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ユーモアと友だちになりたい

「フランス人は、僕がメガネをかけているからインテリだと思い、映画が赤字に終わるからアーティストだと思っているようだが、それは両方とも大きな間違いだ」

ウッディ・アレンがこんなことを言っていた。彼らしいシニカルなユーモアにくすっとさせられる。ただ、その場に立ち止まり、ユーモアというベールをひっぺ返してみると、そこには「商業的な成功を手に入れた者は真のアーティストではない」という世の中の風潮を揶揄していることに気づかされる。さらに一歩進んでよりアイロニカルな気分になれば、「世の中に認められていないアーティストは“アーティスト”という肩書の裏に隠れることによって自尊心を保っている」というニュアンスまでも浮き上がってくる。

ユーモアは時に、冷たい事実に火を通しておいしいスープにしてくれる。

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ユーモアはやさしい。
やさしいけれど、君は残酷だ。
知ってか知らずか(いや、きっと知っていながらだろう)見ないようにしていたものにマーカーで輪郭を象る。その時、僕たちは無意識の中で気付いていた秘密と向き合わなくちゃいけない。
それは「王様は裸だ」という報せと似ている。でも、君はやさしいから王様が服を着ていないことを教えるために「裸」という言葉は使わない。

つまるところ、アンデルセンが書いたあの物語は決してユーモアではなく、「教訓」の枠に留まっているのだが、それはまた別の話。

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ユーモアは大切な事実を教えてくれる。

冒頭のウッディ・アレンのジョーク。当然のことながら「商業的な成功を手に入れた者は真のアーティストではない」ということが重要なわけでもなく、「“アーティスト”という肩書に隠れて自尊心を保っている惨めさ」に気づかせることが重要なわけではない。そういった価値観が空気のように蔓延している事実に石を投げかけていることが重要なのだ。

商業的な成功を収めていても、収めていなくても、世の中に対して影響力を持っていても、持っていなくても。「自分はアーティストなのだ」という自分自身への敬意が重要なのだ。周りの声よりも、自分の声を尊重しているということ。本質的な価値はそこにある。

自分自身への敬意を抱いている人間でなければ開かれない扉はある。重要なことは言葉にすることではない。きっと「憧れ」は、その扉の向こう側にいる。相手へのリスペクトと同じくらいに、自分へのリスペクトを持っている人にだけ扉の鍵は渡される。大事なことだからもう一度書いておく。

重要なことは、言葉にすることではない。

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扉を見つけたのであれば、開くべきだと思う。怖いけれど、やってみる価値はある。最初から何一つ抵抗なく開くことができる人もいる。緊張して身体が強張るかもしれない。ただ、後悔したくないのであれば、扉を開くべきだ。

言葉の向こう側にある事実が重要なのだ。僕たちはそれをユーモアから学ぶことができる。火をかけておいしく食べるだけではなく、冷たい事実に目を凝らす。そして考える。でも僕たちは、誰かにそれを伝えたい時は、やさしく火にかけておいしいスープにする。きっとそうあるべきなんだ。理由はわからないけれど。

もっともらしく言えることは、「答えは教わるものではなくて、自分で気付くものだから」ということ。

最後に、このセリフを記しておく。僕の好きな映画『ラ・マンチャの男』でドン・キホーテの従者サンチョ・パンサの台詞。うろ覚えだから若干間違っているかもしれないし、サンチョが言った言葉でもないかもしれない。

「花瓶と石ころがぶつかると、割れるのはいつも花瓶の方だ」

あなたが花瓶であるからこそ、あなたの書く文章に惹かれるのだと僕はそう思っている。





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