宗会活動報告(宗会報告及び宗務活動報告)第四〇号/玉井利尚議員
第三二一回定期宗会(令和五年二月二十二~三月三日)
第三二二回臨時宗会(令和五年五月三十~三十一日)
奈良教区宗会議員 玉井利尚
宗会までの動き
いよいよ法要が迫ってきた時に行われた定期宗会です。法要庶務本部長として常勤になり、「新しい領解文」と親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要をどうするかが問われていると思っていました。
石上体制で発表された「新しい領解文」(以下「新領解文」と表現します)にはいくつもの問題点があります。これは「勧学・司教有志の会」(以下「勧・司会」と表現します)の声明文でも指摘してくれています。
一方で、この慶讃法要は、親鸞聖人によって明らかにされたお念仏の意味をしっかり受け止めていく大切な法要ですから、私は本部長職を引き受けました。
私と同じ時に任命された式務の杉浦会行事は法要(好評だった新制御本典作法。演出も今までにないもので感動を持って受け取られました。残念なのは和讃譜が三座しかなかったことです)を急ぎ制定してくれたり、様々の法要のための御影堂内の準備を精力的にこなしてくれました。
そんな中で定期宗会は、前日の宗門総合振興計画推進会議から始まりました。
宗門総合振興計画推進会議
二月二十一日午後一時から宗門総合振興計画推進会議が開かれました。私が所属する顕心会の皆さんは、昨年の宗会報告でお知らせしたように「反・新領解文」で統一されていました。われわれの宗門は安心(信心)のことが何より大切であり、法要の折のお聴聞は、信心のいわれを聞き、その信心をいただき生活をしていくからです。信心なくても生活は出来ますが、自分自身を振り返ることなく、自由奔放に振る舞う人生は羅針盤がない航海をしているようなものです。
私自身は「新領解文」は異安心だと思っています。第一段落で、自分の煩悩と仏のさとりは本来一つと言いますが、これは親鸞聖人は厳しく反対の立場を取っています。いわば「十劫安心」「無帰命安心」と古来いわれて異安心とされたものであろうと思います。第二段落は「善知識だのみ」と言われた異安心に繋がるものです。第三段落は「三業帰命」と言われる異安心につながるものでもあります。
ビハーラ病院・施設の問題
城陽のビハーラ病院や老人介護施設についても大きな問題が出てきましたが、ビハー ラ病院は何とか神戸の医療法人に運営を譲渡でき、現在は黒字と行かないまでもトントンの運営ができています。昨年十月からの状況ですが、さすがプロ集団という感じです。昔の長期計画の室長をしていた時、その長期計画を閉じるときに門徒議員さんが「先生こんなものに素人が関わってはダメです。」と言われていたことが思い出されます。今は亡くなられた人ですが、この事をずっと仰ってました。このような骨のある人のいたことをうれしく思います。
また老人ホームの方も、運営がずさんで大きな損失を出していました。ビハーラ病院が大変なことは多くの人が認識していましたが、老人ホームまでもか・・・と驚きました。でも当局は知っておかねばならないことだったと思います。
第三二一回定期宗会と審査会での審議
二月二十五日午前十時開会式が始まりました。コロナ対応で半数が議場で、残りは控室で参加しました。いつものように開会式の後ご門主のご教辞です。
相も変わらず「新領解文」に関わること(御正忌報恩講ご満座で新しい領解文についてのご消息を出した事)が示される。この事は三月二十九日から慶讃法要でもかわらず続けられた。聞くのがつらくなる状況でした。
開会式の後、総長の執務方針演説、昨年度の決算報告、監査報告、本願寺執行長報告、財務方針演説と続きました。その後通告質問になりました。
通告質問で「新領解文」に関する質問には真正面から応えようとはしませんでした。その後、各審査会に議論はゆだねられました。私はここでコロナに罹患し、残念ながらこの場から去りました。採決が行われ賛成多数でいずれも可決しました。反対したのは十数名の顕心会メンバーと少しの宗会議員だったようです。
また、「新領解文」を唱和することを止める誓願が出されました。これは顕心会議員と有志の議員が共同提出したものですが、残念ながら不採択になりました。ことここに至っては全てが否定されました。
慶讃法要の開始
