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大鳥居の靴屋からたこ焼き屋へ - 巡巡 #002

母方の祖父には父親かって言うくらいお世話になりました。2014年に亡くなったことを母から電話で聞きました。最後に会ったのは、交わした言葉は何だったっけな。この先祖巡礼を始めて思うのが、亡くなった人に会いたい、会って話がしたい。生きてるうちに話しておかなきゃいけないことは、その時気づけなかったことなんです。

伊東の海風庭えびなにて(1983年)

祖父博俊は今の大田区蒲田に生まれ20代前半、浅草橋場で靴職人として働き始めました。その後祖母と2人、大田区に戻りラッキー靴店を開業。相当儲かったらしいです。それが僕が生まれる15年くらい前のことで、幼少期から店で博俊が「カッカッカッ!」と靴を修理しているのをよく見てました。時代も相まって80年代は相当良い時代だったそうで我が家も少しだけ羽振りが良かった。祖父博俊は美術品の収集癖があり今も博俊の家は物だらけ…。(それはまた今度紹介します)

母方の吉田家は靴屋、父方の鈴木家は溶接業と両方とも自営だったため、福利厚生の良い大きな会社勤めの人をいつも羨んでました。学校が終わると店のあった大鳥居へ、学校の友達よりも靴屋の近所の子達と遊んでることが多かった小学校時代。

大鳥居

中学に上がる頃、徐々に落ち込む靴屋の売上。そこで大勝負に。大鳥居にあった一店舗を潰し同じ場所をなぜか「たこ焼き屋」にします。大阪のチェーン店「大入」という業態でチャレンジします。始めた当時はかなり賑わいました。大鳥居にはSEGAの本社でがあったので働いてる人がよくたこ焼きを買いに来てくれました。

家に帰ってくる母は粉の匂い。夕食には残ったお好み焼き。寝る頃にはノートに店の勘定をする姿を覚えています。母が頭を悩ませる一方、祖父は残った靴屋で楽観的に過ごしていました。親の姿を見て自営は大変だと思った学生時代でした。

祖父と僕(飛行機にて)

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