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2018「私たちのちかい」についての反応

浄土真宗本願寺派では、近年唱和を推奨することばが3つ制定されました。その最初が2018年11月23日発布のご親教「私たちのちかい」です。以来、本願寺関連施設や宗門学校などで唱和されています。

この言葉と唱和推奨というアクションに関して、当時さまざまな疑問の声があがりました。ここに紹介します。

私たちの「たち」って誰ですか?

50代・男性・僧侶

誰が考えるんだろうな~お念仏ですら 、自然体で出て来るのに何十年っていう歳月が掛かるのに 、マニュアルでおされると、引いちゃうな~ 

60代・男性・僧侶

これ出来る人居るのかな?『漏れなく救う』はどうなったの?そもそも宗門の偉い人、怖い顔の人ばっかりだし…(笑)

50代・男性・僧侶

出来る人はどうなんでしょうね?おそらくいないと思います。あくまでも真似事だからです。努力目標として、ご門主さまが掲げらたのだと思います。私は、この号外の編集にも携わっていませんので、内容を知ったのは、ご親教を聞いた時です。なので、宗門人でありながら「私はついていけるだろうか?」という違和感もありますが。漏れなく救うという、 阿弥陀如来さまのはたらきでの上の話をされているのだろうと思いますが、それが文言に一 言もないのはやはり寂しく感じますね。和顔愛語。確かに、柔和なお顔と優しい言葉で接する僧侶が少ないですね。目標を掲げたのだから、目標だけにとどまらないようにしなければ なりません。偉い方々は、どのようにお考えなのかは、よくわかりませんが、きっと説明があるのでしょう。

40代・男性・僧侶

死ぬなら生かされなくなるのかしら

30代・男性・僧侶

だんだんと威圧的に成って、来るね ~ お祖師様のご意志?

60代・男性・僧侶

親鸞聖人のお叱りを一般化しているので、厳しく感じるのだと思います。親鸞聖人のご消息を読む方はもともと、親鸞聖人のことを十二分にお知りになったご門弟なので、親鸞聖人も 少しの遠慮もなく、追及されています。それを現代語訳しているのですから、ぼんやりとしている私は威圧的に聞こえるのかも知れませんね。親鸞聖人の厳しさはやはり近寄り難く、蓮如さんの御文章が有り難く感じるのは、私だけでしょうか。

40代・男性・僧侶

他の板を読んでいて、ひょっとしたらこの「私たちのちかい」に関して、大きな誤解があるのではないかと思い、一言書いておくことにします。写真の号外の文章にも書かれているのですが、ご門主さまは「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが」と述べられている通り、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心」とは信心のことです。なので、この「私たちのちかい」は、信心をいただいた方の努力目標を示されたと受けとるべきでしょう。「聴聞せんと、パチンコばっかり参っとる奴が、浄土に往けるかはわからん、お寺に参るようにならんとダメじゃ」、「信心得た後の法悦、報謝を語るのは贅沢じゃ」などと、和上には信後の利益や報謝を説くだけの文章は怒られそうですが、この「私たちのちかい」を誤解して、聖道門化してるとか言うのは少し違うのではないかと思うのです。

40代・男性・僧侶

ご門主はその時代、世相に合ったあり方を発布されていらっしゃるのだと思います。生活信条は前々門様の時だと思います。形だけの僧侶、名ばかりの門徒ではいけますんよということからお作りくださったのではなかったでしょうか。それが現代に合わなくなっているのであれば置き換えればいいと思うのですが、読ませていただくにみんな大切な内容です。しかし、数が多ければいいというものではないと思います。重みを持たせるには数ではないですよね。生活信条さえ暗唱できない人もおられます。

60代・男性・僧侶

高校生向けと言いながら、かなり高度な助正論のカテゴリーになっているような。要門助正説で、しかも従来は「微々に顕現する」と言われていたものを全面的に表に出しているから。

40代・男性・僧侶

大変練られた文章ですね。これはこれは
中学生高校生からとありますが、念仏者すべてに
となっていますから、どのような位置づけがなされるのでしょうか?そのあたりは今後さだめられるのでしょうか。

40代・男性・僧侶

あぁ?恥ずかしい!この「ちかい」に全くそぐわない私が居ます。そんな私はどうしたらいいのだろう?こんな私を受け入れてくださる世界はないのだろうか?

60代・男性・僧侶

南無阿弥陀仏の救いはわたしたちの生き方を問いませんから、まったく問題ありません。生き方を問うたり限定しようとしたりするのは人間です。南無阿弥陀仏の救いは人間による救いではありませんから、まったく問題ありません。ただ、教団の中では「こういうふうに生きたらどうだろう?」「いやー、それは違うんじゃないか?」「いやいやそれで良いんだよ」みたいに議論というか意見交換というかはしていって良いのだと思います。だからこうやって話す。でも、滅多矢鱈な上意下達で押しつけっぽく「わたしたちの!」が出てくると途端に「あーハイハイ」で流すべき?みたいな変な臭いがしてきます。どうしたら良いのかな。また、南無阿弥陀仏の救いはわたしの生き方を問いませんが、南無阿弥陀仏に救われるわたしはわたしの生き方を真伨に問うべきではあります。逆説的ですが、そのように言うべきだと思います。で、そのときの最大公約数みたいなのを探ろうとしたり提案したりするのはとっても良いことだと思うけれど、いきなり「こうだぜ!これ以外ないぜ!」みたいに言ってくるのはやっぱり何か心が奥底からザワザワします。

40代・男性・僧侶

目標にして努力せよという教訓としては理解できても、ある意味でこれが出来るのはお悟りの仏さまなんだと思います。凡夫の私には無理かと思われます。しかしご門主様のお言葉ですからおもく受けとめます。これが出来ないと僧籍を返さないといけないかも知れないですね。

50代・男性・僧侶

屁理屈を捏ねさせてもらいますと、まずタイトルがダメですよ。「私たち」の範囲がそもそもどこなんだよ、となりますし、「ちかい」って相当重い言葉だと思うんですよ。誓い(約束)は守れないと意味ないし、100%守れなければ、嘘をつくことにつながるわけでしょう。でもやっぱり腹も立つし汚い言葉が出ることもあるし、笑顔でいられないときもあるし、人の気持ちなんてわからないし、そうなると、誓ったことに対して嘘ついたことになっちゃう。その上さらに生活信条などがあって、強く明るく生き抜かなきゃいけないですし、 いやあもう大変です。

40代・男性・僧侶

あれはないわ。怒ってます。

40代・男性・僧侶

喜びや悲しみを分かち合います、ときれいな言葉を並べてありますが、このような言葉が、そう在りたくても在れない人を苦しめるということに、気づいていないですからね…… 1000歩譲って、古くなった生活信条をあらためて、とかならまだわかるんですが、あれはあれでまだあって、その上で、なところにも、勘弁してよという気持ちです……

30代・男性・僧侶

小学校の朝礼で校長先生が言いそうな感じですよね。私には出来ないことばかり。浄土真宗にしかないユニークな良さが全然感じられないんですよね。良い人になろうとするなら、 amazonで良い人の人生書いた本を買います。外の人が浄土真宗に求めてるのってそうじゃないんだよなあと思うのです。私が外の人だから。だれも受け止めてくれない私を受け止めてくれる仏様の手のひらに落ちていけるのが真宗のよさなんじゃないかなあ。一言で言えば、あの文章には悲しみが欠けているのだと思います。

40代・男性・僧侶

ねみみにみみずだよ がっかりさ。まあ、意図がわからんではないし、御代替わりの実績も必要でしょうけれども、けれども…けれどもっ!!

