見出し画像

黄昏のポエジィ vol.2

毎日を100円で紡ぐ物語。
それは、黄昏のポエジィ。

毎日、誰かのnoteに100円のサポートをしています。心に残る文章は、ありきたりな一日にスプーン一杯分の特別な味わいを与えてくれます。時には、人生を変えてくれる一文と出会うことも。

今回もそんな素敵なnoteたちを少しだけ紹介。

***


さよならについて。「死」の扱い方は人間の尊厳に関わる。それは亡くなった人にも、残された人にも。ちゃこさんの表現した「私にとって死は視覚的なものだった」という言葉は、僕の中で形になっていなかった靄をうまく形にしてくれた。そうだ、確かにそうだ。はじめて親しい人の「死」と対面した時のあの不思議な感じ。もう息をしていない知っている顔。悲しいのと、怖いのと、驚きと。いろんな感情が一気に押し寄せて、そこからだんだん「あの人は死んだんだ」ということを身体的に理解しはじめる。「死」を受け入れるために必要なのは、あの感覚的な衝動なのだ、と。だからこそ、儀式的な弔いによって心を鎮め、畏敬の念を込めて送りたい。「別れ」は非常に感覚的なものなのだ。



時代が変わる時に、前時代に大事にされていたものを考える。時間の流れが速くなり過ぎると、僕たちは「稀少性が高いものだけが価値がある」と思い込んでしまいがちになってしまうような気がする。「数が少ない」ということはわかりやすい。誰が見ても「かけがえのない存在」であることがわかる。では、目の前にいる大切な人を想う気持ちは、稀少性が高いものよりも価値は低いのか。誰かに対する言葉遣いの丁寧さはどうだろう?

振る舞いや想いだって、価値はある。人類が「人を想う」総量が増えれば、それはすばらしいことじゃないのか。パラダイムシフトは行われる。だけれど、後時代の価値観に合わせていくことも大切だけれど、前時代に大事にされていたものについて考えることもまた重要なのだと思う。



僕は成瀬さんの文章が好きだ。豊かに知的で、どこか退廃的で。告白すると、僕は成瀬さんの文章をはじめて読んだ時、セクシャリティがわからなかった。まぁ、文章を読む上でそこに重点を置くことはナンセンスなのだが。ただ、そのようなユニセックスな魅力がある。それは手に入れようと思って獲得できる力ではない。もともと持っている資質だ。磨いて、磨いて、時にロマンティックに、時にいたずらっぽく、時に最悪のジョークで笑わせてほしい。

今回は少し色っぽい内容で、終わらない男女のじゃれ合いをずっと読んでいたい。雨音といい感じの音楽を聴きながら。最高だね。



実感の伴った文章が僕は好きなのだけれど、千ちゃんのこのnoteはまさにそれで。なんだか、胸が詰まって、息がしづらくなって、最後に美しくて、泣いた。心もとなさと、悲しさと、淋しさと、空虚さ。それがあるのにどうして希望的に映るのだろうか。それが彼女の人間性なのかもしれない。それは美しい写真と詩的な言葉で結ばれていく。それはもはや文学だ。

僕は彼女の撮ったパリが好きだ。そう、〝彼女の撮った〟パリが好きなんだ。いつか、行ってみたい。




池松さんがまたおもしろいことをやっている。本当に不思議な人で。僕がやろうとすることは理由も聞かずにいつも応援してくれる。酔っ払いや、パワフルおじさんや、インテリジェンスな紳士……いろんな表情を持つ池松さんだけれど、本当の池松さんは最初の教養のエチュード賞に送ってくれたあの作品の人物だと思っている。翳りから光を映し出し、言葉に研磨をかける文学の人。

池松さんが何かをやる度に、またお会いしたくなります。僕もこっそりレーダーチャート式アウトプット診断受けました。みなさんもぜひ。


***


この「黄昏のポエジィ」はいつまで続けるかわかりません。今後、それをどうするのかなんて何も考えていません。続けるうちに新しい「意味」が現れてくると思います。

noteという場所は僕の実験場所です。この場所で文章を書いていると、時々誰かがサポートをくれます。文章を読んでいろいろと感じてくれた人や僕の実験をおもしろがってくれる粋な人が。それが続いているうちは、おもしろくなりそうなことを続けていけたらなって思います。


▼『黄昏のポエジィ』詳しくはこちら▼






「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。