革命的政治改革 「平成維新」

      「平成維新」 革命的政治改革前夜          
                            思苑 良

 それは、女子高生の新聞への投稿から始まった。

 「国政選挙は、なぜ民意を反映出来ないのでしょうか」

   高校生  東京    平山 美加
 選挙で、国民の代表として選ばれたはずの国会議員が提出する法案の成立に、違和感を覚える人が多いのは、なぜなのでしょう。私はその事について悩み考えました。そしてある事に気がつきました。「選挙で選出された国会議員は、国民、少なくとも有権者の過半数の代表ではない」という事に。選挙区で絶大な人気を誇る現職の総理大臣でさえ、投票率六〇%だった前回の衆議院選挙で獲得した票は六〇%でした。一見、過半数の票を獲得したように見えますが、単純に投票率かける得票率を計算すると、有権者の三六%の票を獲得したのにすぎません。このように、多数決が原則の民主主義で、有権者の、過半数の支持を得ていない人達が代表として政治を決めているのだから、違和感を覚えるのは当然なのだと。   
では、選挙で真の国民の代表を選ぶのにはどうすれば良いのでしょうか。    
私は、次のような選挙制度改革を提案します。

一 選挙区の立候補者の名前が書かれた投票紙の最後に、「選ぶべき候補者がいない」、という欄を新たに設ける
一 「選ぶべき候補者がいない」、という欄への投票数が、投票者数の過半数に達した時は、その選挙区は、当選者なしとする

