侵略への憤りと抗議」に多くの時間を費やされ、そのあと「新しい領解文を発布した意味と唱和することをお勧め、それをもって真宗の肝要を正しく領解した念仏者は、だんだんと執われの心も阿弥陀さまの働きにより少なくなり、他者の悲しみ苦しみに同悲同感できる身と育てられ、仏さまの真似事のような事が出来る生き方になっていくのです」という趣旨を語られます。

門主が社会的なことに対して発言をすることも必要なこととは思います。しかし法義の上からの見解が見当たらないことは残念なことではあります。確かにロシアの件では「兵丈無用」「世の中安穏なれ」言葉としては言われますが、です。

「ご親教」とはご門主が「親しく教えを伝えてくださる」ご法話のことを言います。法話は親鸞聖人をはじめ数多の浄土を願う高僧方がお示しになられた「聖教」のこころを取り次ぐものと教えられてきました。その中心はなんと言っても立教開宗の根本聖典(ご本典)「顕浄土真実教行証文類」です。これはご門主のご親教とて外してはならないものと思うのです。

「新しい領解文」の師徳段と見做されるところには

これひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

とありますが、これはご門主から『浄土を願われた高僧方や、お育てくださったと思っているあなたの数多の師匠やお同行方は導いてはいませんよ。導いたのは歴代宗主だけですよ。これからはそう思いなさい』と言われた感じがして『いくらご門主と言えども、それはあんまりです。私の内面の心と聞法の歴史まで否定しないでくださいよ』と言いたくなるものです。

ましてや私は親鸞聖人その人に救われたのではなく、その教えに救われたと思っています。ですから教えを示してくださった親鸞聖人とそれを「間違いなく」伝承してくださった善知識にお礼をするのですが(以下略)。等と思っていることは一旦置くにして。

「ご親教3部作」や、今回のご法要でお聴聞する「ご親教」でも、或いは唱和推奨される「新しい領解文」にしても私の学びが足りない所為なのでしょうが、今まで聞き学ばさせてもらってきたこととの差異があり違和感を感じる部分が多いのです。このままでは「歴代宗主の尊いお導き」と脳天気に言ってるどころではなくなることを恐れています。(この部分は権威付けが好きな総長の意思でしょう)

私の今までの「聞き損ない」が原因だとは思いたいのですが、他の方も同じような感想を語られることを聞くと、あながち私だけの違和感ではなさそうです。そうなった原因はこの連続投稿の中で述べてきたように「総長と研究所勧学の関与」(何故その勧学がそれに関与加担したかは想像にお任せします)があることは推して知るべしです。

申達事項ですから関与自体があらねばならないのです。(もっとも総長は3月27日の常務委員会では「内容についても一切関与していない」と述べています。自分を守るために論外な発言をされたものだと思います。それも宗報で公表までして)関与するにしても、その内容が今回問題ありとする「私の新しい領解」として示されたものなのです。またいくらご門主が「総局の責任において推進される事業であり、関与の仕方が難しい」という苦しい立場に置かれているにしても、今回は「ご信心」そのものの問題なのです。そして発布は「龍谷門主 釈専如」となっているのです。

門主制についての一考察⑤

「門主も煩悩持ってる人間だろっ!!」。随分前のことですが福岡教堂礼拝所を会場として開催された総局巡回の席で怒号が響いたことがあります。巡回のテーマが何であったか記憶にないのですが、確かあまりにも門主を崇め奉るような総局の説明であったためか、思わず口にせずにはいられなかった言葉だっただろうと思います。先にも述べた「門主は無謬である」という立場が総局で、それに苛ついた方の発言だったと思います。

大谷光淳さん(ここでは敢えてこう呼称しています)は本願寺ご住職であり本願寺派ご門主です。そのお立場は「龍谷門主釈専如」さまとして宗門における「宗教的権威」として存在してくださっています。しかしその立場に置かれている大谷光淳さんも阿弥陀如来の前に額ずき、お慈悲を喜び念仏申す一人の衆生として私どもと共に阿弥陀如来の本願力に救われ往生浄土の人生を歩まれる如来の一子であることは言うに及ばないことです。

もし大谷光淳氏個人を如来の一子としてではなく、やたら特別視し、挙句「聖人」扱いし崇め奉るばかりでは同信の同行集団、同朋教団とは言えませんし、親鸞聖人の教えとは遠く離れた在り方と言わざるを得ません。

私は「ご門主として宗教的権威(親鸞聖人の役割・宗意安心)という大切で大変なお役割を今の時代に担ってくださっているお方」としてご門主をお敬い申し上げるものです。その門主の地位を保持(たもつ)ため、人知れずの努力と神経を擦り減らしながらの生活をなさることは並大抵の事ではないと拝察しています。ここのケジメを私ども門末はきちんと持っておかなければ教団としては成り立たないと思うのです。この事は前にも述べた通りです。

一人の生活者であられる光淳氏も煩悩成就の凡夫人として人間関係に悩まなければならない苦悶からの、また逃れ難き生死の迷いからの、救いを南無阿弥陀仏をタノム一念に伺うことを、踠きながら聞き開いていかれているものと拝察するものですが、そのご門主のお姿が本願寺派全寺院の僧侶と門徒の大きな希望であり同時に大きな求心力となっていくものだと思うのです。

しかし残念ながら私どもの教団はご門主の「ありのままのお姿」を見せないようにすることが門主の権威を守ることになる、という勘違いがあると思います。それは本来の門主制には馴染まないことであるし、特に価値観が多様化した時代には通用しないことだと指摘しておきたいと思います。

現代版領解文制定にあたっては「権威あるもの」である必要があり「それはご門主に制定してもらうほかはない」という答申書が出来上がってしまった事実が今回ありました。それは「総長の時代遅れの権威好き」というか、権威に頼る思考が増幅され反映されたものと考えられます。

総長が異常なまでに門主を権威付けしようとするのは、逆に言えば本来的に「宗教的権威としての門主」であるはずなのに、世俗の価値観で物事を思考することと、ご門主とあまりにも近しい関係性(甥と叔父)からか、その本来的な門主の宗教的権威の本質を見ることができなくなってしまっていることに由来すると思うのです。つまりは光淳さんをリスペクトしてない。また表現が悪いかも知れませんが私たちも「祭り上げ」過ぎることで結果的に「ご門主の生身の姿と言葉」が門末に届かない状態になっています。ですから今回の新しい「領解文」について、これはご門主の真意か?が分からない焦躁感が問題をより複雑にしていると思うのです。

で、本当はご門主はどうなのか?(つづく)と、終わったら怒られますから結論を先に。今のところ「確かな事は分かりません」が、いろんな状況から少しばかりそれを伺い知る事はできると思います。

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/


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