40代・男性・僧侶

苦しみ、無自覚だとおもいます。だって、お聞きになったことがあるのはみんなが嬉々として唱和する感じの場ばかりでしょ。我々が悪い。実態とかけ離れたものを作り上げて示すから。たとえば、最後に、これ簡単にできんからわざわざ努めるんやで。そんで、うまくいかなくても阿弥陀さんの救いのなかだからな!ってちゃんと表現してくれないと、真宗じゃなくても同じになってしまいます。たとえば、「一、これらのちかいの実現が極めて難しい身 であることを見つめそれでも大丈夫とのお救いを享受します。必ず救う任せよとの阿弥陀さまの声に」こんなのをうまいことまとめて追加してくれたらなぁ。

40代・男性・僧侶

唱和するやつは昭和でオワコンにして欲しかった。

40代・男性・僧侶

個人的には「作るべきでない。これらによって苦しめられてきた人の声を受けてこれからどうするかをここで論じている」と答申したはずです。

40代・男性・僧侶

「本当のわたし」自分の殻に閉じこもり、眉間にしわを寄せて、人をののしり、そんなどうにもならない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。むさぼり、いかり、おろかさに流され、しなやかな心と振る舞いを持てない私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。 自分だけを大事にしてしまい、人と喜びや悲しみを分かち合えない私を、慈悲に満ちた仏さ まはそのまま受け止めてくれます。生かされているとは思えず、日々に苦しむ私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。

40代・男性・僧侶

いや~しかし、ご門主は内面にこの想いがあるから、理想的なほうを書けるんだろうね。少しでも内面を表現してくれたらいいのになぁ。そんな環境にいないとすれば、それはまわりの責任だわ…。慚愧なきは・・・と、誰か突っ込みを!ちょうど三業惑乱の本を読んだところだったので、無帰命安心に対する三業帰命を説いた流れを彷彿させてしまう…。あ、この 時突っ込みを入れたのは、本山内部ではなく、地方からの声だ…。

40代・男性・僧侶

何のことかと思いつつ、みなさんのコメントから察して、本願寺のHPを見ました。それにしても、この上なく中途半端なタイミングで、何やら生活信条的なものを発布なさいましたね。(浄土真宗の生活信条は宗祖700回大遠忌に際しての発布だったからこそ、普及力があったと勝手に思ってます。)前回の「念仏者の生き方」でもそうでしたけど、相変わらず主となる部分に「お念仏」も「南無阿弥陀仏」や「阿弥陀さま」も、姿・形がましまさず、言葉も絶えた状態なのは、かなり意識的なものだと感じずはおれません。

30代・男性・僧侶

「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」の言葉を、普通に読むのならば、これでいいのかもしれませんが、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と読まれた のが親鸞聖人だと思うんですけどね……

30代・男性・僧侶

最初から声に出せませんでした。

30代・男性・僧侶

孤独で死にそうになったことのない人の文章。

40代・男性・僧侶

あー。。。これはいけませんね。。。みなさんがおっしゃるように、ここで言うことがどうしてもできないからこそ阿弥陀仏の救いにすがる他無いのではないかと思うんですが

30代・男性・僧侶

この文章を読み上げようと思ったときに「うっ...!」ってなる人いると思うんですよね。私 はなるんです。で、そういう「うっ...!」ってなる人にこそ、浄土真宗の教えにであってほしいと思うんです。こういう文章が出たことは私としては純粋にショックですね。

30代・男性・僧侶

宗門が音を立てて崩されていく気がしてなりません…これ以上悪くするのは勘弁??手柄、囚われ、しがらみ、派閥、、ヤダヤダ

40代・男性・僧侶

「お念仏」も「南無阿弥陀仏」も「阿弥陀如来」も出してこないところに、宗教色を消さな いと若者には受け入れられないかもっていう、若者をバカにしてる姿勢が見え隠れしとるわ。どっかの新宗教みたいで気持ち悪い文章。

40代・男性・僧侶

思想統制。気味が悪い。大切な予算でいらんことすんな。ってところです。

40代・男性・僧侶

私自身、心の病を患ってる者として、これを誓わされるのは正直きついね。この誓いが出来た経緯とどのようなやりとりが御本山であったのかが知りたい。でも皆さんが書かれている通り、あくまでご門主批判や宗門批判ではなく、この文の問題になっている2点だけでいい。発布はされたけど、これの唱和が強制されるようなことにならなければいいんだけどなぁ。。

30代・男性・僧侶

11月17日の仏青連盟の広報教材委員会の会議の最後に「子ども若者を意識されたご親教が 23日の法要の中で生中継されるので、出来るだけ観てください」と事務局から発表がありました。てっきり私は子ども若者ご縁づくりの取り組みの中から出てきた「ちかい」かと思ってましたが、どうやら皆さんも寝耳に水って感じなのですね。私たちのお寺では報恩講の 真っ最中だったのでご門徒の皆さんと生中継で見たのですが、ご門徒の皆さんの反応はポカンと呆気にとられてるという感じでした。さて、これは「子ども若者ご縁づくり」で使うことを想定されたものだと思うのですがいかがでしょう?スクールナーランダや何やかやとご 門主の肝いりで莫大な予算をかけてやっているわけですから、そこがまず第一の現場に想定されているんじゃないですかねぇ。このスレッドには委員の皆さんが沢山いらっしゃるようですし「子ども若者ご縁づくり」としてどう対処されるのか議論して欲しいです。きっと仏青連盟にも使うように言われるはずなので。今日仏青連盟の常任委員会なんですよねえ。さ てどうしましょう?

50代・男性・僧侶

正直何とも思いません(^^)というのも私にとって覚如さん以降は違和感だらけ。そこ議論しても無駄なのでしないことにしてます。今回のは今の流れからしたら出るべくして出たなあ としか思ってません。私は素直に生中継をご門徒さんと一緒に観たし、その後プリントアウトして皆さんと読んだので、今のところそれ以上のことをしようとは思っていません。ただしなぜこんなことをご門主が仰っているのかという話し合いなら、ご門徒さんとしてもいいかな。本当の意味で現場に向き合っていない僧侶の方々とこのことを議論するのは勘弁して欲しいです。まったく話が通じないので。

50代・男性・僧侶

11月22日(木)より『秋の法要「全国門徒総追悼法要」』を皆様とご一緒におつとめさせていただきました。本日、23日に行われたご門主様の法話(ご親教)では、『念仏者の生き方』の肝要を四ヵ条にされた『私たちのちかい』が示されました。「この『私たちのちかい』は、特に若い人たちの宗教離れが盛んに言われております今日、中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や浄土真宗の御教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会に唱和していただきたい」とお話をされました。

