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スケッチ

嘶き

朝霧に包まれた深い緑。それは東山魁夷の描く緑に似て。粒子の細やかな空気で肺は満たされ、呼吸をする度に感覚は冴えてくる。

白い息は静かに溶けてゆく。生命のぬくもり。栗色の瞳は遠い山並みを見据えている。首筋を撫でると、ゆっくりと瞼を閉じた。馬は美しい。

表情を見て、肌に触れ、息遣いを感じる。言葉はなくとも、私たちは深いところで「つながり」を感じることができる。むしろ、言葉のない世界の方が明瞭なのかもしれない。私は、君のことを「わかりたい」と思う。

「言葉」が生まれ、それを扱うようになって人間は「概念」を獲得した。私たちはそれを使うことによって過去を表現し、未来を語ることができるようになった。「言葉」は便利だ。それによって感情を伝えることができる。しかしながら、こうも思う。言葉の利便性にかまけて、相手の心の声をおざなりにしてはいないだろうか。

表面的な言葉の意味に捉われて、その奥にある声に耳を傾けようとしない。私たちは忘れてはならない。重要なのは「言葉」ではなく、「心の声」であることを。

観察して、想像する。表情や息遣いから、イメージする。本当に「相手を知ろう」と思えば、言葉はいらない。そのコミュニケーションを通して、「言葉」では到達できない深いつながりを獲得する。それは、当事者である「私」と「君」だけの体験となる。愛おしさは伝わる。哀しさは共有できる。共に過ごした時間が、かけがえのないものとなる。

コーヒーを淹れよう。しばらくのお別れ。君もそのことがわかっている。首筋を上から下へとゆっくりと撫でおろす。その場を離れ、歩き出した私に、君は声を上げた。しなやかに放たれた弓矢のようなその嘶きは、山並みを撫でるようにして遠くまで響いた。

パチン。火にくべた薪が軽やかな音を立てる。橙の光が揺らぎ、視線はその穏やかな炎の中に吸い込まれていく。パチン。右手にわずかな衝撃が走る。手網の中でコーヒー豆がハゼた。炎の中で薪が割れる音と、豆のハゼる音は異なる。どちらも軽やかであるのだが、豆は跳躍するイメージ。祝祭的な軽やかさがある。耳を澄ませばわかる。手に伝わる振動でわかる。香りは言葉以上に雄弁に物語る。「伝えよう」とするのではない。「伝わろう」とすればいい。

その音の違いは、豆の種類だけでなく、厳密に言うと含まれた水分量の違いや部屋の湿度によっても変わってくる。わざわざ数字で表す必要はない。耳を澄ませ。毎日のように、手網に入れた豆を転がしていれば、身体が覚えてくる。

「いいかい?〝会話〟しようとするんじゃない。〝対話〟をするんだ」

とりとめなく言葉を垂れ流すのではなく、相手の声に耳を傾ける。対話に必要なのは信頼だ。もちろん、それは比喩として。

それは人だけでなく、動物も。目の前のコーヒー豆も、手網の焙煎器も、メジャースプーンも、ケトルも、カップも。何かしらの声を発している。言葉である必要がない。相手の声に耳を傾ければ、それは伝わる。

芳ばしいロースト香で部屋は満たされていく。手網の焙煎器は私の右腕の延長のように。そしてハゼる豆たちは私の指のように。呼吸を感じる。一体化していく。たくさんの声が聴こえる。言葉にはならない声たちが。

ガラス窓に黄昏が差し込む。メイプルシロップのような雨が降る。世界は燦然と輝いていた。




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。