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「内輪」を非難することばに感じること

「内輪」のことを非難することばと出会った時、淋しい気持ちになります。

そもそも、「内輪」というのは輪の大きさによって範囲が変わるものです。日本語でやりとりしていることは、海外から見るとそれは「内輪の話」です。日本と中国、あるいは韓国などの間で起きる議論は、南米に住む人から見れば「内輪の話」という認識なのかもしれません。SNSの「輪」の中で「内輪」を非難することは、それをするだけもったいないような気がします。

「内」と「外」を考えることはとても意味のある行為だと思います。「外」の世界に目を向けるほど、「内」が明確になる。他者への関心が、自分を深く理解することへとつながっていきます。言い方を換えれば、他者の中に己を発見するということです。それは、哲学であり、宗教へとつながっていきます。

人はなぜ、「内輪」に苛立ちを覚えるのでしょうか。

このことについて考えることは決して無駄ではありません。現地点でのぼくの見解は、自分の側に在るべき「内」を外側に見つけた時、人は不満を起こすということです。

「内」と「外」の境界線は、自分が決めています。本来、そこには「内」も「外」もありません。「現象」が漠然と存在するだけで、線を引くのはいつだって自分です。自分で線を引くのだから、「内」は自分の側にあるというのが自然です。

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トムという名前の犬を飼っています。リビングの外に追いやられた彼は「中(内)に入れて」とワンワン鳴きます。扉を開けてリビングに入れてやり、僕が外に出ると、今度は「出たい」と外に向かってワンワン鳴きます。彼にとっての「内」は、〈リビング〉ではなく、〈ぼくと一緒にいる〉ということなのです。

「中(内)に入りたいのだろう」と思って扉を開けても、ぼくがリビングの外に出るとまた鳴きはじめる。ぼくにとって〈リビング〉が「内」という認識でしたが、トムにとっての「内」は〈一緒にいること〉だった。つまり、ぼくの存在しないリビングは彼にとって「外」なのです。

そのことに気付いた時、穏やかな気分になりました。「内」と「外」を決めているのは、それぞれ個人なのです。一つ屋根の下に共に暮らしていても「外」を感じることもあれば、アゼルバイジャンに住んでいる人でもこころの中でつながりを感じた時に、それは「内」になる。

つまり、「内」と「外」を決めているのは自分なのです。

人が「内輪」に対して不安になったり、苛立ちを覚える理由は、「内」を自分の「外」に発見するからです。

「内」というものは、本来自分の側にあるはずであるのに(その境界線は自分で決めているのだから)、それを「外」に感じた時に不満となる。それを解消するための方法は、「内」という概念は常に自分の側に存在すると認識しておくことです。

ずっと自分の側に「内」を持っている人はたくましく、しなやかです。「内輪」に対して非難する必要に迫られない。これは哲学であり、その捉え方によって「生きやすさ」を指し示してくれるものが宗教です。

ただ、「外」に「内」を発見することを悪とは言いません。人間は複雑な生き物です。自分の引いた線に思い悩むのが人間です。疎外感をことばに圧縮し、それが強い共感を生む。それは文学であり、芸術の一面でもあります。

「生きやすさ」の問題と、「芸術性」の問題には、大きな隔たりがあります。今ぼくが書いている文章は「生きやすさ」に焦点を当てていますが、これを物語という表現に切り換えた瞬間に、それは文学になり得ます。

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「内」とか「外」とか、怒ったり悲しんだりすることに疲れたら、イニシエからのロングセラー『方丈記』をぜひ読んでみてください。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水ではないんだよ。よどみ浮かぶうたかたは、消えたり結んだりしてとどまることはないの。

時の流れの中で、あらゆるものは分解されていく。同じに見えても、全く同じものは存在しない。今の刹那的な歓びや哀しみ、羨望や憎悪は、必ず形を変えていく。表が裏になることがあれば、裏が表になることもある。鴨長明さんのことばを読んでいるとこころが軽くなります。

忘れてはならないことは、「内」というものはどこまでも自分の側にあるということです。それさえ強く意識できれば、今より少し生きやすい気持ちになれるような気がします。



「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。