40代・男性・僧侶

私の周囲の本願寺派のお坊さんのあいだで絶賛話題沸騰中なのがこれ。このご門主の「ご親教」。みんなで唱和しましょうと勧められているようです。私の周囲だけかも知れませんけど、反発する僧侶が多く、激しく拒絶反応を示す人も少なくないです。元々浄土真宗は善人になりなさいと勧める宗教ではないからでしょう。それにしても、どうして多くの反発が予想されるこんな内容を出すことにしたのか。気になるのは、昨今の浄土真宗に置いて「私が 救われるとはどういうことか」があまり問われなくなって、「救われている私が何をするべきか」みたいな話ばかりがよく聞かれるように思うことです。大事なことがいつのまにか解決済みになって、その先のことばかりが論じられてるような、不思議な感覚。私は本願寺派ではありませんから、この「ご親教」に何ら抗議をする立場ではありませんが、かつて明恵が法然上人に「お念仏だけで菩提心を否定してしまったら仏教ではないではないか」と非難した歴史がなんとなく頭によぎるのであります。宗教的真実ってのはいつの時代でも時代の常識に合わないものです。宗教的真実を時代に合わせてしまったそれはもう宗教ではないわ けです。善人になれという教えは世の中に満ち溢れていますし容易に支持も得ることでしょう。でも本当にそれでいいんでしょうかね。

40代・男性・僧侶

「私たちのちかい」個人的に、今の所あの内容をすんなり受け止めることはできません、これが前提。ただ、あの内容を批判するなら、今まで言ってたものにも疑問符を投げるべきだと思うんですよね。子ども会の「3つのやくそく・ちかい」や「生活信条」にも似たような 内容はすでにあるわけで。特に「強く明るく生きぬきます」とかは「強くなくても、明るくなれなくても、(阿弥陀さんの救いと共に)生きてまいります」じゃないの?と常々思ってましたし。(個人的には生活信条の4つ目にも疑問符がある) 既にあったものに対しては特に何の疑問も抱かず、新しく出てきたものには理解を示さな い、みたいな姿勢ってどうなんですかね。自分はもう少し冷静に(?)考えてみたいなと思います。実際、きちんと疑問の声を上げた結果、婦人会の綱領は変更になりましたし。こういうのは絶対不変のものではないと思うので、今後も同様のことは起こって当然だと思います。意味もなくこんなものが出てきたとは思わないですし、侃々諤々の議論が起こると思っ てますので、それは良いことだと思います。「念仏者の生き方」ももっと議論になっていいと思う。上からだろうと下からだろうと、その場をシャットアウトするような態度を取るのが一番マズいと思うので。 *ウチの教団だけかもしれませんが、「◯◯しましょう」と提唱すると高い確率で「◯◯しないと救われないと言うのか」みたいな「論理のすり替え」が起こりやすい。これは問題だと思ってます。無自覚にやってる人すらいる。「『救いを頂いた身として』こういうことにも関心を持ったり取り組んだりしましょう」という、いわば信後のお話みたいなことをしてるのに、信前の話にすり替えられるわけです。かつて「信前・信後の水際もわからんのか」 と新興教団に馬鹿にもされたものですが、さもありなん。曖昧なんですよね。今回の「ちかい」も、対象は「阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが」になってます。つまり、仏縁・ 救いに出遇っていない人を対象に「こういう生き方をしないと救われません」とは一言も言っていない。そこんところを履き違えた議論をしてはならないと思います。

40代・男性・僧侶

仏さまのようにできないから困ってるのですが、でも興味無いお坊さんの中では話題にも上がりませんし、何がおかしいのかも気づかない輩も多いのです。そこも大きな問題。

50代・男性・僧侶

なんだか自力のはからいのように感じてしまうのですが

50代・男性・僧侶

「生かされていることに気づき 日々に精一杯つとめます 人びとの救い尽くす仏さまのように」が、引っ掛かります。何か、嫌な感じです。例えば、「国家に生かされていることに気 づき日々、皇国の繁栄の為に精一杯つとめます 国の為に尊い命を捧げた英霊のように 」等と置き換えて読むと、結構、怖いです。

40代・男性・僧侶

やっぱり、僧侶の人間性みたいなのが危険水域に達していると思うんですよ。だからこそだとは思うんです。たぶん。

40代・男性・僧侶

道徳の教科化。

50代・男性・僧侶

「念仏者の生き方」もそうですが、要約すると「坊さん、ちゃんとせーよ」という御門主の想いなんだと理解しています..。いわゆる現代版の「定めおかせらるる御掟」的なものかな...と。

40代・男性・僧侶

自分はこの御親教には「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが」とありますので、対象がまさに「救われた私」で、その方に何をすべきかという点を示したものかなと受け止めてます。(その上でこの内容や、唱和させることに対して、まだ納得できない ところがありますが)長い御親教の時なんかは前半の方で「救われるとはどういうことか」 みたいなことにもきちんと触れられていると(自分は)思いますし。ただ、こういう話が多くなってきたという点については自分も同感です。本派はこれまであまりにも何も言わなさすぎたことへの反動なのかな?と思う感じもしてますが(個人的な感想です)。

40代・男性・僧侶

振り子の振り幅が大きくなったようなイメージがありますよね。今まであまりにも「私の生き方は救いに関係ないのだ」という、無帰命安心的な受け止めが強くなっていた分、反動と しての強めのメッセージなのかな、と。(*^_^*) 

50代・男性・僧侶

これは凄いなー!西も東も闇をかかえてるなー( ノД`)…。お念仏申すしかありませんね。

40代・男性・僧侶

これは、西本願寺教団の公式見解ということですよね。確か、門主の御親教や御消息は、聖教に準ずるという扱いだったように聞いておりますから…また三業惑乱のような安心争論が起こりそうな・・・(~_~;)

50代・男性・僧侶

おかしいね。狂っているとしか思えないご新教ですね。新しい宗教でも本願寺教団がはじめたとしか思えない。

60代・男性・僧侶

本派の僧侶です。私も違和感の方です。罪悪尋常の自分であったと 地獄一条住処ぞかしの自分であったと 気付かせて頂き 謙虚に感謝して過ごすのが真宗の教えと思っています。

60代・女性・僧侶

ちかい のようになれない自分に気づけ ということだと思います。

70代・男性・僧侶

今の本願寺派(門主)は「念仏すべし」が完全に抜け落ちてしまっているんです。だからただの道徳なんですよね、宗教でなくて(もちろん道徳は大切ですが)。念仏抜け落ちた人が 「念仏者の生き方」とか示しちゃうから余計に滑稽なのでありましょう。

30代・男性・僧侶

余計なお世話ですね。似てるね。教育勅語と。

60代・男性・僧侶

在家の者としては…如何に生きるべきかをこそ説いてもらいたいと思うので,八正道,七菩提など,正しい生き方も言葉知識としてあって然りだと思います。

40代・男性・在家

浄土真宗の生活信条は「み仏の誓いを信じ、、」「み仏の光をあおぎ、、」等と、言葉のは じめは「み仏」です。ここを忘れたら浄土真宗ではなくなります。

60代・男性・僧侶

これから和上方が解説して下さるでしょうが、以下のような内容と関連するのではないかと推察いたします。自他を分けへだてする「私 」という小さな殻を破って、 万人と一如に感応しあい 、自在に人びとを利益することであるとすれば、それはただ、如来にのみ可能なわざである。しかし凡夫であっても、万人を平等に救うと仰せられる阿弥陀如来の大悲招喚に応答して、大悲の本願に身をゆだね、その広大なはたらきに参加することは許されている。いいかえれば、如来の大悲に呼び覚まされて、苦しみ悩む人々と連帯しつつ、自他ともに大悲に包まれていることを讃仰するような身にならしめられることを「常に大悲を行ずる益」といわれたのである。梯実円『教行信証の宗教構造̶真宗教義学体系』

