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自分とは

自分とは
どうも、Яくんです。
突然ですが、皆さんはちゃんと生きていますか?
自分の存在って、誰が証明してくれるんでしょうか。
自分って、生きてるんでしょうか。
自分って、一体何なんでしょうか。
今回はこんな感じの疑問を、僕自身の話を絡めながら紐解いていこうと思います。
以前に取ったアンケート結果に基づいて、「障害と人格」についても触れたいと思います。

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自分の存在意義とは、なんだろうか。

この疑問が最初に浮かんだのは、小学4年生のときだった。この頃から僕はいじめられていた。クラス全員から、というような大仰なものではなく、複数人の男子生徒にリンチされるようなものだった。トイレに連れ込まれて殴る蹴るの繰り返しだった。校庭で転ばされてサッカー部の奴にスパイクで何度も腹を蹴られて血を吐いたこともあった。

このとき初めて、人生ではっきりと"死にたい"と感じた。

自分はなぜ生きているのだろう。
なぜこんな思いをしてまで生に縋りついているのだろう。
何も悪いことはしていないのになぜ暴力を振るわれるのだろう。

なぜ、なぜ、なぜ。
必死に自問を繰り返したが、何も解決はしなかった。

解決に繋がったのは、先程話した腹部の怪我を親に心配されたことがきっかけだった。
そこからはトントン拍子だった。
つらい思いを全て親に吐き出し、学校の教師に伝わり、指導がいった。

しかし、一度"死"のことを考えてしまうと、同時に"生"に疑問を持ってしまうのだ。

なぜ生きているのだろう。
僕の存在意義は何なのだろう。

まだ小学生だった僕はそれ以上の考えは出て来ず、疑問を抱えたまま中学生となった。

中学生ともなると、だんだんと思考が成熟してくる。大人の思考、とまではいかないが、それなりに考えが深められるようになる。青年期への突入である。
中学生の僕はお調子者、時には暴力を振るう人間であった。感情の起伏はあったが、怒りやハイテンションという単純なものであった。
しかしながら、小学生のときに抱いた疑問は胸の内にずっと秘めていた。時々ひとりで考えたりもしていたが、相変わらず答えは出せないままだった。

そして高校生になり、より深い思考をするようになった。周りの環境もあり、"大人"へと近づいた時期だったと思う。暴力的な感情はだいぶ減ってはいたが、たまに出ることはあった。
この時期は"生"に対する疑問よりも、"死"について考えることが多かった。自殺未遂をしたのもこの時期である。

人間の"死"はどういうものなのだろうか。
死んだ後はどうなるのだろうか。
"死"はいけないことなのだろうか。

正解のない問いである。
自分なりになんとなくのイメージはこの時期にできていたのかもしれない。

そして大学生。
さらに深い思考ができるようになっただけではなく、周りの人間の思考の深さに驚愕した。そこまで考えるのか、というような思考を持つ人間がゴロゴロといたのだ。
しかし僕自身はこの上なく丸い性格になり、入学から9月まで怒りという感情を抱いたことが一切なかった。自分でも驚くほど丸くなったのである。その原因は精神的な成長とバイトによる社会経験だと考えている。

事の転機は10月である。
以前の記事を読んでくれた人はわかるだろうが、大祭前あたりから精神を病み始めていた。そこから今までの間に緊張性頭痛、神経性胃炎、単極性うつ病、そして境界性パーソナリティ障害を発症した。境界性パーソナリティ障害については経過観察だが、疑いがある、ということで挙げた。
境界性パーソナリティ障害というのは、簡単に言うと様々な感情が短時間で切り替わり、自傷行為、自殺行為などを繰り返すものだ。様々な感情と言っても病みや怒り、悲しみだけではなく、冷静なときもある。感情の切り替わりは数分単位であることもままある。

日々の僕のツイートや記事を読んでくれている人はわかるかもしれないが、僕は最近とてつもないストレスを抱えていた。これは今もなお続いている。
そしてここでなんとかしようともがいた結果、そのストレスを切り替わった感情ごとに押し込めてしまおう、という方法に至った。わかりやすく言うために簡潔に言うが、そんなに上手くはできていない。

どういうことかというと、多重人格であるわけではないが、まず感情ごとに自分の中で人格を定める。(以下語弊が無いように"感情人格"と呼ぶ)そしてその感情人格をなるべく自分でコントロールして意識的に切り替えられるようにする。イメージで言うと、引き出しがたくさんある大きなタンスのようなものだ。それぞれの感情ごとに引き出しは異なる。
もし何か大きなストレスを含有した悩みが生まれたとしたら、その悩みに対してひとつの感情人格で考えるのではなく、複数の感情人格を用いて対処するのだ。こうすることで、感情人格を潰さずに済むのだ。

しかしここには障害もあり、たまにとてつもない混乱が頭に渦巻くほか、どの感情人格がどういった考えをしているのかまとめることができないのだ。このせいで言っていることが時によって矛盾していたり理不尽だったりすることが多くなった。


何を言っているんだ、頭がおかしいのではないかと思った人はここで読むのをやめてもらって構わない。
この先は"死"について考察していこうと思う。


「人はいつか死ぬ。」
これは誰しもが理解しているが、実感している人は少ないのではないだろうか。

僕は自傷行為を繰り返している。
そしてそれは"感情人格を殺す"ことだと思っている。
自傷行為をすると、感情人格は死ぬ。しかし、その感情がなくなるわけではなく、リセットされて新たに生み出される感覚だ。
自傷行為をして楽になるというのは、僕の中ではこのイメージなのだ。

僕は自分自身を何度も繰り返し殺している。
これは自分の心の中で、ということだ。
そしていつか、僕は自殺しようと思う。


自分とはなんだろうか。
それはとても難しい問いだ。
自分というひとりの人格の中には様々な感情が存在し、それらがあることで人格が形成されている。
自分というものは、抜け殻である。
中に感情を詰め込んで"存在"ができあがる。
そして自分という存在はなんとも脆いものだ。
認知していないところで感情が崩れていることもある。気づいたところで心は耐えきれなくなってしまっている。
自分というのはそのようなものだと思う。


いかがだっただろうか。
正解のない問い、これに対する考えは人それぞれであり、無限の意見があるだろう。

自分というひとりの人格、そして様々な感情が自分という存在を形成している。
これが、僕なりのひとつの考えだ。

みなさんはぜひ、自分という存在を見つめながら人生を歩み、思考によって実りある豊かなものにして欲しい。


終わり。

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