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5/6②「直観に従って物事を為すこと」

エニアグラムという性格診断のツールにおいて、俺が自認しているタイプの解説(△1-4-6)に、

直観に従って物事を為すこと、他の人々を信頼して一緒に物事を為すことを学ぶ必要があります。

という記述がある。

また、別のサイトにおいては、

知的で文明的であることは人間存在の核心ではない、と気付くことが成長の鍵

という記述がある。

自分を分類することにどれだけの意味や価値があるのか、という疑問もあるが、今回はそれは置いておく。

これらの文章が今の自分にとって何かとても大事なことのように思えるので、考えていく。


二つ目の文章は、「人間存在の核心に気付け!」と読める。人間存在の核心とはなんだろう。

「人の間」と書いて、人間、なんてことは、よく言われることだ。人の間にあるものとして存在すること、その核心。

愛や信頼、なんて言葉が一番に思い浮かぶ。だけどこれらは、自分の中から出てきた言葉じゃない。どっかで聞いてきたことを、なぞっているだけだ。

自分の中から答えを出さなければならない。人間存在の核心とは何か。


さて、一つ目の文章においては、「直観」「信頼」という二つのキーワードが登場する。

なんだかこれらも、「人間存在の核心とは何か?」という問いの答えとして、一般的には大きく間違いがない言葉にも思える。

だけど、それはやっぱり、自分の言葉じゃないからダメな気がする。


それにしても、直観という概念は、これまでの人生において、何度か強く意識させられることがあった。

それこそ、「知的」な文脈では説明のつかないような、閃き、一筋の洞察、なんの根拠もないのに、正しいと思えてならないこと、というのが、自分の中に現れるのだ。

それは、好きな女の育った家庭環境についての洞察だったり、自分のこれまでの人生を振り返っての、意味の見通しであったりする。

なんだかこれが、今の俺の「人間存在の核心とは何か?」という問いへの最良の答えのようにも思えてきた。


「他の人々を信頼して、一緒に物事を為す」ということについても、随分と経験的な心当たりがある。

これまでの人生において、大きな変化や成長と感じられる出来事をピックアップした時に、その時や、その直前あたりに、勇気を出して、他に人を信頼した、ということがあることが多いように思える。

不登校から復活したのは、担任や仲間を信頼して、自分の苦悩や葛藤を打ち明けた時だった。童貞を卒業したのは、遠くに下宿する友達を頼って、実家から避難して行った時だった。


逆に、それができない時を考えると、それはまさに「知的で文明的であること」に、に「逃避している」時であるように思う。

どうしてもインテリぶって、自分を守ろうとしてしまう悪癖がある。わざわざ解説に書いていただいてるぐらいだから、ある程度は仕方のないことなのかもしれない。

とはいえ、文章という形で自覚し、念頭に置いておくことは、気付くまでの時間を早める。この文章を書いた人の知性を頼ってみようと思う。


二つ目の文章にある「人間存在の核心」とは何かという問いについて、今は自分の言葉で言語化できそうにない。

一つ目の、「直観に従って物事を為す」「他の人を信頼して一緒に物事を為す」というのは、経験的に自分には大事なことに思えるので、一つの指針にしていきたい。


それと、エニアグラムというツールそのものについての記事も今度書きたい。

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