見出し画像

感知する力(改稿)仲さんver

「ワォゥ!ワォゥ!ワォゥ!」

鼓膜の裏側から釘を刺されたような驚き。金属のざらついた、冷たい音質。遮光カーテンの下でスコールのような鳴き声が走り抜ける。ジュリアだ。日差しを受けたシルバーベルベットの毛並みはちらちらと鈍い輝きを躍らせる。その若いプードルを見て、若さとは「好奇心に満ちている様子」なのだと思った。

時折、彼女は気が触れたように吠える。喉の奥底、深い谷を吹き抜ける風のような声がびゅんっと駆け抜ける。その度に私は頭を痛める。声の大きさ、高さ、圧力、その何もかもが私の思考を中断させる。彼女には聴こえているのだ。私の耳には聴こえていない〝何か〟が。

私が見えないものを見て、聴こえない声を聴き、違和感なく肺を通り過ぎていった微かな匂いに反応する。同じ世界に生きながら、私と感じているものが全く違う。

人類は遠い昔、二足歩行で移動し、道具を使い、言葉でコミュニケーションをするようになった。言葉を獲得したことにより、五感を「概念」として保存することに成功したわけだ。そのことによって「感知する力」が衰えたのかもしれない。「言葉」は便利な道具であるがゆえに、私たちは言葉に頼り過ぎた。犬の彼女たちよりも明らかに感知している領域が狭いのは、そのような理由によるものではないだろうか。

読みかけの本を閉じる。身を預けたカウチソファ、足元ではトムが静かに眠っている。同じプードル犬であるにも関わらず彼は微動だにしない。年齢のせいだろうか。真綿のように白かった毛はくすみ、茶色っぽく濁っていた。

私たちには共に積み重ねてきた時間があるから、その除雪した道路の脇に忘れられた「溶けはじめた雪だるま」のような姿を愛おしく感じることができる。だが、初対面がこの姿ならば、私は君と共に生きる判断を下さなかったかもしれない。そんなことを考えていると、トムはちらりと一瞥をくれて、溜息をつくようにして再び瞼を閉じた。「お互い様」だと言っているかのように。トムは深い眠りからこちらの世界へ戻ってくるまでに時間がかかるようになった。「感知する力」は老いによって鈍るのだろう。

窓際では今なおジュリアが気を昂ぶらせながら右往左往している。カチャカチャと爪がフローリングを打つ音が煩わしい。イヤフォンをつける。デューク・エリントン楽団による『女王組曲』。優雅な鍵盤による音の運びは、管楽器が柔らかく包み込むと同時に世界の広がりを見せる。心地良い。けれど、何か足りない。あの時、聴いた『女王組曲』とは全くの別物である。

***

灰色の分厚い雲。ゆっくりと舞い落ちる粉雪は、月の重力、時折、下から吹き上げる風に渦を巻き、隣の街へと飛んでいく。階段に響くコツンコツンと靴のかかと。鳴り終えた頃、私は二階の重たい扉に手をかけていた。向こう側から微かに流れてくる音楽。それは妖精たちの囁き声。思いきって扉を開くとあたたかい空気と共に押し寄せた、重厚な音の洪水。それを受けてびりびりと泡立つ肌。

画像1

店の名は『Bossa』といった。札幌にあるカフェ&バー。寒さにくたびれた私は、席に着くとウィンナーコーヒーを注文した。身体が甘いものを求めていた。

数えきれないほど並ぶ壁一面のレコードの中から私がリクエストした曲を、マスターは丁寧に抜き取り、針を落とした。大きなJBLのスピーカーから流れはじめる静寂。それは吐息までも聴こえてくるような静けさ。鍵盤の音色、鮮やかに、それは肌の上を波打ち、細胞の中を通り抜けていく。身体を打ち破って消えていく音、そして、身体の中に籠る音。それはCDやMP3とは全く違う。流れている曲は同じであるのに。

人間の70%は水だという。音の波が全身に張り巡らせた血管の中を通る水を振動させる。心地良い共鳴だ。陽だまりの下にかじかんだ手を差し出した時の感覚と似ている。それは時間をかけて黄金色の光を与える。

何かが違うわけだ。実感として確かにある。CDだけでしか音楽を聴いたことがない人は、本当の意味で、音楽を聴いていることにはならない。これは日本語として、おかしな表現かもしれない。

***


CDは人間の耳に届かない音域をカットしているのだという。大きな理由はコスト面。全ての音の幅を収めようとすればディスクも大きくなるし、何よりお金がかかる。それらの問題を省くため、耳で聴こえない領域は切り捨てることにした。その目安を2万Hzとしたのは、傲慢な人類がつくり出した一面的な枠に過ぎない。本質的なことは数字ではない。そこにあるか、ないか、だけだ。

「自然の音を聴くと寿命が延びる」

ふと、以前目にした文章を思い出した。木々を揺らす風、川のせせらぎ、石の静寂。自然は音に満ちている。人間の聴覚を超えた領域。その場にいるだけで心が安らぐ感覚を味わう。2万Hzを超えたざわめきと囁きたち。それらが人間の身体(精神)に良い影響を与えるという。耳に聴こえない音が「健全な生」には重要なのだ。耳では聴こえていないものが、身体では感知している。私たちは、聴こえない〝音〟に五感を研ぎ澄ませる必要がある。

画像2

私たちは光が当たっている部分しか見えていない。光の周囲に広がる暗闇の存在さえも気付いていない。頭で考えていることは氷山の一角に過ぎない。「地球」という星が広大な銀河系のほんの一部であるのと同じように。

***

「ワォゥ!ワォゥ!ワォゥ!」

頭蓋骨に痛みが響く。ジュリアの鳴き声だ。そうだ、彼女には聴こえているのだ。私の身体が感じているはずの、聴こえていない〝声〟が。

「ワォゥ!ワォゥ!ワォゥ!」

どういうわけか今日は特にしつこい。叱りつけに行こうと思い、ソファから立ち上がろうとすると、トムの前足が私の太ももを押さえた。先ほどまで深い眠りについていた彼は、いつの間にか私の隣にいて、聡明な瞳で私をじっと見つめていた。

「怒ってはいけない」

それは私を悟らせるような瞳だった。何にも気づくことができないほど「老いた」と思っていた。そうではない。彼は、私の〝いらだち〟という気配をしっかりと感じ取っていた。私たちには聴こえない声───2万Hzを超えた〝何か〟が彼にも確かに聴こえているのだ。



(『感知する力』改稿:おわり)


***


このnoteは2018年10月に投稿した『感知する力』の改稿です。


この記事を、仲高宏さんに添削のお願いしました。

添削していただいて、課題を与えられました。それは、

2万Hz以上の音、これをもう一度文章で表現してみてください。

というもの。そして「知識と実感の結合」を強く意識しました。それは、仲さんが普段から仰る〝描写〟について向き合うことを意味していました。僕にとってこれはとても難しい体験でした。普段扱っていない筋力をトレーニングするような。

元のnoteは2000字では収まりません。ですから、今回課題をいただいた「2万Hz以上の音の文章表現」にのみ焦点を当てました。ああ、ちょっと装飾し過ぎたかもしれない…反省。

仲さん、ありがとうございました。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。