 私は、たったこの二点の選挙制度改革で、「真の国民の代表を選ぶ選挙」が実現できると信じます。

 全国紙の朝刊の片隅に掲載された、一女子高生のこの投稿が、政党政治の在り方を根本から変えてしまうとは、この時点では誰も予想できなかった

 平成二十X年夏、国会議事堂正門前の大通りは、安保関連法案に反対する人々で埋め尽され、「集会のための広場」となっていた。
議事堂の周りは、安保関連法案成立に反対する声が怒号となり渦巻き、弱々しく鳴く蝉達の鳴き声をかき消していた。
 ラップのリズムに合わせて、口々に法案成立反対を訴える学生の集団。お互いにスクラムを組み、ヘルメットにゲバ棒といった、かつての学生運動とは一線を画した、穏やかな抗議行動だった。彼らの大多数は、「ゆとり教育」が産んだ「ゆとり世代」と呼ばれる人達だった。それまでの「詰め込み教育」の反省として、二〇〇二年、教育改革の目玉として、「ゆとり教育」が本格的に始まった。義務教育を始めとして、公立学校の完全週休二日制が実施された。「休みを増やすことで、家族と過ごす時間が増やすことができ、部活などの課外教育も盛んになる。」という触れ込みで始まったが、実際は、子供達の休みの日の時間の多くは、塾や予備校に通う事に費やされた。公務員や大企業は完全週休二日制をほぼ実施することができたが、働く人の大多数をしめる中小企業や、町の小規模小売店、魚屋、八百屋、スーパーなどで、週休二日の恩恵にあずかれたところは皆無だった。学校の完全週休二日の恩恵を最大限に受けることができたのは、学ぶ側の生徒ではなく、教える側の教員だった。「ゆとり教育」の愚かさをいち早く見抜いた富裕層は、子供の教育の場を公立から私立へ移していった。中高一貫校に移行する私学が増えていった。
「ゆとり世代」は、明らかに、「中教審」の主要メンバーだった、国際感覚の欠如した「知識人」と呼ばれる人達や、考える事を役人任せにすることに慣れきった「政治家」と呼ばれる人達によって、創りだされた、犠牲者だった。
普段、自分の意思をあまり主張することのないといわれてきた「ゆとり世代」が、ここでは確かに集団の中心にいた。
 子育てに追われて忙しいはずの、若い母親世代の集団も多く見受けられた。一見、政治とは縁遠いと思われていた彼女らは、母親だけが持つ母性という、何より増して優先する本能で、「安保関連法案」の危なさを感じとっていた。
自分の体の中で大切に育み産んだわが子を将来、生死のかかる危険な目に絶対遭わせたくない。わが子のためには、自分の命さえも容易に投げ出す母性が、彼女らの団結を一層鞏固なものにしていた。
 週末の日曜日だったためか、働く世代の男達の姿は、驚くほど少なかった。
 今まで、この手の抗議行動には、ほとんど見られなかった老人達の姿が目についた。老人達の半数近くは、孫と思われる若者に車椅子を押され、静かにデモに加わっていた。その静かな佇まいとは対照的に、その瞳は強い意志で輝いていた。老人達の全てが、先の戦争の経験者・被害者だった。
 まだあどけなさの残った、軍服姿の凛々しい少年の写真を、しっかりと胸に抱いた「老婆」がいた。モノクロの写真はセピア色になり、過ぎ去った時間が決して短くないことを示していた。木陰で、孫と思しき若い女性と暑さをしのぐその「老婆」には、かつて息子が一人いた。夫は子供の顔を見ることもなく、生まれる前の年に、既に戦死していた。夫の忘れ形見の一人息子は、召集令状という「たった一枚の赤い紙切れ」で呼び出され、戦地に駆り出されていった。帰りを待ちわびる「老婆」の許に、息子の戦死の知らせが届いたのは、終戦のわずか一カ月前の事だった。「老婆」は、白い布で覆われた小さな箱を受け取った。箱の中には、息子が戦死した場所が書かれた一片の紙切れと、小さな石が一つ入っていただけだった。紙切れにカタカナで書かれた土地の名は、「老婆」が今までに聞いたことのもない響きを持っていた。「老婆」は泣かなかった。いや、泣けなかった。掌の石は、「老婆」に息子の死を納得させるにはあまりにも小さく軽かった。「老婆」にとって、出征前に撮った一枚の写真だけが、息子の確かな想い出だった。「老婆」はその写真を、自分をいつも見ていてくれるように、茶の間の小壁に飾った。次第に色褪せていく写真とは裏腹に、年を追う毎に老いが、一層息子の想い出を、鮮やかにするように思えた。息子と過ごした時間よりも遥かに長い時間が過去っていったが、時間は「老婆」の哀しみを癒す事はできなかった。「老婆」を、今日この集会に向かわせたのは、「今の人達に二度と同じ思いを味あわせたくない。それが、年々少なくなっていく戦争経験者の務めだ。」という勁よい意思からだった。
 様々な思いを呑み込んで、十二万人の抗議の声は、確かな、そして大きな流れとなり、渦を巻き、国会議事堂の門を超え拡がっていった。しかし、同じ国の人とは思えない、固い、無表情を装った警備の警官に守られた議事堂の扉は、固く閉ざされ、彼らに開かれることはなかった。

 「賛成多数で、安保関連法案は可決いたしました」
 つとめて平静を装った、衆議院議長の乾いた声が、本会議場の野党のヤジを無視するように飛越え、一斉に起ち上がった与党議員の拍手に包まれた。その瞬間、国会議事堂を取囲んだ学生から、悲鳴とも落胆のため息ともつかない悲痛な声が、一斉に湧きあがった。彼らは、スマホや携帯電話で国会中継を注視していた。その悲痛な声は次第に拡がりをみせ、国会議事堂を包み込んだ。
 与党自らが国会に招致した三人の憲法学者が、いずれも「集団的自衛権は憲法違反である」と、明確に意見を述べたのにも関わらず法案は、与党の安定多数によって、民意を踏みにじるかたちで成立した。
 学生達の落胆する姿を目にした、息子の写真を胸に抱きしめた老婆の瞳から、一筋の涙が写真の上に零れ落ちた。それはあたかも、軍服姿の写真の少年が、泣いているように見えた。
 国会議事堂脇の憲政記念館の時計塔のチャイムが、弱々しく鳴く蝉の声に、消されるように時を告げていた。
 今回も、国会に国民の声、民意は届かなかった。否、声は十分に届いているはずだった。
しかし、この国の国会議員は、与党野党を問わず一様に、国民の声を聴き取る聴力を失っていた。「一候補者」のときは、ひたすら意味もなく頭を下げ、自分の名前を連呼し、有権者に投票を「お願いする立場」で在った人が、一旦当選し、「議員」となった瞬間から「先生」と呼ばれ、「お願いされる」「お願いを聞いてやる」立場に容易に変貌した。この現象は初めて当選した議員よりも、当選をかさね、三期目の議員に最も顕著に現れたが、困ったことに、この手の聴力の衰えは、当選回数を重ねる毎に着実に、議員を蝕んでいった。全く本人の自覚なしに。この事は、「公僕」であるはずの高級官僚も同様だった。たった一度の試験に合格し、「高級官僚」と周りから呼ばれるように成った瞬間、「公僕」から、「国民に許可を与える」「主人」に変貌した。あたかも、毛虫が蛹に成り、殻を纏いその姿を隠すように。高級官僚が、政党の要請や自らの意思で、易々と政治家に転身するのは、この国では、あまりにもありふれた光景だった。

