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私がJR九州を辞めてまでクラブチームの監督になった理由

自己紹介で、私がJR九州を辞めてまでクラブチームの監督になった理由を別で書きたいと記したとおり、今回はそのことを書いていこうと思います。


●志

私は、クラブチームの監督になる前に、手帳の最初に書いた「志」があります。

「野球を通して、日本をより良い国にしたい」

これが私の志です。


書いていた文章がありましたが、少し誤解を招きそうな表現があるので、そのまま書くことはせず、今の自分でかみ砕いてその時の想いを書いてみます。

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野球選手はもっと、社会貢献活動やスポーツの普及活動に関わるべきだと思っている。
一流のプロ野球選手がもっと積極的に行うことで、未来の野球選手がその姿を追いかける。
そうなれば野球というスポーツはもっと盛んになると思うし、社会的にももっと必要とされるようになると思う。

一流の選手の中には、成金のような姿を見せて自慢だけしている人もいる。
それを見て新人選手が、契約金を使って身の丈に合わない高級車を買ったりしている姿もよく見る。

プロ野球を夢見る青少年がそれを見て、野球選手になりたいと思ったとして、まともな大人に育つのだろうか?

本当のヒーローだろうか?

本当のヒーローは、青少年に明るい未来を与える人であり、周りの人を幸せにできる人だと思う。

これから関わっていくアマチュア野球界は問題が山積みで、未来が明るいかと聞かれたら
自信をもってイエスとは言えない状況だと思う。

そして今の日本も同じで、自分が生まれて今まで日本の未来に対する暗いニュースが多い。

せめて自分の子供たちが大人になるときには、明るい日本であってほしい。

今の自分にできることは、大好きな野球を通して少しでも子供たちに明るい日本の未来を残したい。

そして、クラブチームと企業チームを両方経験した珍しい経歴を持つ自分に与えられた役割は、この社会人野球界の裾野を広げ、野球を続けたいという選手が少しでも長くプレーできるようにしていくことだと思っている。
今まで見つけられなかった才能は、間違いなくあると思っている。
裾野を広げることで、才能も見つけることができるのではないかと思っている。


政治家でもないし、有名人でもないし、プロ野球選手でもないけれど、自分の目の前から少しづつ信念をもって取り組んでいけば、きっと社会に貢献できるんではないかと思っている。

そしていつか、自分のチームから羽ばたいた選手が、一流のプロ野球選手になり、本当の意味でのヒーローになってほしいと思っている。

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壮大すぎる志だなと自分でも思います。

そして、今年で監督になって、5年目を迎えて色んな現実も突き付けられました。ですが、この監督になった時の志は今も持ち続けています。

この志を見失った時は、自分は辞めるべきだと思っています。


●なぜ社会人野球か、なぜクラブチームか

理由はたくさんありますが、大きな理由は2つあります。
・自分の経歴
・バブル崩壊後の企業スポーツの衰退


・自分の経歴
 まず、1つ目の経歴についてですが、最初の自己紹介で書いている通り、私は高校は控えで、大学は途中退部ながらクラブチームがあったことで、企業チームにまで行くことが出来ました。そして、クラブチームと言っても企業が後ろ盾にあり、誰もが入れるわけではないチームも沢山ありますが、私が入った嘉麻市バーニングヒーローズは、誰でも入ることのできる、任意型のクラブチームでした。

 恐らく殆どの方が、高校は控えの選手で大学を途中退部している選手は、その時点で野球選手としてのキャリアは終わりだと考えると思います。しかし、実際にはクラブチームという受け皿があることで、そこから這い上がる道もあるという事です。

殆ど知られていないかもしれないですが、こんな道もあるんだよという事を、もっと広げていかないといけないと思っています。

そして他にも自分がすべきことは、任意型のクラブから毎年都市対抗野球大会に出るような企業に移籍し、両方を知っているからこそわかるクラブの課題、社会人野球界の課題を少しでも解決していく事だと思いました。

 