宗会が終わり、八百五十年八百年の慶讃法要が始まります。急に法要庶務本部長に加えて行事部・団参部も兼任することになりました。これは驚きました。この時点でいくつもの遅れがありましたが、何とか間に合いました。ただ連休中に行われたLGBTQについてのシンポジュウム(龍大大宮学舎が会場)はいい企画でした。しかしこの行事の立ち上がりが遅かったので、素晴らしい企画がほとんど宣伝がでてきていませんでした。
また記念出版二冊については、滞りなく三月下旬にできました。
取り敢えずせねばならぬ事はしました。それ故、法要開始時には疲れていました。参拝してくださった皆さんをお見送りするのも私の役でしたので、神経痛が出て足腰が辛かったのを思い出します。
五月二十一日ご満座を迎えました。その折りのご消息は全く聞いていて有り難いものでした。ご門主は気付いてくれたのかと期待しました。
法要後の急な展開
慶讃法要がご満座を迎え、一連の行事が終了しました。その時に石上総長が辞意を示しました。私たち顕心会はこの法要の後どのように総長を追求するべきかを話していました。
石上総長はこの法要まで自分の思いを全国の門信徒に伝える場としました。その総長が辞意の表明とはと不思議に思いましたが、その少し前から「勧・司会」から幾度も声明が出されていました。その声が燎原の火のように広がってきました。(私たちが二年以上前から反対の声を挙げていましたが、歯牙にもかけず無視していました。)さすがに「勧・司会」の声は重みが違います。
石上総長は現在の浅田勧学寮頭に、この声を押さえるようにと文書で依頼したのです。しかしあっさりと「私の関知することではありません」と断られました。この事を知り(ご門主の「ご満座の消息」もごく普通の「新領解文」に触れていない消息でした)、もうこの声を止められないと思ったのか、突然の辞意表明でした。それから急遽総長を選ぶ臨時宗会が宗務日程にあがりました。
臨時宗会の内容
冒頭はご門主のご教辞です。またも「新領解文」に関わる内容でガッカリしました。また石上氏の退任の挨拶も、「私は内事部から回移されたご消息文案で、事前に勧学寮の同意を得たため、同意されたそのままの文案でし、ご発布たまわった。総局としてその手順に瑕疵はございませんし、私が文案に関与した事実もない」と、法規違反はしていないと改めて主張しました。しかし、その勧学寮の同意は様々な策を弄した事がほぼほぼ分かっています。だからこそ問題なのですし、昨年の宗会で我が会派の人が問いただしたところです。議事録は提出すると当初は言っていたがダメとなったり、勧学寮に不当な圧力を掛けたのでは、などと不審なところは数多くあります。あまりの不遜な対応に恐れ入ります。
ともあれ総長選挙が始まり、門主の指名が議長から示されました。池田行信氏と保滌(ホテキ)祐尚氏の二人でした。門主が保滌祐尚氏をご存じなのは驚きました。翌日投票があり、保滌氏二十二票、池田氏四十七票、白票四、無効票一で、池田氏の当選が決まりました。同日に総務、本部長の慰労会があり、組閣に困難していると前総務から聞きました。ちなみに我が顕心会は誰一人として入らず、またのち明らかになるのですが他会派は離脱者が出て会派の体を為さなくなるなど、大変な(混沌)状態でした。
投票前、池田氏は我が会派に挨拶に来ました。会派の人が、今後石上路線をどうするのかと聞くと、それはまた今度と言いよどみました。でも、それを聞かないと投票行動は取れないと言い、結果、石上路線を踏襲すると言いました。それで我が会派は総務になっていません。完全に排除されました。
今後まだ流動的であると思いますが、的確な判断で対応したいと思います。
※編集後記※
今年の定期宗会(二月)も臨時宗会(五月)も意見を言う立場ではなく黙っていなければらない状態(辞表が受理されるまで法要庶務本部長でした)でした。しかし事態は「勧・司会」の人たちの尽力でだいぶ様子が異なりました。また定期宗会ではコロナに罹患し療養生活を送りました。そのため宗会活動報告が遅れましたことをお詫びいたします。何人かからはお気遣いをいただきました。教義(安心)の問題はこの宗門については何より大切な事です。私の仲間達も一所懸命に取り組みました。今後も取り組んで参りたいと思います。
令和五年六月三十日
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