40代・男性・僧侶

南無阿弥陀仏の救いはわたしたちの生き方を問いませんから、まったく問題ありません。生き方を問うたり限定しようとしたりするのは人間です。南無阿弥陀仏の救いは人間による救いではありませんから、まったく問題ありません。ただ、教団の中では「こういうふうに生きたらどうだろう?」「いやー、それは違うんじゃないか?」「いやいやそれで良いんだよ」みたいに議論というか意見交換というかはしていって良いのだと思います。でも、滅多矢鱈な上意下達で押しつけっぽく「わたしたちの!」が出てくると途端に「あーハイハイ」 で流すべき?みたいな変な臭いがしてきます。(どうしたら良いのかな……。かな。)また、南無阿弥陀仏の救いはわたしの生き方を問いませんが、南無阿弥陀仏に救われるわたしはわたしの生き方を真伨に問うべきではあります。逆説的ですが、そのように言うべきだと思います。で、そのときの最大公約数みたいなのを探ろうとしたり提案したりするのはとっ ても良いことだと思うけれど、いきなり「こうだぜ!これ以外ないぜ!」みたいに言ってくるのはやっぱり何か心が奥底からザワザワします。以上、何かについての意見のようなものでした。

40代・男性・僧侶

一人称の世界です。二人称、三人称にはなりません。

70代・男性・在家

生活信条が何だか自力的に思えて、今ひとつ馴染めません…

50代・男性・在家

読ましていただきましたが、主語が「私たちは」でなくて、「ほとけさまは・・・望んでおられます」とかだったらまだ許容範囲だったのになと思いました。いつも、親の望む姿に背を向けている私たちですから。他派のこととはいえ、本願寺派という最大派閥の動向は浄土 真宗全体に影響がありますから、やはり部外者でも気にはかかりますね。

50代・男性・僧侶

生き方を問わない救いにあっても、罪福心から離れられない、生き方を問わずにおれない迷いの私は変わらないということでしょう。私はあれをそう頂きました。

40代・男性・僧侶

恥ずかしいのは、気付いた時から恥ずかしい。同じことやってても、気付かなければ恥ずかしくない。気付いても何も変わらない。でも、気付いたら何かが変わる。そのキッカケになればね。でも、“上意”を十全に表して、確実に、ブレなく”下逹”することのなんと難しいことよ。受け取る側の方にも広い幅があるし。

50代・男性・僧侶

やはり読んだ後にジワジワ襲いかかってくるような違和感、皆さんもそうですか。なかー ま。生活信条よりもとっつきにくい、どんなに尽くしてもほとけさまのようにできないとなったら何をすればいいのか。モヤモヤが尽きません。

40代・男性・僧侶

み教えを本当に聞かせていただいたならば自ずと変わってくるものもあるので、救いが生き方を問わないというのはちょっと違うんじゃないかな!

40代・男性・僧侶

基本、食前の言葉と食後の言葉だけで良いと思います。あれこれ手を広げても浸透はしませんね。

30代・男性・僧侶

ずっと思ってることなんですが全然言葉にまとまらなくて支離滅裂でごめんなさい。私の中に良く(自分なりの「良い」ですが)生きたいとか、人のためになることがしたいという気 持ちがあります。それも、自分が利を得るための計らいでしかないとおっしゃる方もいますが、でも、どうしてもそれだけでは無いような気もします。じゃあ悪いことをするとバチが 当たるから?地獄に落ちるから?でも、どのように生きても救われるんですよね。バチや地獄を気にして「良く」あろうと思うのなら、じゃあもうや?めたとなりそうな気もしますが、でも私はそうしないです。(けして自分は善人ですと言ってるのでないのは分かっていただけるとは思うのですが)人はなんで良く有りたいと思うのでしょうか?人のためになることがしたいと思うのでしょうか?なにから発生する気持ちなのかよく分からないのです。 持って生まれたものなのでしょうか?

30代・女性・寺族

ご門主は何か錯覚されておられますね。

60代・男性・僧侶

一般的なアンケートで、仏教は信頼できる大切な教え(私にとって、ではない)だが、僧侶は、あまり信頼できない、という結果がでる(らしい)本願寺派の偉い人たちは、これをすごく気にしている。さらに、これから僧侶になろうという人たちの研修をすると、ほんまにこれで、10年20年後大丈夫だろうか、と心配になるそうだ。今までは、頼りない後継者を、 ご門徒が育ててくださったけれど、その「育てる門徒」がいない、と言い切る。で、得度の試験や研修(習礼)を改革しようとしていて、また「私たちのちかい」なるものを唱和しましょう、と言っている、、、らしい。

60代・女性・僧侶

今日のお取り越しで行ったお宅でその集落のお寺の報恩講で配られた「私たちのちかい」のコピーを見ました。このような道徳に堕していることこそ問題に思います。

60代・男性・僧侶

「念仏者の生き方」から「私たちのちかい」へバージョンアップ。それを声高にみんなで唱和するって?浄土真宗はどこへ行ってしまうの?そこまで新宗教の後追いをしなきゃならないの?どこへいったのお念仏?煩悩捨てて善人になって、ほとけさまのようになるの?

60代・男性・僧侶

誰が言ったかしらんが、それはどうでも良いことで、いい言葉なので気に入りました。

50代・男性・僧侶

生活信条には「み仏の誓いを信じ、尊いみ名をとなえつつ・・・」とあり、教章には「念仏を申す人生を歩み・・・」や「念仏を称えつつ・・・」のように、真宗的な教えに基づいた方向性が指し示されていますが、このたびのちかいにはそのようなものが何もありません。

60代・男性・僧侶

何ですかこれ? と私も思います。素人ながら。しかも唱和するって! 理解に苦しみます。

60代・男性・在家

僧侶っちゃ「サンガ」の音写で、法を学ぶ集団の事を指すんでしょうが、坊さんの他の人々からの信頼度っちゅうんは、その方の信仰の度合いによって変わってくるんじゃないですかねぇ??教団の育て方っちゅうのも分からんじゃないですが、法を聞こうとする、求めようとする坊さんの姿勢っちゅうか、本気度っちゅうか、エエ言葉が浮かびませんがそういう真剣さに依るんじゃないかと思うです。こりゃぁ、周囲の教える側がどがぁに真剣になったところで、学ぶ側がその気にならにゃ何もその者に入りゃしませんよ!そういう本気度いうんが欠けとるんでしょうかねぇ??その本気度に重点を置くと、「凡夫如きが本気になれるかや!」とツッコミを入れられるんが本派さんじゃろうけどが、なるもならんもその者の縁によるんですけに、そういう機縁になかなか至れん者が大半じゃいう事でしょうか?この度、 「私たちの・・・・・」のコメントをアチコチ目にして、「当流もホンマにピンぼけしてきとるんと違うか?」って直感した次第です。かく言う自分は・・・?と問うた時、大分怪しいもんじゃありますが、甚だ違和感は感じてます。