 「白髪の老人の場合」
 「あの時もそうだった。あれから何も変わっていない」
 ソファーに腰を深く掛け、小さなテレビで国会中継を見ていた「白髪の老人」が、何か汚い物を目にした時のように、吐き捨てるように呟いた。小さな画面の中で繰り広げられる光景が、「白髪の老人」の苦い思い出を呼び起こしていたのだった。
 「白髪の老人」のいう「あの時」とは、今から半世紀も前の出来事を指していた。「六十年安保闘争」と呼ばれる、安保条約の承認に反対する民意が起した出来事だった。確かにあの時も、今と同じように、否、今より一層多くの国民が国会議事堂を取囲んでいた。法案の否決を求めた声が渦を巻き、熱気が議事堂を押し潰そうとしていた。「白髪の老人」の目に、明らかに、あの時と今が違って見えたのは、抗議の人々が集まっている「広場」となった大通りが、「あの時」は未だなく、文字通り抗議の人々は、国会議事堂を取り囲んで大きな流れとなり流れていた事と、今回の人々の中に、明確な指導者が見当たらない事だった。「あの時」は、「安保改定阻止国民会議」が、百三十四の団体を束ねていた。「白髪の老人」は、その会議の主要なメンバーの一人だった。
 「あの時」の今回をはるかに超えた三十三万人の「民意」も、一見して右翼やヤクザと思われる人達と、警官に守られ、今より遥かに遠くなった国会の壁に阻まれ、届く事はなかった。
 安保改定法案は、わずかな時を経て自然承認された。それを見届けると、条約の更新を積極的に進めた時の総理大臣は、潔く政界を引退したのだった。
 「あの時」「白髪の老人」は、国会議事堂を取囲む「民意」の渦の真っただ中にいた。黒の詰襟の学生服に身を包み、同志とスクラムを組み、条約更新反対のプラカードを掲げ、大声で口々に「安保絶対反対」と叫びながら行進していた。上着を脱ぎ、真っ白なYシャツ姿のサラリーマンも多数いた。彼らも、学生と同じようにプラカードを掲げ、スクラムを組み、行進していた。そんな中、団結をし、一体となって戦うはずの「国民会議」は、些細な意見の違いで、少しずつ綻びをみせていた。当初は堅いまとまりをみせていた百四十三の団体さえも、「国民会議」という掌から少しずつ、零れ落ちていくのが感じられた。
 「あの時」からの五十年で、いったい何が変わったのだろう。「白髪の老人」は自問してみる。最高裁が違憲判断を下したのにもかかわらず、いっこうに、一票の格差は是正されることないままいたずらに月日は流れていった。その間、何の問題もないかのように選挙は変わることなく繰り返されてきた。議員の定数削減も、真剣に国会の場で議論される事はなかった。 
 「当たり前だ」また、吐き出すように「白髪の老人」は呟いた。
 「その職にある者が、積極的の自分達の食い扶持を減らすはずがない。議員達が自分達の食い扶持である議員定数を積極的に削減出来るはずがない。」
「では、それが出来るのは誰だ」自問する。
「国民、有権者のはずだ」自答する。
「方法は」また自問する。
「選挙?」 ここまで考えて「白髪の老人」は考えるのを止めた。ほぼ必ず当選者を出す現在の選挙制度では、とうてい実現するのは無理なことのように思えたからだった。
「白髪の老人」は、おもむろにテーブルの上からテレビのリモコンを取ると、テレビのスイッチを切った。一人暮らす部屋に静寂が訪れすぐに、「白髪の老人」の孤独をいっそう深いものした。プレファブの復興住宅は、月日がたつにつれ、年金に頼るしかない老人達だけが徐々に取残されていった。借金を背負える若い人達は、復興資金を借り、自らの手で新しい住まいを高台に建て、ここを出て行った。この頃は、子供の声を聞くのも稀に成っていた。残された「白髪の老人」のわずかな慰めは、長い間空いていた隣の部屋に、若者が引っ越してきて、時折笑い声が聞こえてくるようになった事だった。

