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うつりにけりないたずらに

たとえば、「文章を書く」という行為。どういう意味があるのだろう。頭の中を整理する。感性を豊かにする。思考を深める。想いを相手に伝える。魅力を引き出す。想像の世界を形にする。たくさんあるね。もう少し抽象度を上げてみる。それらはつまり、「内側の世界を拡張する」と「外側の世界を拡張する」ということ。ざっくり言うと、文章を書くことで、世界を拡張できるんだ。

「話す」にも同じことが起きるけれど、「書く」とはレイヤーが違う。あくまでも「話す」はフリースタイル。即興的に組み立てて、そのまま消えてゆく。音楽のような気持ち良さはあるけれど、思考は浅瀬を抜け出せない。「書く」は思考を掘削する作業だから、光の届かない深い場所まで潜ることができる。

暗闇の中を、片手に持ったサーチライトで照らしてゆく。そこで触れたもの、発見したもの、他のレイヤーとの思いもよらない連結が、自分の内側の世界を広げていることは、文章を書いてきた人ならば誰でも心当たりがあるんじゃないかな。

内側の世界が変われば、外側の世界も変わる。大げさな話ではなく、世界の見え方が変わるということ。自分に子どもができれば、それまではあまり気にしていなかった外で見かける誰かの子どもに目が留まるようになる。くらいの話。その目でもって、問いを立てたり、誰かの魅力を引き出したり、外との関係性を構築していくと、外側の世界が拡張してゆく。

この内と外の行き来、交互(あるいは同時)に拡張してゆく運動こそが、ぼくにとって「書く」という行為にあたる。

最後にちょっと不思議な話。

あんまり真剣に読まないでほしい。これは、日常のメモだからね。最近、ぼくは浮世離れしていて。たとえば、ここには〈わたし〉と〈あなた〉がいる。「ぼく」は〈あなた〉だけじゃなく、〈わたし〉のことも見ているの。伝わるかなぁ。たとえば、魂というものがあるとする。この魂が、〈わたし〉と〈あなた〉を観察していて。〈わたし〉は確かに〈わたし〉なんだけど、笑っている〈わたし〉、落ち込んでいる〈わたし〉、相槌を打っている〈わたし〉を、物質的に存在しない魂が、中立的に眺めている。そしたらね、あんまり緊張することはなくなったよ。



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