50代・男性・僧侶

『われも六字のうちにこそ住め』折に触れて拝読しております。浄土真宗は、私たちのちかいでなく、「凡夫を仏にする」阿弥陀仏のちかいを聞かせていただく、はずなのですが‥‥

50代・男性・在家

え?生活信条とか教章とか領解文とかの新バージョンですよね。本願寺派のある意味伝統。

50代・男性・僧侶

煩悩は捨てて捨てられるものではありませんが、流れていくべき方向は示したい。

60代・男性・僧侶

対象者とアプローチのミスマッチが気になります。僧侶に向けてなら、まだしも若者向けで、しかも「昭和」、じゃなかった「唱和」。むしろ昭和の若者に唱和してもらったほうがいいくらい

11/23のご門主のご法話を聞きましたが、この「ちかい」の一番の問題点は、「わたした ち」という主語が信を得た僧侶・寺族・門信徒のことである(ように聞こえる)にも関わらず、それをこれまでご縁のなかった若者に唱和してもらおう、という矛盾ではないかと思います。ちかいに書かれていることは、浄土真宗の中でも上級編といいますか、阿弥陀様からのはたらきに気が付いたからこそ芽生えるものであって、その手前の「このようなことができない凡夫でもわけへだてなくはたらきかけてくださる」ありがたさを感じ取る部分が抜け落ちていては、単なる道徳の押し付けでしかなく、浄土真宗の教えが誤解されて伝わることになりかねません。

40代・女性・在家

これを読んだご門徒さんに「自力で阿弥陀さまの真似事をしろってこと?」と言われました。違和感を感じているのは僧侶だけではないということも知っていただけたらと思います。個人的にそうありたいと思う分にはいいのです。しかし、唱和によって勝手に誓わされる内容ではないですよね。

30代・女性・僧侶

「仏さまのようにありたい」という願いから、私が自ずと唱えるものであれば主語は「私」であるはずです。「私たち」というのが、真宗教団の全体を指すのであれば、誰が唱和しても、他の人に向けた「あなたも仏さまのようになりなさい」というメッセージをはらんでしまいますね

これやっぱり前半の文と後半の文が繋がってないと思うなぁ。色々なところでも言われてるけど、信前信後がゴチャゴチャですね。

40代・男性・僧侶

浄土真宗の生活信条的に唱和することを想定しているにもかかわらず、語感が悪すぎる点です。何であんな倒置法のような表現で回りくどくしてあるんでしょうね?「〇〇な仏さまのように」の部分を無しにするか、冒頭に持って来るかするだけで、唱和する際の違和感はずいぶん和らぐなと思いました。語感が良くなるだけで印象は若干変わるんですけど、今のまま使うことを強要されたら、本当に嫌です…

念仏者の生き方 私たちのちかい 本願寺派の道徳

60代・男性・僧侶

こんなものだろうなとは思います。あまりこれを唱和したくはないですけれど。せめてメロディつけて歌にしてくれたら馴染みやすいかなと感じました

20代・僧侶

「自分の殻に閉じこもることなく」という言葉によって、引きこもりを除外しているように感じて胸が痛いです。若者世代は大小あれど引きこもりがちな世代ですよ…。閉じこもりたくて閉じこもっているわけじゃありません。精神病を患っている人は仲間に入れてもらえないんですか?むかしの人たちは理想を掲げてそれに向かって生きていけたのかもしれませんが…、なにか、上司に叱られている気分になりました。

40代・男性・僧侶

ちかいの内容そのものではありません。 念仏者として、個々人が、これらの事柄を一つの 指針とすることに関して間違っている、とまで思っているわけではないです。 ただ、やっ ぱりタイトルのつけ方であったり、 唱和という、個々人の今を考えることなく、一つの枠に押し込めよう、 理想の姿を目指しましょうという方向づけを押し付ける方法には、疑問 を感じずにはおれない、ということです。 念仏者であるならば、あくまで自分の在り方として受け取るべきであって、 他者に対しては、その人それぞれの縁というものを配慮していくことも、大切だと思います。

30代・男性・僧侶

最新の御門主さまのご親教で、「私たちのちかい」というおことばが述べられたようです。 生活信条とか綱領とかの宗派が定めている唱えものの類って、全部ならべたらいくつくらい あるんでしょうか?浄土真宗の教章(私の歩む道)、生活信条、浄土真宗の救いのよろこび、三つのやくそく、ちかい、仏教婦人会綱領、仏教壮年会連盟綱領、食事のことば・・・ 仏教青年連盟にはないのかな?宗門関係学校にはなにかそういうものがあるのかな?得度誓約ー僧侶の心得ーも先年改訂されている。新しい分は申し訳ないが覚えきれていない。ほかにご存知の諸賢、よろしくお知らせください。ちょっと全部まとめておきたいです。

30代・男性・僧侶

若者向けに何かアクションを起こしたい気持ちは理解できるが、この内容だと勧めにくい。

40代・僧侶

優しさのかけらも感じない。私たちって誰だよ?(笑)ちかいって平仮名で書いてるけど重たすぎやろ。多様性からかけ離れたね。前段で念仏者の生き方を知っている方という前提条件をつけている風なのに、後段では仏教や浄土真宗にあまり親しみを持っていない方と言ってるし…対象がぶれてるやん。仏教や浄土真宗にあまり親しみを持ってない人がこれを読んだらゲッてなる。以上書きなぐりですけど僕の感じたことです。

30代・僧侶

唱和には疑問を感じます。もう少し違うアプローチができなかったのかな、、、と。

30代・僧侶

誓いの言葉にお念仏が出てこないのは違和感

20代・僧侶

私のちかいならお好きにどうぞということですが、私たちのちかいを唱和するなどというのは狂気の沙汰で真宗ではありえないです。本願寺版教育勅語を普及させたいのでしょうか? 本願寺派が堕ちるところまで落ちた悲しみを私も抱かざるをえません。

60代・男性・僧侶

宗教離れに対してのものならば、また若者に向けたものならば、勘違いも甚だしき代物と感じています。何を見ておられるのか?どこに向いておられるのか?全く分からなくなりましたよ。

60代・男性・僧侶

「私たちのちかい」をすることは大切なことだけれど、誓ってもまもれないことや破ること はないのだろうか?もちろんその通りに生きようと努力することは大切なことだけど、誓って破る方が罪は思いのじゃないの?