 「青年の場合」
 あの八月の喧騒が、遠い日のように感じられる、嘘のように静まり返った国会議事堂の正門の前に、「青年」は立っていた。大通りの銀杏の葉が黄色く色づき始め、秋がもう終わる事を、無言で示していた。不審そうに見つめる警備の警察官の、視線も気付かずに青年は、ただ、空を見つめていた。
「あれはいったい何だったのだろう」
法学部政治学科に籍を置く「青年」は、自分に問いかけた。「青年」は確かに、八月のあの喧騒の中心にいた。しかし、いくらあの時の空の色を思い出そうとしても、少しも思い出せなかった。今日と同じように、あの時も空は、そこに確かにあったはずなのに。そんな彼の戸惑いとは無関係に、空は今日も確かにそこにあった。あの時より、いくらかその碧さに優しさを加えて。
 あの日から、挫折感というしこりが「青年」の頭の中を占拠するようになっていた。そのしこりは、例えようのない倦怠感を、「青年」にもたらした。期待が大きかった分、もたらされた挫折感も大きかった。「青年」は、何度となくそのしこりを追い出そうと試みたが、しこりは、頑固に居座り、「青年」から離れようとはしなかった。あの朝、いつものように開いた新聞で、「女子高生の投稿」を発見するまでは。
 女子高生の投げかけた投稿の内容は、非常に明解で、「青年」の頭の中に住み込んだ挫折感を、瞬く間に吹き払った。「青年」は投稿を読み終えた時、「あの時」以前の自分に、ようやく戻れることができたことを自覚した。心が急に軽くなった高揚感が、体中に満ちて来るのを感じていた。「青年」は今まで、現在の選挙制度で選ばれた「議員」=「国民・有権者」の代表という、誰しもが疑わない考え方に捉われていた。この考え方に捉われている限り、「青年」は、挫折感を頭の中から消しさる事が出来なかった。しかし、いったん、女子高生の主張するように、現在の選挙制度に疑問を投げかければ、全く違う視点が見えてくる。そして、その視点は、今まで見えなかった事柄を、確かに映し出してくれていた。「青年」の目に、再び生気が戻ってきた。「青年」は手始めに、まず、現在の選挙制度の基本となる、「公職選挙法」を調べてみようと思いたった。選挙制度に疑問を投げかける以上、まずは、その制度を成り立たせる根拠を調べるのが、基本と思えたからだった。昭和の時代であれば、「青年」の足は、迷わずすぐに大学の図書館に向かっただろう。しかし、平成の時代に育った「青年」の手には、図書館より身近に、知識に接しられるインターネットという便利な手段があった。インターネットは、瞬時に世界中の知識を、手に入れる事が出来る便利な図書館だった。インターネットが普及する前は、たくさんの書物がある図書館が、ほとんど唯一の、知識の獲得場所だった。しかし、インターネットは、知識の獲得方法を劇的に変化させた。知識は遠いものではなく、自分の掌のスマホや、そこの机の上のパソコンの中に、ほぼ無限にあった。インターネットの普及により、図書館は、既に知識の供給場所としての役割を終えていた。
 「青年」は、パソコンで検索サイトに「公職選挙法」と入力した。すぐに何万点ものサイトがヒットした。その中から、法務省のホームページを選択し、さらに、「公職選挙法」の項目を選択した。そして、画面に映しだされた条文を、第一条から順に、丹念にゆっくりと目で追っていった。条文は、国政選挙である衆議院議員選挙、参議院議員選挙からはじまり、地方公共団体の議会の議員及び長の、定数や選挙の方法が整然と書かれていた。どの選挙についても、条文の内容はほぼ同じだった。丹念に条文をたどる「青年」の目は、第四六条で止まった。

