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支援者がそこに「居る」と「在る」の違いの気づき

こんばんは!
ダウン症に特化した小児リハビリをしている理学療法士の胡崎亮介です。
4児の父親で、次男がダウン症(小学校3年生)理学療法士という、リハビリの仕事をしています。
ダウン症に特化した訪問看護ステーション
ダウン症に特化したオンライン講座
を大阪府で運営しています。


Noteでは、ダウン症に関すること育児に関することリハビリや、仕事に関することをゆっくり投稿していこうと思います。


今回のテーマは
「支援者として感じる事」
の内容で、お話させて頂きます。


子どものリハビリに関わる仕事をしている中
支援者としてすごく大事なことに
気づいたことがあります。

ただこの内容、僕自身も言語化するのが難しくて
え?ちょっと何言ってんのかわからんで?
という内容でもあると思いますので、ご興味のある方は、優しい目で先へ進んでくださいね。


内容にテーマをつけるとしたら

「支援者はそこに【いる】と【ある】の違い」

【いる】というのは【居る】ということで、子どもの世界の中に支援者が入ってきている。そんな状態。

【ある】というのは【在る】ということで、子どもの世界の中に、存在している、あるいは調和している状態というイメージです。

これはどういうことかと。

子どものリハビリって、大人が関わるんです。
って当たり前の事なんですが
そして関わる大人には、それまでの色んな価値観やその人なりの常識が備わっていると思います。

それはその人のこれまでの経験であり、人生観であり、リハビリ論みたいなものでもあります。

当然「プロ」である以上、リハビリ論というのは大切ですが、それを作っているのが、大人の価値観であるところに気づきがあります。

話を戻し「居る」と「在る」について

小児へのリハビリをしていて、自分(支援者)が子どもと居るという状況の時、そこに大人の思いが働きます。

「こんな動きをしてほしい」
「こんな提案を受け入れてほしい」

そうして関わっていると、子どもとの波長が合えば、時間が調和する時もあれば
子どもの気持ちがのらない時は、その世界の中に異物が居るということにもなります。

リハビリをするという目的なので、仕方のない所はあると思います。

では、自分(支援者)がそこに在るというのは
子どもと自分(支援者)がそこに在る時、その感覚って、何とも言えないリズムや波長が合った状態で、子どもの時間軸の中に自分がいるような感覚になります。

そんな在る時は、リハビリが思った通りにならなくても、これが出来なかくてダメだねー。とか、失敗したっていう認識にはならず、ただただ、目の前にそんな事実がおきたってだけに感じます。

この両者の感じの違いって、すごく大きいことだなと最近感じるんです。

この居ると在るを分けてるものは何か?
書き出すとキリがないのですが
まずは自分(支援者)が、○○らしくあろう!
という気持ちをやめることかなと思います。

この○○には
安心してもらえる人 とか
頼られる人 とか
真面目な人 みたいな

要はこういうのは全部、自分(支援者)にベクトルが向いたものです。
それが邪魔な味付けをし、そこに信頼という絶対的な安心感が生まれにくくなってるんじゃないかと思います。

この子どもの感じる絶対的な安心って

「僕はこんな経験をしてきた専門家だよ」とか
「こんなテクニックを学んできたよ」

なんてことは、1ミリも考慮されないのです。
だって、そんなことは子どもからしたら何の関係もないことなので。



リハビリをする上で、意図をもって取り組む事は大切だと思います。
でも、こうした自分に向いたベクトルが含まれていると、少しの違いですが噛み合わなくなるんだなと感じます。

この可視化できない感覚のようなところですが
まだまだ自分もこういう気づきをもって
実行できるようにレベルアップしていきたいなぁと、そんな事を思う最近でした。

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