60代・男性・僧侶

読めば読むほど、え?とか、あれ?とか、突っ込みたくなることばです。ほんとに、これを、流布していいのかな?というのが、正直なところです。

50代・女性・在家

このような理想を掲げることも必要かとは思いますが、そう生きれない私のすくいにはなりませんよね。浄土真宗法義の崩壊を危惧します。

60代・男性・僧侶

こういうのはどんどんやっていったらいいんじゃない?理想がなくなったら終わりやろ

40代・男性・僧侶

一行目から、わたしにはむずかしいなぁ。

「〇〇の仏さまのように」に違和感があります。

10代・男性・寺族

一見、とても美しい文章だし、エッセンスだし、ああ仏教っていいなぁ心洗われるようだわ。と思う。思うんだけど、浄土真宗なのかな、これは。あくまでも私の立場で言う。東日 本大震災で被災した人がいるとする。その人は、家族をなくしふるさとを奪われ、生きがいも生きる意味も失い、苦しみの中で生きている。真宗のボランティアの人や地域の人が心配して関わってやっと、自宅のドアを開けてくれるようになったとする。そこに、この文言が大々的に乗った美しい本願寺新報が届けられたとする。 私なら、絶望する。最初の一言で、絶望する。「自分の殻に閉じこもることなく」なぜ閉じこもることになったのか思いやってくれない人に、心を開けるわけがない。むさぼりいかり おろかさに流される私を救うと言ってくださるのが阿弥陀如来ではなかったか。仏様のようには到底なれないと悟ったのが親鸞聖人ではなかったか。そんな私も、必ず救うと言ってくださる存在があるから、生かされていると手が合わさる。それが私だけではなく、縁あって隣にいるあの人もこの人同じく等しく救われていたと知るからこそ、手を取り合って生きていくのではなかったか。たったひとりの私を救う、その「たったひとり」がすべてのひとなのだと気づくから、喜びや悲しみを分かち合えるのではないのか。そうやって、仏の智慧と 慈悲に照らされて、同朋の相互作用が働くことを生かされていると言うのではないのか。努 力目標を掲げることが、宗教の役目なんだろうか。次々と新しいものを発布するのが宗派のミッションなんだろうか。変わらないもの、普遍的な真理を追及する使命はどこにいったのか。「努力できないあなたをもを救う」が抜けた浄土真宗なんて浄土真宗じゃないんじゃないのか。 私は今、悲しいのです。書きなぐりました。このご親教については、様々な意見が散見され、それぞれの論点で対話がなされていると思います。私、コメントを頂いてもちゃんと返 事できないかもしれません。できるだけがんばるけど。でも、一度書いておきたかった。読んで下さってありがとうございます。

30代・女性・僧侶

私も1行目で止まってしまいました。殻に閉じこもらないと守れないいのちだって、時としてある。まだまだしっかり読めていないけど…綺麗な言葉で語る怖さを痛感します…

30代・女性・僧侶

そもそも、ご門主のちかいをみんなで読む必要があるのか?これ、ご門主のちかいなんでしょ?殻に閉じ籠ることは自分を守る意味で大切な時だってある。

60代・女性・僧侶

できんことばっかり書いてあるね

50代・男性・僧侶

これあんまり言うと自力的ね

40代・女性・寺族

先の念仏者の生き方についても、同じように思っていますが、まずは「得度している私ども」は真伨に受け止めなければならないお言葉だと、思います。そして、この私たちのちかいの内容も、決して間違ったことは言ってません。そうなれれば、また違った世界が広がるのかもしれないなぁ、と思わせて頂けるお言葉かと。ただ、実践できるかは別です。でも、 これが理想で、こうあるべきだ、と私たちの生き様として定義づけられると、少し困っちゃいますね。息苦しくなってしまいます。そして、私がいちばん目をつむりたい点は、「特に若い人の宗教離れが盛んに云々」というところです。果たしてそうなのか。本当?と疑問に思います。とにかく最近は、何にでも【若者の〇〇離れ】と。若者が本当に宗教を離れているのか、とも疑問ですし、若者が宗教を離れてるとして、その原因は何なのかって話ですし、地元を離れて都会へ働きに出られた、今では中高年の方の宗教離れもあると思いますし、じゃあなんだ、いつの時代までは所謂若者が寺に参ってたんだ?とも思います。とりあえず若者の宗教離れと言っておこう、みたいな。宗派全体としてもそう感じますが、その問題認識自体に目をつむりたいです

西本願寺の門主から新たに発布されたご親教。うーん(*_*) う~ん(*_*;ムムムッ(-_-) さいですか・・・・

20代・男性・僧侶

11月23日に発布されたご親教「私たちのちかい」について。 キレイな言葉で理想が語られたものでしたが、一見したところからモヤっと違和感が立ち上がってきました。最初はタイトル。我々は何も知らされていないのに「私たち」という主語 を使うという部分に、ちょっと待ってという気持ちに。100%貫徹できるかわからない文言 に対して、「ちかい」という言葉を気軽に使っているところにも、それは嘘を助長させるこ とになるのでは?という思いがしました。続いて唱和を念頭に置くという使われ方も、高々 と掲げられる理想と、できていない自分とのギャップから、人によっては苦痛を伴うので は?ということが思われました。自分自身でも、自分が全くできていないことを口にしてみ たり、人にも勧めるということはしんどいなあ、と感じられました。まあ、半分は私の勝手 な言いがかりのようなもののような気もしますが、こんなモヤモヤから、先輩や友人のお坊 さんたちとこの「私たちのちかい」についていろいろとやりとりをすることになりました。 FacebookでいただいたコメントやMessengerでいろんな方の思いをお話いただく中に、 今回感じた違和感の正体のようなものが少し見えてきたので、ちょっとまとめておきます。 その違和感は、おそらく自分の中では「念仏者の生き方」が出された頃からあったものだと 思います。けれど、「念仏者の生き方」もまた、決して悪いものではなくて、どうしてこれ に違和感があるのか、その時はうまく消化することも言葉にすることもできませんでした。 しかし今回の一件を通して、その違和感の正体は、一つは「前提の変化」、もう一つは「単 純化」なのではないかということが見えてきました。

違和感 その1「前提の変化」
前提の変化、というのは、浄土真宗では、信心をいただくということが、私のすくいには重 要なことです。ですから、これまで浄土真宗では信心をいただくことを、とても大切にして きました。そこで前提となっているのは、「私はまだ信心をいただけているかわからない身 である」ということではなかったでしょうか。信心をいただいているかわからないから、聞 いていく。私は信心をいただけたのだろうか、いやわからない。私は念仏者と言えるのか。 いやまだまだわからない。この繰り返しの中で聴聞し、私が救われるとはどういうことなの か、何度も何度も教えに照らしながら問われることが、大切なことだと私は思っていまし た。しかし「念仏者の生き方」や「私たちのちかい」から感じられたことはそうではありま せんでした。これは瓜生崇さんの投稿で気づいたことですが、これらに見られたのは、前提 が「念仏者」である、ということ。念仏者とは、念仏いただく人、念仏を自分の人生の軸と して大切にする人ということでしょうか。それは同時に、信心をいただいた姿であると、私 は考えています。これまで信心や私がすくわれることを問い続けてきたはずなのに、いつの まにか、問われるのはそれらではなくて、生き方になっている。それは、前提がすでにみん な念仏者、信心いただいた人に、すり替わっている、ということです。みんな念仏者なのだ から、問われるべきは信心ではなく、生き方を丁寧にしていくことである、そういう話にな っている。これはある意味ではものすごいパラダイムシフトです。これまで浄土真宗では、 生き方を善いものにということを掲げると、それは自力ではないのか?ということが必ず問 われてきました。自分のすくいのために善く生きようとする。確かにそれは自力的であると いう批判があってもおかしくない考え方かもしれません。そのため、善く生きようとするこ とはそれほど大切にされることなく、凡夫であることに甘んじている、開き直っているとい う反論もありました。しかし、前提が念仏者となると、すでに信心をいただいているのだか ら、もう自力だとかいう次元の話ではなくなっています。すくいはすでに決まっている。そ の上で、阿弥陀さまに照らされたこの私の生き方を、少しでも善いものにというのが、「念仏者の生き方」に示されていることなのではないでしょうか。「私たちのちかい」のご親教 では「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たちが、この現実社会でどのよう に生きていくのかということについて、詳しく述べさせていただきました。」と述べられて いますから、やはりすでに私たちは念仏者として扱われている、というように感じられま す。タイトルにある「私たち」というのは、念仏者ということなのでしょう。(ただ、この 11 「ちかい」の対象として想定されているのが若者、というところにいささか矛盾を感じます が)私の立ち位置の前提がいつの間にか変えられていて、信心をいただくことを問題とする よりも、いかに生きるかが問われている。私が違和感がある、と思った理由の一つは、ここ にあるような気がします。