 第四六条
 この条文は、立候補者の中から、当選者が出る事を示していた。

 第九五条
 この条文は、衆議院小選挙区で、有効投票数のわずか六分の一以上の得票で、当選者になれる可能性があることを意味していた。

 第一条から第二百七十五条からなる「公職選挙法」の、全条文を読み終えた「青年」には「公職選挙法」は立候補者の中に、必ず当選者に相応しい候補者がいることを前提として制定されているように感じられた。だから、有権者が「候補者の中に当選者に値する候補者がいない」、と判断した時に、積極的に候補者の中から当選者を出さないシステムは、存在していないように思えた。有権者が、選挙区の立候補者の中に、政治を託せる人物がいないと感じた時、有権者に残された意思の表現の方法は、投票所に行かず投票そのものを棄権するか、投票所に行っても、誰の名前も書かずに、白票を投じることだけだった。しかしそれらの行為は、しばしば、有権者の目的とは真逆の効果を選挙にもたらした。投票率の低下は、わずか有効投票数の六分の一(投票数ではない)さえ確保できれば、当選者になれる可能性が約束された現在の選挙制度では、立候補者にとって追い風になるだけだったから。
 女子高生の提案した、「当選者なし」という選挙制度改革は、有権者の望んでいた意思表現方法そのものだった。
 大学の講義の中には、こんなにも明解な答えは見いだせなかった。「青年」は、いつにもなく興奮している自分に気がつき、喜びを感じた。それは、久しく忘れていた心地良い高揚感だった。
 「青年」がふと我に返り辺りを見回すと、いつのまにか夜が明け始め、清々しい朝日がカーテンの隙間を通して差し込み、「青年」の肩を優しく包み込んでいた。

 「女子高生」の新聞への投稿に目をとめたのは、もちろん「青年」だけではなかった。
新聞を読んだ多くの読者が、この投稿に関心を持った。そして、関心を持った中の一人に、政治学の研究者、特に現代の政治制度を研究する「若手研究者」がいた。

