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複雑な世界の細部の遠さについて

 大学生の時、統計力学の講義を初めて聞いて、なんていい加減なんだと思った。統計力学では、例えばある気体について考える。気体は無数の分子によって構成されていて、数グラムの気体は10の二十何乗というオーダー(0が20個以上ついているような桁数)の分子を含む。そんな膨大な数の分子について1つ1つ計算することは不可能に近いので、分子の集団全体がどのように振る舞うのかを考えて計算する。もちろん、これは天才的に良く考えられた方法であり、実際に物理学として機能する。
 しかし、当時の僕はそれでもなんだかいい加減だと思った。”本来なら”全ての分子の動きを全部計算すべきだし、そういう方向性で努力していくのが筋ではないかと。だから僕は先生にそう言い、予算を取ってくることがやや苦手な超伝導の研究者である先生はこう答えた。
「じゃあ、もしも我々人類がものすごい計算能力を手に入れたとして、アボガドロ数個の粒子の振る舞いをそれぞれ個別に計算できたとして、それを我々はどう"認識"するの? それを見て何が”分かる”の?」
 確かにそれはそうだった。たった1mol、10の23乗オーダー個の粒子について、ある時刻における位置と運動量と各粒子間の相互作用が全部ディスプレイに表示されたとして、僕はそれを読み終えるのにどれくらいの時間が掛かるのだろう、1秒に1つのペースで読んだとして10の23乗秒掛かる。1年は31,536,000秒でざっと10の7乗のオーダーなので、10の16乗オーダーの年数を掛けないと1molの粒子の振る舞いを読めない。つまり1億の1億倍の年数が掛かる。もちろん僕たちはそんなに長く生きはしないし、その頃には地球だってもう存在しない。
 さらに、これは本質的には「時間が掛かるからできない」という問題ではない。僕たちの寿命と、太陽系の寿命と、宇宙の寿命を無限だと仮定しよう。ある瞬間の粒子の情報の長い長いリストを読んだとしよう。さて、このとき僕達は一体何を得たのだろうか。何が分かったのだろうか?
 ここにはいくつかの問題が混在していて、「分かる」とは一体どういうことなのかという深淵な問いが含まれているのだが、それは一旦棚上げして物理学としての分かるにだけ着目したい。物理学で「分かる」というのは、ある現象の背後にある通常はより一般的な法則を発見し、その法則の元にその現象の時間発展が予測可能ということだ。例えば僕達は、いつ、どこで、どの角度とどのスピードでロケットを発射すればそれが月に到達するのかを計算することができる。
 さて、無数の粒子の振る舞いが具に分かり、位置(x1, y1, z1)にあった粒子が1秒後に(x2, y2, z2)に移動しているということが分かって、その全部が記述できたとして、それは一体何なのだろうか。僕達は結局、それら無数の粒子の振る舞いから統計的な量を取り出して、温度や圧力と知りたいと思うのではないだろうか。
 もちろん、全部の粒子の動きを計算できることになるのが無駄だというわけでもない。より精密な気体のシミュレーションができるだろうし、そこから何かが発見されることもあるかもしれない。でも、結局そのシミュレーションの結果から取り出したい量というのは、温度や圧力のようなものになるのではないだろうか。僕達の持っている物事の認識形態あるいはその能力は、複雑で構成要素の多い系の細部の個々を認識することはできない。ある複雑な系に対して、そこから特徴量のようなものを取り出して、その特徴量について何か考えることしかできない。これは端的にぞっとするような限界線だ。統計力学は、普通には僕達がまったく扱うことの敵わない数の粒子を扱う術を与えてくれたと同時に人間の知覚形態のさもしさを露呈する。
 統計力学はそういう意味合いで、まだ20歳くらいだった僕に衝撃を与えたが、長い間このことは自然科学の文脈でしか認識していなかった。長づるにつれ、全ての細部は分からないというのは、当たり前だけど社会を見る時にだって同じことだと分かってきた。社会は僕達の認識を遥かに超えた数の要素が構成する複雑系で、つまり個々の人生であったり事情であったり歴史であったり、僕達はそのほとんどを知ることも分かることもできない。そこにあるのはいつも自分勝手に抜き出された何かの特徴量に見えるような錯覚だけだ。これを、僕達人間の愚かさと読むのか、それとも追い切れない世界の豊かさと読むのかは、ただの陰陽に過ぎない。

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