違和感 その2「単純化」
思ったよりも長くなってしまいましたが、もう一つの違和感の理由は、単純化です。これは やり取りする中からある方にご指摘いただいたことですが、「念仏者の生き方」の中に次の ような言葉がでてきます。「私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分 本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を 慎んで少しずつでも煩悩を克服する生き方へと作りかえられていくのです」「仏法を依りど ころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自ら の苦しみとするなど少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていた だく人間になるのです」これは実際そのとおり、なのですが、「作りかえられていくので す」「人間になるのです」という断定的な表現が使われている部分に、その方は違和感を覚 えたそうです。そう言われると確かにこの部分の断定的な表現は、少しひっかかります。言 葉として表現するにはこうなのかもしれませんが、実際には、そんな単純な話ではありませ ん。阿弥陀仏のご本願を聞いて、自分が無明の存在であると気づいても、そんなに簡単に、 じゃあ言動を慎み煩悩を克服しようとか、他者の喜びは自分の喜び、その苦しみは私の苦し みとしていこと努力しようというように、変えられて、あるいは変わってはいきません。私 がここで言いたいのは、私は決して変わらない、ということではありません。阿弥陀仏のご 本願に出会って、私も変わっていくことは変わっていくでしょう。しかし、教えに出会った からと言って、単純に、劇的に変わるわけではないのです。阿弥陀さまに出会うことと、よ り善い生き方をするように変えられる(変えていこう/いきたい)となることは、シンプル にイコールでつながるようなものではないのです。教えとの出会いと、変化の間には、いろ んな煩悶があります。教えに出会い、自らの無明に気づいても、私はどうしようもない変わ りようのなさを抱えています。教えに出会っても、腹が立つ時は腹が立ちますし、他人が妬 ましく思えることもあります。人によく思われたいという気持ちがあったり、物事を自分の 思い通りにしたいという思いが常にあります。正しさに気づくことと、愚かな在り方をして しまうという、その間で、私は振り子のように何度となく揺れ動きます。愚かな行いとそれ に気づき悔やみ、愚かさを改めようと思いながら、また愚かな行いをしてしまう。残念なこ とにそれが、私の姿です。しかし、その揺れ動くということが、私は大切なことであると感 じています。しかし「念仏の生き方」にある断定的な表現は、その揺れ動きの部分をカット し、教えに出会った人は変えられる、変わっていくと単純化をしています。もちろんそれ は、私の揺れ動きを否定するという意図ではないでしょう。実際私自身も、揺れ動きの部分 があるということは、教えに出会っても変わっていないのではないか?そんな教えになんの 意味があるのか?など、浄土真宗の教えのわかりにくさにつながる部分であるとも、感じる ことがあります。教えに出会うことで私は変えられていく、という方が、シンプルでわかり やすく有意義です。実際には、教えに出会って、揺れ動いて、振り子の振れ幅がだんだんと 小さくなるようにと変わっていくのかもしれませんから、教えに出会うことは変えられてい くことだ、と言えないわけでもありません。しかし、揺れ動きが全くなしに変えられていく わけではないはずです。その部分を省いて単純化できるほど、私という存在は単純ではない のです。それをあえて省略していく、単純化していくということは、わかりやすさを優先し たのかもしれません。私の揺れ動きなどという感情的な部分を優先するような表現よりも、 わかりやすい方がいいような気もします。しかし、それは揺れ動く私に、早くその揺れ動き を止めろと言われているようにも感じられます。ただ、これはあくまで私の感じたことに過 ぎず、本当のところの意図はわかりません。私だって、こうしてまとめているのは、ずいぶ んと単純化をして考えている部分もありますし、単純化すること自体が悪いというわけでも 12 ありません。それでも、最初に書いた前提の変化というところでもそうでしたが、単純では なく、一足飛びにはたどり着かないであろうところに、えいやっ!と無理矢理に持っていっ てしまうというのは、やはり丁寧さを欠いているように感じられてしまいます。 「念仏者の生き方」や「私たちのちかい」といった、新しいご親教が出されたのには、ご門 主や宗門としてのそれ相応の想いであったり、意図であったり、危機感だったりがあるのか もしれません。それらはみんながみんな納得できるわけではないでしょうし、宗門にとって は私一人を納得させる必要というのも全くないわけです。しかし、その想いの部分が、もう 少し広く共有されると良かったのになあということを、思わずにはおれません。阿弥陀さま の真似をさせていただくのであれば、理想を掲げるよりも、苦しみを抱えた一人ひとりのこ とを思ってくれるような在り方を目指してほしかったというのが正直な気持ちです。

30代・男性・僧侶

一、 仏の子は、すなおにみ教えをききます。
一、 仏の子は、かならず約束をまもります。
一、 仏の子は、いつも本当のことをいいます。
一、 仏の子は、にこにこ仕事をいたします。
一、 仏の子は、やさしい心を忘れません。
この言葉は、お寺の子供会「日曜学校」で推奨されている「ちかいのことば」で、善巧寺で は年に数回の子供会で唱和していた。高学年になるとこれを読むのがとても嫌だった記憶が ある。いつからか、「ひとつ、仏の子は、いつも本当のことを言いません!」と言い換えて 友だちと顔を合わせて笑っていた。みんなで真面目に唱和することへの反抗心か、そう出来 ない自分を突き付けられることへの反発だったのか。先日、本願寺より新しい言葉「私たち のちかい」が発表された。冒頭に添えられた言葉には、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお 心をいただいた私たちが…」とあるので、阿弥陀如来のお心をいただいている人限定のお言 葉と受け取れるが、文末には、「中学生や高校生、大学生をはじめとして、これまで仏教や 浄土真宗のみ教えにあまり親しみのなかった方々にも、さまざまな機会で唱和していただき たい」とあるので、ピンポイントに絞って作成した言葉を、多くの人に触れてもらいたいと いう願いがあるようだ。これをもって、浄土真宗とはこういう指針を持った教えですよとい うことを伝えたいのかもしれない。中学生から大学生までに触れて欲しいというだけに、子供バージョンよりもかなり難易度が あがっている印象だ。冒頭の「自分の殻に閉じこもることなく」という言葉で、自分の殻に 閉じこもる私を突き付けられ、続けて、すぐに眉間にしわが入り、人をののしる私の姿があ らわになる。一つ目の誓いからかなりハードルが高く、子供バージョンよりも、より具体的 にそう出来ない自分を意図的に知らせている印象を受けた。子供の頃を思い出し、さっそ く、言い換えの遊びをやってみた。