 「若手研究者の場合」
 「若手研究者」は、議員定数削減を研究のテーマにしていた。国会で議論が進む気配さえ見えないこの命題にたいする解答は、中々見えてこなかった。原因は簡単で、誰にでも容易に推察できた。議員達が、自分達の就職先である議員の定数を減らすはずがなかった。確実に人口は減り始めているのに、一向に減らないお役所の職員の人数と同じだった。手に入れた既得権益を手放すほど、彼らは愚かでも純真でもなかった。
 「若手研究者」は「女子高生」の提案のように、選挙で「当選者なし」とし、選挙区から当選者を選出しないことが、政治にどんな結果をもたらすかを検証し始めた。もし、選挙で、自分の選挙区から自分たちの代表である議員を選出しなかった時、一番影響を受けるのは誰か、当然それは選挙区の有権者・国民だった。しかしその事は、民主主義を実行するための一つの手段として認められた「選挙」という方法で、自分達の意思で選択した結果だ。国民・有権者に弊害はないように思われた。最も影響を受けるのは、有権者ではなく、立候補者の方だった。もし選挙で「当選者なし」とし、選挙区から当選者を選出しないことが可能になれば、現在の議員定数を変更、削減しなくとも確実に、議員数削減の可能性がうまれる。国会で、わざわざ議員定数削減のために、公職選挙法の審議をする必要もない。議員達が最も触れたくない、第四条の(議員の定数)は変更しなくともすみ、第百九条一号を削除すれば足りる。これこそが、真の民主主義の政治形態ではないか。議員の数が減る事によって、国政に悪い影響が出ないか。この事についての心配は「若手研究者」には無用に思えた。
「若手研究者」は、この国の、適正な議員数について、すでに研究成果を出していた。「議員定数削減方法の研究」は、その研究結果を踏まえての、次のステップの研究テーマだった。 「若手研究者」の研究成果では、現在の衆議院議員の定数四百七十五人(小選挙区二百九十五人・比例代表百八十人)参議院議員の定数二百四十二人(選挙区百四十六人・比例代表九十六人)合計七百十七人は、この国にとってあまりにも多すぎる議員数だった。日本の人口の約二倍のアメリカでは、上下院の議員定数は五百三十五人で、単純に比較しても、日本より百八十人少ない。人口を考慮し、アメリカの議員定数に単純に習うなら、この国の衆参両議院の議員定数は、二百二十五人になる。実に、四百九十二人もの議員達が、「余剰な議員」となる。両国の政治形態の差を考慮しても、この差はあまりにも大きい。 「若手研究者」が、研究の一環として、無記名で、議員の数についてアンケートを取った際も、国民の多くは、議員の数は多すぎると回答していた。回答は、年代に偏ることなく、一様に分布していた。特に、記入欄に書かれた意見では、参議院議員に対する意見が多かった。「必要がないのでは」、という厳しい意見が少なくなかった。アンケートを実施した時、参議院も与党が多数派を占めていた。与党主導で、衆議院で採決された法案は、参議院で、再度議論されることもなく、容易に参議院を通過していった。そんな状況も、アンケートには反映されている。研究者特有の冷静な目で、「若手研究者」はそう分析していた。
 「若手研究者」は、明治時代に、「廃藩置県」が実施され、最終的には、明治二十二年にそれまでの約三百あった藩が、三府四十三県(北海道を除く)に集約できたように、現在の、都道府県を基本とした選挙や行政の区割りではなく、平成の「廃県置州」ともいえる、もっと広範囲な選挙区・行政区の区割り(アメリカの州のような)を考えていた。この国全体を、北海道・東北・関東・東海・北陸・中部・近畿・関西・山陰・山陽・四国・九州・沖縄という、十三の地域(州)に分け、県単位でない広域な政治や行政が実行された方が、行政の無駄や、住民の要望の拾い落としが少ないと考えた。現在、路線バスは県単位で運行されている。そのために、たとえ数キロメートル離れただけの村や町の間でも、県境という、目では見えない境が間にあると、路線バスを利用し、日常の買い物をする事すら出来なかった。「買い物難民」という言葉も生れた。確かに選挙区を大きくして「州」にしても、同じ事が起きる事が予想された。しかし、県知事単位の話合いより、「州」知事単位の話合いの方が、より解決力があると判断された。
