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のんべんだらりな駄文を書く

突然、神の啓示を受けたように「のんべんだらりとした駄文を毎日書く」という言葉が降ってきた。

毎日noteを書いているが、まさに「のんべんだらりとした駄文」の日々生産している。
ここまで駄文を書き続けるのも、ある意味、難しいはずだ。
普通、人は学ぶ。成長して役に立つことや共感することを書けるようになるが、そうはなっていない。

さて、この「のんべんだらり」という言葉。
どこで読んだのか、いつ覚えたのか、さっぱり覚えていない。

辞書にも載っている言葉が出てくるということは、過去、どこかで読み、わたしの脳みそのシナプスの何処かに「のんべんだらり」という言葉が記憶されていたことになる。

そう考えると、すごく不思議なものだ。
人間の神秘を感じる。
無意識の知識が、泉のように湧き出るのだから。

その源泉が必ずあるはずなのに、その源泉は記憶から失われてしまい「のんべんだらり」という言葉だけが残されている。

ある日、畑を掘っていたら、誰が書いたか分からない古い木簡がでてきたようなものだ。
誰が書いたのか分からないが、木簡に書かれた文章だけが、価値として科学される。
その古い木簡にロマンを感じてしまう。
なぜ、ここに放置されたか?
誰が何のために書いたのか?
妄想するだけで楽しくなってくる。

分かりにくいか。
良い例えではないが、わたしには、こうしたイメージがあった。

それにしても、そんな記憶の神秘を「のんべんだらり」という言葉で感じてしまうのが、自分らしくもあってなんだか可笑しい。

ときどき、不意にやってくる「なんで毎日書くんだろう?」という疑問。
「この神秘的な奇跡のために書いている」という屁理屈もひとつ有りなんだと自分をなだめる。

いや、ほんと。
少しは役立つ文章というものを考えた方が良いのではないか。

まぁ、身の丈に合わないことをしても続かないけど、ちょっと背伸びはしたいと思ったりもする。

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