父親
「とーとー!!」
帰宅して家のドアを開けると、
2歳半の娘が駆け寄ってくる。
ぱすん、と膝にしがみついてくるその小さな衝撃と、ずり上げた顔に広がる好奇に溢れた笑顔、たった1秒足らずのその一連が僕の身体を通り抜けるだけで、すべてが(本当にすべてが)好転している確信が持てる。
3歳で父親を亡くしている僕にとって
「父親になる」ということは、概念としても、継続的な日常行為としても、得体の知れない挑戦だった。(誰かにとっての大きな挑戦というのは、世間にとっては取るに足らない小さな挑戦のことが多い)
つまるところ僕は、「良い父親」になりたいと強く願っていた。願っていたのだけれど、「ではあなたが父親です」という生活を上手に運べるのか?という自問に対してはもれなく怖気付いてしまうことに、中学生くらいの頃からかなり自覚的だった。チャント、チチオヤニ、ナレルノカナ、、、
そして、実際に父親になってみて分かったことは、
僕が娘の父親になるのではなくて、娘が僕を少しずつ父親にしてくれるのだ、ということだった。
ある日、ある時点で、「父親になりました」みたいな劇的な転換は、心象風景においてはどこにも用意されていなかった。男性は妊娠をしないから、「親になること」に体組成の変化が関連しない。以前も以後も、そのままの身体があり、大抵の場合はそのままの思考を携えて出生届の提出に至る。
代わりに、時間をかけてじっくりと湧き出てくるものがある。というか、僕の場合は、時間をかけないと形がしっかりと捉えられなかった。(僕は「父親になる」ということを、とても技術的な過程として空想してきてしまったから、そこには明確な日付があって、前後の境目があって、コツやスキルがあると思っていた。)
繰り返しになるけれど、僕が父親に変化したのではなく、娘が僕を父親にしてくれている。とても時間をかけて、少しずつ。
おそらく「親」というのは、とても(とても)大切な人を自分の人生に持つ人の総称であり、同時に仮称であり、血の繋がりで定義されるわけでも、役所に文書で認可されるものでもないように思う。
そして幼き頃の中野少年の「父親ってなに?」という自問に、現時点でのアンサーを送るとすれば
「父(母)親というのは『自分の命よりも大切な命が存在する人生を生きている人』のことを指すんだ、作法も正解もない、ただ一つ、それだけでいい、心配することなかれ。」
と伝えたい。
自分の命よりも大切な命が存在するならば、誰がなんと言おうと、あなたは父親を生きている。それは、生物学上の親子関係に限らないし、人間対人間だとも限らない。
そしていつだって子どもは、親が抱える愛情に、見向きも気付きもしない。きっと子どもは、自分の命がなによりも大切な人生を存分に謳歌するべきで、その先で、(運が良ければ)自分の命と同じくらい大切な人に出会い、(気が向いたら)自分の命よりも大切な人を育てることになる。
その意味で、僕は父親を亡くしたけれど、母親にしっかり育てられた。そして、何人かの大人たちが、自分の子供に注ぐような愛情を、少しずつ僕に分けてくれた。僕はそのことを覚えているし、出来れば忘れたくない。
夜にノートを書くと、ろくなことがない。
眠ろう。
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