道徳の教科化について

どーも。りょーたです。

今回は道徳の教科化について考えていきます。

なぜ道徳の教科化が進められたかの背景をまずは紹介していきます。

一つはいじめ問題があります。

いじめによって尊い命が立たれるという痛ましい事案が発生しています。加害者や、被害者、傍観者にもしないためにいじめは許されないという道徳教科のなかでしっかりと学んでいく必要がある。 

と平成28年11月の当時の文部科学省大臣が発言しています。

実際、僕が中学生だった頃は道徳は曖昧にやっていて、担当教諭の裁量にかなり委ねられている気がしました。

ここの部分を背景として存在していると思います。

教科化によって、教諭がカリキュラムや指定教科書を用いて道徳の授業を行うことが求められている気がします。

その教科としての内容などわからないことが多いですが、僕はぜひ、今の日本社会が抱える問題に少しでもコミットして欲しいと思います。

僕が考える道徳によってコミットできそうな現代社会の問題は、社会父性、損得勘定のない善悪の判断、恋愛、命、人生、時間についての考えを深めること、です。

自己啓発本にある内容ばかりですが、これらを子供たちに一斉に教える機会は教育しかありません。

ここで僕は思ったのは、道徳の専門教諭がいないことへの問題です。

これはよくある指摘ですが、

学校の先生は社会から一番遠いところで仕事をされている。

このような指摘が度々あります。僕も学生生活を振り返ってみると学校って社会と比べて特殊な環境であったな。と思うことが多くあります。

固定された人間関係、半強制的に集団へ従属することが求められる環境、スクールカーストと言われるマウントの取り合い、などなど。

その中で秩序やルールを守らせたり、全員をまとめていく役割をなさっている先生方はとてもすごい職業だと思います。

そんな先生方が社会の問題を解決する第一歩である道徳を生徒に教えることが最善であるのか。

そこが僕には疑問です。

道徳の学習指導要領を読むと、人間力を形成、発展させるための目標やその意義について書かれていた。

それを読んでいくと、かなり抽象的で先生方の裁量によるものであると感じた。

もちろん内容は、日本国民として最大公約的に定められているものであるからある程度の抽象性が備わってしまうのは仕方がない。

じゃあ、どのように現場の先生方は指導していくのか。そこが不透明です。

実際の現場を見て判断することかと思いますが、このままでは先生の負担が増えただけで、何も変わらないのではないか。そう思います。

僕はまず、政治家にこの指導要領通りの行動をしてもらいたいと思います。

長くまとまりのない文章ですがここまでにさせてもらいます。

では、また。おつー!

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