・バブル崩壊後の企業スポーツの衰退
 そして2つ目の企業スポーツの衰退についてですが、社会人野球の企業チームについても、昭和の最盛期には237チームの企業チームがあり、バブル崩壊前にも150ほどの企業チームがありましたが、平成15年以降は90前後まで減っています。
逆にクラブチームは、一番少なかった時には76チームでしたが、現在では250チームほどになっています。

しかし、都市対抗野球大会に出るのはほとんどが90の企業チームからです。ここ3年に限っても都市対抗に出ているのは、50チームちょっとです。つまり、ほとんど競争が生まれていないということだと思います。

競争力の低い競技が衰退することは目に見えています。将来の野球界のことを考えると、このような構造は変えていかないといけないと思います。

私は、クラブチームが企業チームを少しでも脅かすような力をつければ、もっといい社会人野球になるのではないかと考えています。そして同時に、クラブチームも「できる努力」をすれば、お金がなくても、環境的に恵まれていなくても、強豪企業チームに勝つぐらいのチームは作れると信じています。

JR九州が一時期かなり強かったのは、環境的に恵まれていたからでもなく、選手が凄かったからでもなく(もちろん凄かったですが、強かったのはそれ以外に理由があります)、できることを当たり前にやる組織だったからだと思います。

まずは嘉麻市バーニングヒーローズを強い組織にして、それを証明できればいいなと考えていますし、選手の中から将来の指導者が沢山生まれて、社会人野球界でクラブ旋風を巻き起こせるぐらいのエネルギーになればいいなと思っています。

●最後に

会社を辞める前に、いろんな人に相談して「20年後に自分が会社で偉くなってからでいいのではないか?」とか、「少年野球でいいのではないか?」というアドバイスもいただきましたが、20年後には社会人野球が更に衰退しているかもしれませんし、20年もあれば時代は大きく変化するので、できるだけ早くやりたいと思いました。

少年野球の現状については、私以外の人でもよく知る人がいるでしょうし、社会人クラブのアンダー世代で少年野球チームを運営することも考えているので、会社に残って少年野球の指導者をやるよりは、社会人クラブを運営した上で、下の世代に踏み込んで行きたいと考えました。

それに、どれも会社に残る理由にならないというか、「他の会社に行って活躍すればいいし、普通に生活できれば問題ないし、別にJR九州に残る理由にはならないんじゃないか?」とも思いました。

読んでいる方は「そもそもなぜJRを辞めないといけなかったの?」と思うかもしれません。

理由は、監督になる嘉麻市バーニングヒーローズが、同じ地区のJR九州から見たら敵のチームだからです。

会社には、野球を通して採用していただきました。
引退してそのまま会社で働きながら、敵チームで監督はできないということが理由です。

今の社会人野球界は、移籍に関して凄くネガティブです。

私も色々と言われながら、嘉麻に戻る形になりました。

サッカー界は、移籍が盛んに行われていますし、レンタル移籍のような制度もあり、人材の流れが活発な気がします。

野球界はそれに比べると閉鎖的だなと感じます。

悪いことだとは思いませんが、今の社会人野球界は、一度入ったチームは引退まで残ってやるべきだという雰囲気はあります。

ですので、引退した身とはいえ、元居たクラブチームに戻ることは、物凄くエネルギーの要ることでした。

しかし、悔いが残らない選択は何かと考えた時に、今のチームに戻る選択をすることになりました。

今でも全く悔いはありません。

そして、新しい出会いや全く違う世界が今はあり、苦しい事や壁も沢山ありますが、なんとか楽しめています。

そして、この選択をする時に最も思ったことは「家族の理解無くしてこの選択はあり得なかった」という事です。

JR九州という大きな会社を辞めて、前のクラブチームの監督になりたいと話した時に、家族は理解してくれました。

恐らく、びっくりしたと思いますし、普通だったら大反対されて、諦めざるおえないと思います。

「亮君なら大丈夫じゃない?」と妻が言ってくれなければ、自分は今のように監督は出来ていないと思うと、感謝してもしきれないと思っています。

今後も、しっかりと働き、家庭の事も妻と協力し合い、野球は限られた時間の中で全力でやり切りたいと思います。

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