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1000文字の手紙〈にわのあささん〉

子どもに教えられることがあります。 ふとした疑問をことばにしただけなのでしょうが、はっとさせられる瞬間が。 遠い昔の自分にも確かにあった感覚なのに、今では無色透明になって見えなくなっているもの。 それは「常識」ということばに言い換えることができるかもしれません。

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にわのあささん、はじめまして。 第三回教養のエチュード賞にご応募してくださり、ありがとうございます。

ことばに触れたそばから光景が湧き立つような美しい描写が心地良く。 まるで水の中の魚になったような気分でした。 娘さんと一緒に水族館をゆっくりと歩く。 目に映る一つひとつをすべて記憶の宝箱にしまっておきたくて、真剣な眼差しで水槽の中を見つめる娘さんの息遣いがこちらに伝わってくるようでした。

人というのは、知識として昇華した瞬間、感覚を省くようになるのかもしれません。 ことばを理解することと、感じることは別なのに、同じものとして思考してしまう。 概念上のことを理解した気になって、感じることを放棄する。 大人にはそのような癖があります。 だからこそ、合理的に、効率よく、考えたり動いたりすることができるわけですが。 

子どものことばには、「感じること」がベースにあります。 感じたことをそのままを受け入れることができる。 そのことばに出会った時、大人は驚き、同時に懐かしさを覚えます。 そのことばに過去の自分を発見するからです。 「 そうだった、確か、そうだった」と。

子どもの振る舞いやことばには教わることは多く、常識という枠を外し、フラットに物事を観察する視線には憧れさえも抱きます。 この作品に感じる奥行きは、それだけではなく娘さんの確かな成長までも描かれている点です。 底の方がゆっくりと喜びと希望に似た光が湧き起こってきます。 この〝じんわり〟とした感覚の想起が、読み手に深い味わいをもたらしてくれる。

この短いストーリーの中に、密度の高いゆったりとした時間、子どもの中に自分を発見する驚き、子どもの確かな成長、希望や期待など、様々な要素が詰まっていて。 それが淑やかに、美しく、描かれていてます。 子どもの眼差しの向こう側にきらめく光を余韻に残し、上品に物語はとじられる。

にわのあささんのお人柄が現れているような気がしました。

すばらしい作品を届けてくださり、ありがとうございます。

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