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1000文字の手紙〈池松潤さん〉

孤独が色気を育てるものだと思っている。だけど、飲み込まれると、人は孤独に殺される。

はじめに池松さんの文章を読んだ時、「色気のある人だなぁ」と思った。選ぶ言葉やその置き方。物語の軸とは関係のないところに、そっと言葉を置く。乱暴なようで品がある。一見不要であるかに見えるその描写は、読み終えた時に必要な言葉であったことに気付かされる。それらの言葉に、物語の醸すムードが、心情のつまずきが、移ろい広がる光景が、尾を引く余韻が、起動するための役割を課されている。それが物語に対して豊潤な味わいを与えていることは言うまでもない。

池松さんは心を削りながら光を散らしている。ように僕には思える。時に火打石のように、時にかんなで削るように。いずれにせよ、何かを積み上げて光を獲得するのではなく、彫刻のように光を導き出す。

あの逞しさや明るさ、聡明さ、やさしい微笑みに人としての魅力があるのだとしても、僕はその奥にある悲哀、寂寥、孤独に惹かれる。酒に酔うことでほがらかさと刹那の忘却へ手をかけたとしても、どこまでも明晰な思考、醒めた自己から抜け出せない苦悩が好きだ。

愛や夢を語る時、その裏側では淋しさが「しこり」のようにそこに在る。愛への説得力と、希望への儚さはそれによるものだと思っている。僕は池松さんのそのような部分に惹かれるし、共鳴する。でなければ、あのような文章は書けない。

本人の望まない苦悩がそこにある。皮肉にも、その苦悩の中で池松潤の文学性は育まれている。その聡明さと逞しさから希望を描き、同時に心のどこかで「破滅」を望む。小説を書いてくれ。小説を書いてくれ。小説を書いてくれ。孤独にペンを握らせてくれ。

色気というのはフラジャイル。ある種のあやうさである。池松潤の魅力はかぎろいのように。目を離した隙に消えてしまうようなあやうさがある。そのゆらぎを、儚さを、豊かで繊細な感受性を、言葉で刻んでいくべきではないだろうか。この世に生を受けた日に抱えた孤独は、作家としての宿命であると受け入れて。色気の理由はそこにある。あの小説が書ける理由はそこにある。

飲み込まれると、人は孤独に殺される。

大丈夫。僕はあの作品を読んだ時から、ずっと友人だと思っている。周りにたくさん人がいたとしても孤独はそこにある。だけれど、本当に深い部分でわかり合えたとしたら、孤独は軽減されるのではないだろうか。

そのようなことを思いながら読ませていただきました。



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