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僕が自殺する話

僕が自殺する話
どうも、Яくんです。
もう秋も過ぎ去り、冬に差し掛かって来ましたね。
この時期になってくると、ネガティブな思考がぽつぽつと浮かんできます。日常、恋愛、人生、etc…。全てに悲観的になり、嫌気が差してきます。けどこんなときこそ明るく頑張っていきましょう。

と言いつつ、今回の記事は恐らく過去最高に闇が深く、かつ陰鬱な雰囲気の記事になります。
もし暗い話が嫌な方はここでサイトを閉じてくださいね。

ではいってみよう。

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12月上旬の話である。
僕は自殺することを決意した。
しかし、僕が考えたのはその場ですぐ自殺するのではなく、1月下旬頃に自殺しようという"予定"を立てたのだ。
そして、そのための準備段階を計画した。
これは今でも変わっていない。
変化したことといえば、自殺する日を少し遅くすることにした程度だ。
来年の年末を生きて迎えることはできるのだろうか。楽しみである。

自殺の方法として選んだのは、最終的には首吊りだ。
なぜ首吊りかというと、ほぼ確実に死に至れるからだ。飛び降りで脊髄損傷などと中途半端に終わり、全身麻痺で生きることになるなんて嫌である。縄を括って首にかけて終わりというなんともシンプルな方法だ。とても良い。

恐らく多くの人が気になっているのは、「なぜ自殺するのか」ということであろう。
答えは簡単である。「生きるのが嫌になったから」だ。死ぬのは別に怖くはない。むしろ楽しみで仕方ない。人間はいつか死ぬ存在なのだから、そのときが少し早くなっただけだ。

よく「残された人のことも考えろ」という偽善者がいるが、死んだら関係ないのだから知らん。これに尽きる。
僕自身、過去に友達を亡くしたことが2回あるが、どちらもとても悲しかった。涙が枯れるまで泣きまくった。しかし、今となってはどうだろうか。確かに友達を亡くしたことは悲しいが、その友達との楽しかった思い出で美化されてしまっている。
恐らく、僕が死んだ後は一部の人間の頭の片隅に置かれ、数少ない美化された思い出だけが残るのだろう。"思い出があれば"の話だが。

所詮僕の命はその程度である。
こんな命が無くなったところで何も変わりはしない。それでいいのだ。
僕の死によって何かを変えたいとも、変わって欲しいとも思ってはいない。むしろ何も変わらずにいてほしい。それが小さな願いだ。


人間の弱さ、それは『感情』だ。
恐怖、悲しみ、憎しみ、喜び、憂い、…。
これらは良い言い方をすれば"人間らしさ"だが、僕からしたら"生の障害"だ。
感情のせいでどれほど心が乱されただろう。

人間は思考を持つ生き物だ。
これはとても厄介である。
人に見えないところで何をしているかまるでわからない。隠れて何をしているか知ることはできない。何を考えているのか知ることはできないのだ。
そしてこれは他人だけでなく自分にも言える。
考えたくないことも考えてしまうのだ。一度考え出したら止まらない。考えたくないのに思考だけが勝手に進んでいく。その度につらい思いを味わうのだ。


死ぬことで"感情"も"思考"も放棄することができる。
全てから解放されるのだ。
これで楽になれる。


精一杯生きよう。
いつか、この命が終わるときまで。


終わり。

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