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【ショートショート】切なくて… どこかほっこり

空蝉

 ジィー、ジィー、
 声を競って蝉が鳴く。日差しは強くてもお構いなし。蝉捕りは夏休みの僕の日課。
「いってきま~す」
「タッちゃん、帽子かぶっていくのよ!」

     ◆

 あれから五十年。
 母さんは八十三歳になり、僕は還暦を迎えた。母さんは僕が二歳の時に離婚をして、女手一つで僕を育ててくれた。そんな母さんも四年前から認知症を患い、介護が必要になった。物忘れがひどくなり、最近は僕のことさえわからない時がある。日中はデイサービスに預けているが、朝と夕方は送迎バスに立ち会わないといけない。そんなこともあってフルタイムの仕事ができなくなり、僕は会社を早期退職した。
 今年の夏も蝉がうるさい。
 
     ◆

「タッちゃん、ごはん食べるでしょ。手を洗ってこっちへいらっしゃい」
「母さん、僕が準備するからもう少し待っててくれる?」
 こんな会話が毎日続く。今日も母さんの飯台の上には、容器のままのマヨネーズがお皿の上に横たわる。戸棚の中では、冷蔵庫に入れたはずのお漬物が悲鳴を上げている。
 またか……。そんな思いとため息が僕の中で繰り返される。
 僕が母さんの介護の中で学んだことは、間違いを否定しないこと、声を荒げないこと、認知機能がおかしくなってる時は母さんに合わせることだ。そんなふうにわかっているつもりでも、僕の方がおかしくなりそうになる。精神的に疲れてくるのだ。
「母さん、ちょっと買い物行ってくるね」
 とは言っても、玄関先でタバコを一服やるだけだ。徘徊の癖もあり一人にはできない。
「タッちゃん、帽子かぶっていくんだよ」
 また子どもになってんのか……。

     ◆

 新しい服を着せてやりたいと思い、母さんを車に乗せて出掛ける。
「お兄ちゃん、ありがとうね」
「気にしなくていいんですよ」
「私の息子も優しい子でね、時々こうやって私を車に乗せてくれるんですよ」
「そうなんですね……」
「あの子、元気でやってるかしら? 私の自慢の息子なんですよ」
「……」
 ジワジワと涙が目の前の景色を揺らしていく。と同時に、毎日一緒にいてもわかってもらえない寂しさが、僕の胸を締めつける。
 母さんに、薄緑色で描かれた花柄の、夏らしい薄いブラウスを選んだ。
「よく似合ってるよ」
「そう?」
 少し照れくさそうにしている母さんを見ていると、
「買ってくれるの? 私に? お兄ちゃんが? 申し訳ないねぇ」
 と、僕の顔を見て言った。
 最近は、時々トイレを失敗するようになってきた。洗面所でしてしまったり、床の間でしてしまったり。もちろん後始末は僕の仕事。母さんは自分がしたことすら覚えてはいない。夜の間にトイレに起きても大丈夫なように、トイレのドアは開け放ち、廊下の照明も点けたままにしておく。それでも玄関に敷いたマットの上で用を足している。イライラとやるせなさが僕を襲う……。最近は僕のこともわかってないようだし……。
 これ以上は無理だ……。もう疲れちゃったよ。一日中母さんのことばっかり……。
 もういいよ。母さんと一緒に死にたい……。

     ◆

「母さん、お天気がいいから散歩に行こうか」
「お散歩? じゃ着替えましょうかね」
 そんなに遠くには行かないから、そのままでいいよと言うと、駄々をこねるように母さんは言う。
「駄目なの! 息子が買ってくれた服で出掛けたいの!」
 どうして僕が買ったこと覚えているんだろう。
 母さんを車椅子に乗せて、ゆっくりと二人で桜並木を歩く。
「ここの桜は毎年綺麗に咲くね」
 母さんは昔を思い出すように、少し見上げて言う。
「そうだね。また桜の時季にお花見に来ようね」
 そう言う僕の手には、真っ白なロープが握られている。車椅子を停めて、ちょっと高いところの太い枝にロープを掛ける……。
「タッちゃん、どうしたの?」
 振り返って母さんが言った。
「うん。蝉がいるんだよ」
「そう。落ちると怪我するから、高いところは気をつけてちょうだいね」
「わかってるよ!」
 そう言ってロープに手を掛けると、母さんは遠くまで連なる桜並木を眺めながら呟いた。
「達也……。母さんはもうすぐお迎えが来るよ。お前はしっかりと生きなさい。人生は苦しいことや辛いことばっかりじゃないよ。生きてて良かったと思える日が必ず来るから」

『鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす』

 蝉でいられたらどんなに楽だったろうかと、青い空をバックに鳴き続ける蝉を見て思った……。

 僕はロープから手を離し、母さんの小さくなった背中をそっと抱きしめた。
 母さんのブラウスに顔を付けて嗚咽を繰り返していると、母さんは僕の手を優しく包んで言った。
「どうして泣くんだい?  タッちゃん……」

(了)

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