 「若手研究者」が算定した、この国の適正な議員定数は、衆議院議員百五十人、参議院議員七十五名の計、二百二十五人だった。各選挙区の議員定数は、選挙区内の人口比によって決める「アダムズ方式」を採用する。これによって、選挙区による、一票の格差は解消される。現在の議員定数との差、削減された四百六十二人によって不要になる費用(税金)は、ざっと計算しただけで、給与分の約七十二億円、文書・通信交通滞在費の、給与等として支払われる年間経費、約三百四十五億円(議員一人当たりに年間経費として、七千五百万円が支払われている)、両方合せると、約四百十七億円。これに、年間に支払われる三百二十億円の政党助成金の内、削減した議員の人数分支払われている約二百六億円を加えると、年間総計約六百二十三億円もの税金が、節約できる。企業からの政治献金をなくすために設けられた、政党助成金を撤廃すれば、総額は、七百三十七億円になる。政党助成金は、現野党第一党が政権与党時代に、大企業・労働組合・団体からの政治献金が、政治の公平さを奪っているという、極めて常識的な判断から、企業の、政党への献金を制限する代わりに新設した制度だった。しかし、政権交代で返り咲いた現与党が、政治献金を復活させた今、政党助成金の存在理由はもうなく、直ちに廃止されるべきものだった。政治献金への制限が撤廃され、以前のような政治献金が復活するとき、まっさきに反対すると期待された現野党は沈黙し、与党同様に政党活動費の二重取りを享受していた。
 「若手研究者」は、いつのまにか論点が、議員数を削減した時の問題点の検証から、ずれ始めている事に気がついた。「女子高生」の提案は、「若手研究者」の論点を、この国の政治家の資質問題にまで飛躍させるほど、魅力に富んでいた。 
 「若手研究者」は当然、議員定数の削減に否定的な研究者が、決して少なくない事も承知していた。彼ら議員定数の削減否定者達の根拠は、多くの場合、現在の議員数でも、官僚をコントロール出来ないのに、議員数を削減すれば、ますます政治・行政の「官僚支配」が強まるというものだった。「官僚支配」により、「政治の死」をもたらすと論じる学者もいた。彼は具体的に、現在の議員の数では、通常国会で各省庁から出される百以上の法案を、審議するのに十分ではないと主張した。そして、その根拠として、現野党第一党が、政権与党だった時に引起した、政治の混乱・停滞を例にあげた。現野党第一党が有権者の信任を得て与党に成った時に、まず現野党第一党は、政治主導の政治を、官僚から取り戻すため、それまでの政権与党が長い間続けてきた、各省庁から提案された政策案の「与党事前審査」を廃止し、大臣・副大臣・政務官の「政務三役」が精査した法案を、国会に提出するという、「政治主導」の政策立案システムを実行した。しかし、そのシステムは大方の期待を裏切り、政治の混乱と停滞を招き、逆に「官僚支配」を強めてしまった。しかし、その原因は単純明白で、思いがけず有権者の追い風を受け、与党となった現野党第一党には、短時間で「政務三役」を支える十分な政策スタッフを、準備することが出来なかったからだった。十分に時間をかけて、十分な人数の政策スタッフを準備し実行すれば、必ず成果をあげられる政策立案システムだった。思いがけず政権を手にしたことが産んだ、後で取り返しのできない「勇み足」だった。
 良い事ずくめに思える「女子高生」の提案の最大の問題点は、現職の議員が積極的にこの提案を議論するとは思えない事だった。
 チャイムの優しい音色が、午後の授業の始まりを告げていた。政治学科の非常勤講師の「若手研究者」は、講義の資料を重たそうに小脇に抱えると、少し早足で大講義室へと向かった。足取りはいつもに増して軽やかだった。

