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Outermost

 VRのヘッドセットを用いて、現状僕たちが十分に味わうことができるのは視覚と聴覚の二つだけだと言っても良いだろう。実験室レベルでは他の感覚についても研究が行われているが、ここではそれらを無視する。生命維持に必要な食事などの諸条件を、これも一旦無視することにして、100年の間VRヘッドセットを着けたまま生活した人間を考える。その人は多分、嗅覚や味覚、あるいは触覚のことをほとんど忘れてしまい「世界とは光と音で構成されたものである」と考えるようになるだろう。
 そして、ヘッドセットを脱ぎ、スターバックスに入ってラテとチーズケーキを食べたとき、そうだ世界には匂いも味もあったと思い出すだろう。

 心脳問題を一旦傍に避けておいて、僕たちの脳が思考や意思を司る器官であると仮定する。目が視覚、耳が聴覚、鼻が嗅覚、舌が味覚、肌が触覚というような並びに、この「脳が思考」というというものを加える。
 そして、僕たちが被り続けているVR"ヘッドセット"が、この6つのジャンルに限定された機能しか持っていないと考える。つまり、

 ”本物の”VRヘットセット = 視覚、聴覚
 思考実験のヘットセット = 視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚(痛みなど諸々の感覚を含む)、思考

という立て付けだ。

 そして、僕たちの普段の生活というのはこの思考実験として考えているVR世界の中でのものであり、このヘッドセットを脱ぐと、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、思考、の外側の何かの世界が広がっていると考えみてる。
 その外側の世界のことを僕たちは考えることができない。なぜなら僕たちが何かを考えるとき、それはヘッドセットの中の限定的な「思考」というものを用いているにすぎないからだ。ヘッドセットを取らないとそれを考えることはできない。それは「考え」ですらない。僕たちが想像することも思考することもできない何かである、ヘッドセットを外した状態ではそれは思考のような努力を要しない、もっと自然な「見える」に近いものだろう。

 これは妄想に過ぎないが、僕は眠りは実はヘッドセットを外す行為なのではないかと思うことがある。つまり、眠っているときが本当に起きているときなのではないかと。
「本当に起きている」間に起こったことは、「普通の意味合いで起きている」僕たちの「思考」では考えることも思い出すこともできない。だから眠りはまるで人生の空白であるかのように見える。
 でも、それが空白なんかではなくて、実は想うことすらできない豊穣なる世界だったら面白い。眠りに落ちるとき、どこかホッとするのは、その全く謎の世界に帰るからで、朝起きたときのちょっと不思議な感覚は、その世界から帰ってきた時の何かを置いてきた感じなのかもしれない。
 繰り返すけれど、これは完全にただの妄想で、けれど僕たちは全くもってこの世界を分かっていないわけで、そういうことだってあってもおかしくはないなと思う。

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