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1000文字の手紙〈逆佐亭裕らくさん〉

ユーモアには、しばしばアイロニーが影を潜めている。それが権威に向いたり、社会に向いたり、自分に向いたりして、その移ろいが鮮やかであるほどに見る者、聴く者のこころを躍らせる。

ユーモアは人を楽しませるだけじゃない。時に、勇気を与える。積もり積もったうっぷんを晴らしてくれたり、ことばにならなかった「孤独」や「弱さ」「さみしさ」にあたたかいスープを届けてくれるような。

裕らくさんは、そういう人で。今回、読ませていただいた作品はメッセージ性が強い。確固たる意志があり、寒さにふるえる者には燃え盛る炎となり、うだるような暑さにくたびれた者には涼やかな北風となり、嵐に見舞われた者には雨風を凌ぐ洞窟となる。

今までもずっとおもしろい人だった。いつだってそのユーモアに含まれたアイロニーは自分自身へと向けながら、文章の上で軽やかにステップを踏んだ。それを読んだぼくたちは楽しい気分になり、明日への活力をもらっていたように思う。

ビートの音が聴こえる。

「ロック」とは何をもってロックなのか。革ジャンにシルバーアクセサリー、髪型、薬物、暴動。そんなものではない。「ロック」というのは精神性だ。ファッションではなく、生き方。そこに色気が香り立つ。

会社員でも、公務員でも、主婦でも、作家でも、動物園の飼育員でも。ビートは心の中にある。自分の信じたものを、最後まで信じ抜けるのか。反骨精神が全てではない。受け入れながらも、自分の考えを尊重できること。「ロック」は表現に現れる。

この作品における自分自身へ向けたアイロニーは、その体を突き抜けて社会の闇へと刺さる。作品を読んだぼくたちは笑いながらも、あらためて疑問と向き合う。ことばにならなかった違和感に、悲しみや怒りやさみしさや孤独や冷たさを見る。

ユーモアの裏地にあるロックの精神。それはどちらも大きな壁に向き合った時により大きな力を発揮するが、似ているけれど、別のもの。裕らくさんについて、いつかのコメントで「二枚目のこころの三枚目」と書いたことがある。それは「ロックの精神性を持つユーモラス」ということなのだろう。

その熱量が高まった時、裕らくさんの表現はバーストする。その力強いメッセージ性が共感を生み、読み手へ勇気を与え、やさしい気持ちをもたらしてくれる。この作品は、まさにそれが形になったものではないだろうか。

すてきな文章を届けてくださり、ありがとうございます。



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