「本当のわたし」
一、 自分の殻に閉じこもり、眉間にしわを寄せて、人をののしり、そんなどうにもならな い私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 むさぼり、いかり、おろかさに流され、しなやかな心と振る舞いを持てない私を、仏 さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 自分だけを大事にしてしまい、人と喜びや悲しみを分かち合えない私を、慈悲に満ち た仏さまはそのまま受け止めてくれます。
一、 生かされているとは思えず、日々に苦しむ私を、仏さまはそのまま受け止めてくれます。

不思議なことに、反対に読んでみると阿弥陀如来の大きな慈悲の心が浮き彫りになり、浄土 真宗の特長のひとつを端的にあらわしているように感じた。なるほど、これはもしかする と、こう読むべきものとして作成されたのかもしれないと思うほど。ただ、原文は、子供バ ーションとは比較出来ないほどに自分を突き付けられて「ダメな自分」という見方を与えて しまう可能性がある。元気な人向けの言葉で、苦しむ私を置き去りにされた気分になる。し かも、「大智大悲からなる阿弥陀如来のお心をいただいた私たち」が主語になるので、様々 な人が集まる場で唱和するには無理があると言わざる得ない。奇しくも、本願寺では「若者 の生きづらさ」に焦点をあてた研修会を開いたり、「寄り添う」という言葉を多用して、困 っている人たちへ手を差し伸べていくことを推奨している。今まさに闇の真っただ中にい て、自分の殻に閉じこもらざる得ない人たちへは、この言葉はとても厳しい。やもすると、 上司から部下への強すぎる指導のように受け取ってしまうかもしれない。あるいは、数多く ある「ちかいのことば」と同様に、どの言葉にも引っかからず、風景が流れていくのように 言葉も流れていくのだろうか。学校にも、会社にも、市町村にも、世の中には形骸化された 理想や指針があふれている。おそらく、多数がひとつの方向を向いていた時代には有効なも のだったのかもしれないが、同時に、声をあげられず置き去りになった人たちも少なからず いた。本願寺も同様に、把握出来ないほどの「ちかいのことば」があるが、多様化という言 葉が定着して、苦しんでいる人たちへの眼差しが重要視されつつある現代で、これらの言葉 は「生きた言葉」になり得るのだろうか。時代に合わせる意図があるのならば、今だからこ そ、「道徳」の先にある「どうにもならない私」に向けた救いの言葉を届けてほしいと切に願う。

40代、男性、僧侶

言葉を機の側で紡ぐか、法の側で紡ぐかの違いの様に思いました。どちらの側面も大切で、 どちらが欠けてもあかんなと思います。人間の言葉が球を(真理を)表せたらいいのに。点や 線、良くても平面的な絵にしかならない。お名号の他に真理はないという事でしょうね。

40代、女性、寺族

「私たちのちかい」を正面から受け取れない私・・・

ぼくは全部出来てない…

50代・男性・僧侶

なぜ、私たちのちかい、ちかいのことば、が作られたのか、少し考えてみました。本願寺に は勧学の先生方もいらっしゃるはずですから、必ず意図があるんではと極端ですが、たぶ ん、若い人や幼い子どもに、煩悩そのままあなたを救う仏様がいると最初からいっても、言 葉そのままうけとめて、煩悩、欲のまま生きても仏様は許してくれるとか、煩悩そのまま生 きていいんだという、誤解が生まれるような気がします。自力で仏になれないと悟られた絶 望の後で親鸞聖人が、阿弥陀様に出逢われた喜びを、まず、煩悩そのまま生きる私と真逆の 理想を提示して、そうは生きていけないことに気づかせて、あなたをそのまま救うという、 お喚び声が、よりありがたくなる意図があったのかもしれないとふと思いました。あと、こ れは、御恩報謝はひとそれぞれですが、今の時代、分かりにくいことは具体性が求められる ので、教の位の立場にいらっしゃる、信心頂いている前提の、ご門主さまご自身の御恩報謝 の具体的な形をあらわされたんでしょう。これを掲げて、ご門主ご自身がこう生きていこう とされているんでしょうね。そう読ませてもらうと、尊いお姿だと思います。ご門主さまが。

40代・男性・僧侶

坊さんには坊さんとしての規範が求められるはずだが、「じゃあ、それが宗門法制上でどう 規定されているのか」と思ったので、手近にあるいくつかの宗派の法規集をちょちょいと調 べてみたら以下の通りであった。(中略)さて、なぜこんなことを調べてみたのかという と、最近、浄土真宗本願寺派の大谷光淳門主が「さまざまな機会で唱和していただきたい」 と述べた「私たちのちかい」(「念仏者の生き方」の肝要4カ条)が本願寺派の坊さんたち の間で(予想通り)すこぶる評判が悪いからである。その評判の悪さは「私たちのちかい」 の内容の妥当性に対する強い疑問だが、門主さんが「唱和していただきたい」と言ったこと がもたらすであろうことに対する強い反感もある。他宗派の場合、管長さんが「〇〇してい ただきたい」と言ってもそれは社交辞令のようなもので、実質的な行動はまず伴わない。し かし、本願寺派の場合は(細かいアヤの説明は省くが)今後、ほぼ確実に各種青少年教化活 動の現場で「私たちのちかい」を唱和する現象が起きる。本願寺派の坊さんたちにはそうい う「行動」を求められる事態が容易に予想できるから余計に反発するのである。で、本願寺 派の宗門法制に定める僧侶の規範は以下である。

宗制第5章宗範「本宗門に集う人々は、親鸞聖人の行跡を慕い、常に阿弥陀如来の本願を依 りどころとする念仏の生活にいそしんで仏恩報謝に努め、現世祈祷を必要としない無碍の一 道を歩むのである」
宗法(目的)第2条「この宗門は、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、門主を中心として、宗制を遵守 する個人並びに本山そのた寺院及び団体を包括し、浄土真宗の教義をひろめ、法要儀式を行 い、僧侶、寺族、門徒、信徒その他の者を教化育成し、自他共に心豊かに生きることのでき る社会の実現に貢献することを目的とする」
宗法(僧侶)第20条「僧侶とは、第2条の目的を遵奉し、得度式を受け、第16条に規定 する寺院又は前条に規定する開教区寺院に所属し、宗務所備付けの僧侶台帳に登録された者 をいう。2 僧侶は、仏祖に奉仕して、自行化他に専念し、この宗門及び本山、所属の寺院 又は職務に従事する寺院の護持発展に努めなければならない」
宗法(得度誓約)第22条「僧侶となろうとする者は、得度式に際し、次の各号に掲げる誓 約を行わなければならない。一 終身僧侶の本分を守り、勉学布教を怠らないこと。二 和 合を旨とし、宗門の秩序をみださないこと。三 仏恩報謝の生活を送り、心豊かな社会の実現に貢献すること」

まあ、ポイントはやはり「自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する」だ ろう。

30代・男性・一般

「私たちのちかい」に対する違和感について。
1.「信後の人用の誓い」のような内容なのに、ご縁のなかった若者に向け唱和させようとし ている点。
2.1かつ、内容が真宗独自の救いや特色でない点。
3.1かつ主体性が「私」でなく「私たち」という、宗教的よりも団体的、集団活動的な表現 である点。

30代・男性・僧侶

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