アドバイスは誰のため?

アドバイスって、する側が自分の立場を正当化できる角度から言いがちで、純粋に相手を思って論を展開することが多くない気がしている。

多分、相談をされた時点で少なくとも相談者からは持ちかけるに相応しい相手として認識されており、先達としての意見を求められていると自惚れた前提に立ってしまいがちだ。そもそもそこから間違えている。
それは相談ではなく説教の入り口だ。

自分にも過去に覚えがあるので深く反省しないとならないが、アドバイスを求められることって承認欲求を非常にくすぐられるからキモチェェ!のである。

いわば、「天の声」からのご意見賜りたい、と言われているように錯覚してしまうのだ。これは本当によくない。 実際、相談者が発する相談内容はその発言箇所だけを切り取って一般化できるものではなかったりする。

あらゆる事情の全てを汲み取ることは不可能ではあるけれど、少なくとも思い馳せる努力がなければ、父権主義の師匠とお弟子さんみたいになってしまう。

「いいか、お前はここがあかんねん。」などと言い切れるほど、果たして相談者の置かれた立場を汲み取りきれているだろうか。
自分は自分の前提があるから今の振る舞いができているに過ぎないわけで、相談者の前提なら自分も同じように悩みを抱え、思うように行動ができない可能性はないだろうか。

今の情弱ビジネスを仕切る発信者やインフルエンサーは、この前提となる相談者の文脈を一旦フルシカトして持論をかざす。
プレゼンターにとって、個別の事情は厄介なノイズだからであろう。その歯切れの良さが持て囃される風潮は、いかにも大衆煽動的で恐ろしい。

サービスの利便性やモノのクオリティは平準化される方がいいけれど、アドバイスは平準化できようはずがない。
人間、似たようなものかもしれないけど、トルストイの書くように「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」はずだ。

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