《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》

 テレビシリーズからここまで観て、やっと1995年から1997年の庵野秀明がエヴァンゲリオンシリーズで何をしようとしていたのかが見えてくる。

 テレビシリーズではほとんどただの符丁でしかなかった“人類補完計画”は、ATフィールド=心の壁によって中途半端な個体であるしかなく、孤独を抱え込むしかない現生人類を、単体の生命、ハイブマインド、肉体的にも精神的にも輪郭を喪い、溶け合った集合的な生命に還元する計画であることが明かされる。(“できそこないの群体としてすでに行きづまった人類を、完全な単体としての生物へと人工進化させる補完計画。”)

 他者からの承認を強烈に求めながら同時に傷つくことを恐れて他者を拒絶するシンジが、「逃げちゃだめだ」と言いつつ余りに非情な現実から逃げ続けてきた彼が、本当には他者とどう向き合うのか、が最後に突きつけられる(レヴィナス的な問い)。

(“ホントに他人を好きになった事ないのよ!/自分しかここにいないのよっ!/その自分も好きだって感じたことないのよっ!”)

(“誰もわかってくれないんだ”
“何も分かっていなかったのね”
“イヤな事が何もない、揺らぎのない世界だと思っていたのに”
“他人も自分と同じだと、一人で思い込んでいたのね”)

 同時にその問いは、閉じた虚構の世界に物語的充実や恋愛感情や萌えといった欲望を向け、自分とは異なる輪郭を持った他者との触れ合いから逃避しているようなアニメファンたち、リアルタイムでそれを観ている観客にも向けられる。アニメーションが臨界に達したとき、実写映像が差し込まれる。アニメで構築された画から、急に街の風景のなかへ引きずり出され、劇場の観客たちをすら見せられる。メタ認知を強要される。
 (《式日》を観れば、逃避への批判は何よりも庵野自身へ向けられていることが解る。自らに返ってこないような批判はすべて中途半端であり、嘘の皮でしかない。この批判を突き付けられているにもかかわらず、「エヴァ芸人」みたいな番組が成り立つのは、まさに“動物化するポストモダン”という感じだ)

(“都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね”
“いけないのか?”
“虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね”
“僕一人の夢を見ちゃいけないのか?”
“それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ”
“じゃあ、僕の夢はどこ?”
“それは、現実の続き”
“僕の、現実はどこ?”
“それは、夢の終わりよ”)

 母親と重ねられるレイ、保護者であり恋人でもあるようなミサト、女性たちがシンジにとっての他者の象徴として描かれる。そしてもう一人の主人公、母親との関係から他者へのダブルバインドを抱え込んだ、実はシンジに最も似ているアスカが、最後の台詞にいたるまでその代表となる。アスカの戦闘シーンはこの映画の白眉と言っていい。単なるロボットではなく、有機的生命としての性格を与えられたエヴァンゲリオン同士の戦いは、神話的で原始的な暴力をのぞかせる。噴き出す血。鳥葬。

 シンジは1997年、「気持ちワルイ」と言われる他者がいる世界を選んだ。
 エヴァンゲリオンが放映開始された1995年は阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件があり、沖縄米兵少女暴行事件があり、Windows95が発売された年だった。
 たとえば上田岳弘はインターネットが全面化した今、人類はむしろ個の輪郭を維持することをやめ、補完される方向へ進む、と言っているように見える。文明とはなにか。成熟とはなにか。僕らは他者とどう向き合えばよいのか。

 そして庵野秀明は2007年からエヴァンゲリオンを造り直すことになる。

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