見出し画像

器が満たされた時

ごはんを食べるような感覚で、文章を読む。

そうすると、自然と文章が書きたくなる。生理現象。みんなそうでしょ?いい文章にたくさん触れていると、書くのも早くなる。「いい文章」の定義はなかなか一口には言えない。

考えさせられる文章、光景が広がる文章、美しく響く文章、イメージが次から次へと展開していく文章、余韻が長い文章、調和のとれた文章。

要するに、心を動かされた文章。

僕たち人間は、概念で虚構を描く。それは言葉の建築だ。そのマテリアルに意味を込めてイメージの中で躍らせる。その賑わいは快楽にも似ていて。考えることに喜びを知った。

目に見えたもの、耳に聴こえた音、匂い、味わい、手触り。それらを言葉に閉じ込める。それをジャグリングしているうちに、美しい表現をする者が現れた。なめらかな言葉の連なりは官能的でさえある。

人間は言葉を積み重ねることによって、深い思考を手に入れ、想像を遠くまで飛ばせるようになった。

言葉の感受性を豊かにすることは、人生を豊かにすることだし、言葉を磨くことは、生き方を磨くこと。言葉は思考のエレメントであり、身だしなみの一部だ。美意識が現れる。ふとした仕草、振る舞いが美しい人に惹かれるのと同じように、さりげなく現れる美しい言葉に、その人の人生が垣間見える。

そのような人と会話をしていると、あるいは言葉を聴いているだけで、心は満たされていく。気付けば、文章を書きたくなっている。

「文章を書く」ということは、器を満たすことだ。文章に現れるムード、佇まい、ポエジーは器の中身と似ている。書けば、欠けるし、欠ければ、満ちる。満ちる先に、「書く」があるのだと、かくかくしかじか、かく語る。

「何で満たすか」がセンスだ。そう思えば、世界は言葉で満ちている。その感受性という名の受信機を、常に手入れしておくことが何より重要なのかもしれない。


***


▽noteリレー▽

noteリレー、第三走者は 嶋津亮太でした。第二走者のひさとみなつみさんからいただいたお題は「〝書きたい〟と思う瞬間」

それは読書を通して、自分の内側で言葉があふれた瞬間。敬愛する夏目漱石の小説を読んでいると、自分も書きたくて書きたくてうずうずしてきます。向田邦子のドラマを見たり、彼女の講演を聴いたりすると言葉が愛おしくて愛おしくてどうしようもなくなります。立川談志の落語を聴くと、説明のために置かれた言葉を全て削りたくなります。志人のラップを聴くと、連なる光景を紡いで物語を描きたくなります。

自分の中には、言葉を溜める器があって。それが満たされた時、自然と文章があふれてきます。ああ、豊かでありたい。


さて、次の走者はサトウカエデさん。信頼のおける書き手です。ていねいな言葉選び、詩的な表現、感情を揺らす文学性。いつも投稿を楽しみにしているクリエイターさんです。カエデさんへのお題は「Muse」

▼サトウカエデさんの好きなnote▼

教養のエチュード賞に応募してくださった作品で、僕はこのnoteが大好きです。


▼一つ前のnote▼

なつみさん、お声かけしていただいてありがとうございました。ご紹介していただいたお言葉、とてもうれしかったです。これからもどうぞよろしくお願いします。




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。