 「専業主婦の場合」
 慌ただしく、子供達を幼稚園に送り出すと、
「専業主婦」の彼女を、いつものように洗濯を始めとする家事が、待ち構えていた。「専業主婦」が、束の間の休息を味わえるのは、昼をはさんだわずかな時間でしかない。保育園と違い、幼稚園の帰りの時間は、思いのほか早い。
「専業主婦」の夫は、毎日通勤快速で、二時間をかけ、都内の会社に通勤していた。ここまで都心から離れないと、バブル当時、若い二人には、一軒家を手に入れることは出来なかった。結婚した当時、若い二人は、八階建ての賃貸マンションの四階に住んでいた。しかし、夫婦は、始めてのマンションの生活になかなか馴染めなかった。二人とも結婚するまでは、親の家で両親と同居していた。夫婦のどちらの実家も一軒家で、広くはなかったが、庭に囲まれていた。他人と壁一枚隔てるだけで生活をすることは、二人にとって生れて初めての経験だった。住み始めて数カ月が過ぎた頃、夫婦は、夜中に居間の壁を通して、微かに猫の鳴声が聞こえてくる事に気がついた。それは決まって寝静まった深夜に聞こえてくるのだった。それが、猫ではなく赤ちゃんの泣声だと判ったのは、だいぶ後になってのことだった。夫婦は、子供が生まれたのを契機に郊外に、一軒家を手に入れたのだった。冬は歩いて五分の駅に、向かう道はまだ暗く、街灯の明かりだけが、肩をすくめて下を向いて歩く舗装道路を照らしていた。夏は、ようやく昇り始めた太陽の暖かい日差しが、舗装道路を斜めに照らしていた。朝の清々しい空気に包まれて通う、その舗装道路が、夫は好きだった。夫は、会社の最寄りの駅まで座って通勤ができたし、その貴重な通勤の二時間を、不足しがちな睡眠にあてることができた。たった二駅都心に近付くだけで、座席は夫と同じサラリーマンで埋まってしまい、よく揺れる電車の吊革に縋り、立ったまま通勤するしかなかった。夫婦が、住まいをここに選んだのも、座って通勤できる事が理由の一つだった。沿線に新興住宅地が目立つこの路線は、通勤時間の混雑の酷さと、痴漢の被害が多いことで良く知られていた。
 少しだけ暖かさが感じられる明るい日差しの下で、彼女は洗濯物を干し終えると、いつものように薬缶をガスコンロにかけ、キッチンの棚からコーヒーミルを取り出し、コーヒー豆を挽きはじめた。彼女は豆を挽く、ゴリゴリと規則正しいリズムを奏でるのが、好きだった。それはまだ彼女が幼かった頃、ふだん顔を合わせる事が少なかった彼女の父親が、日曜日の朝、決まって豆を挽いて、暖かいコーヒーを家族に淹れてくれた事を思い出させた。彼女は、ゴリゴリという、ミルで豆を挽く音や、コーヒーの香りに満たされたダイニングで、親子三人で朝食をとる事にささやかな幸せを感じていた。
「いつからだったかしら。」
「私が中校に入って部活を始めた頃からだったかしら。」
 沸騰した薬缶のお湯を、少し冷ましてからゆっくりとドリッパーに注ぎながら、彼女は記憶の糸をたぐってみたが、ハッキリとは思いだせなかった。確かなのは、大学受験を控えた高校三年の夏には、日曜日の朝のささやかな楽しみはなくなっていた事だった。
 いつもと同じように、そして、父がそうしてくれていたように、たっぷりと薄めに淹れたコーヒーを啜りながら、インスタントコーヒーにはない香りを、鼻と口で味わった。彼女がまだ幼かった頃母は、コーヒーをたっぷりの暖かい牛乳で満たしてくれた。彼女が成長するのにつれ、牛乳の量が減り、コーヒーの割合が増えていった。次第に牛乳の甘さよりコーヒーの苦味が心地よくなっていった。
彼女はいつものように、テーブルの上の、夫の読み終わった朝刊に眼を通し始めた。日々くり返す日課だった。三面記事から読み始めた彼女の眼は、普段あまり気に止める事のない、新聞のなかほどの「読者の声」で止められた。
 「専業主婦」の彼女もまた、女子高生の投稿に関心を持った一人だった。
「面白い考え方ね!」思わず彼女は、自分でも驚くほどの大きな声をあげた。珍しい昆虫を、自分だけが見つけたように。
 女子高生が提示した、この有権者が、「立候補者」に明確に「ノー」と意思表示ができる提案は、彼女にとって、非常に明快で新鮮だった。今まで思いつかなかったことが、不思議なくらい明快で新鮮だった。中学生の時に習った、数学の方程式に感じたような、明解さだった。
「これが実現できれば、きっと投票を棄権する人が減るわね」ここ何年か彼女は、投票所に行かなかった。子育てに忙しかったことも理由の一つだったが、それよりも、選挙自体に関心が持てなかった。選挙の時だけ、大声で自分の名前を連呼する立候補者の顔を、誰一人として彼女は知らなかった。日中放送される国営放送の政見放送を、見る時間のない彼女にとっては、立候補者が、何を主張して立候補したのかを知る術がなかった。当落の予想には多くの紙面を割く新聞も、十分に情報を提供しているとは思えなかった。
「彼らは、選挙のとき以外は一体何をしているのだろう」有権者の誰しもが持つ疑問だった。選挙になると、人通りの多い通りに面した空き部屋や、空き地に建てられたプレファブ小屋を利用して、候補者の数だけ選挙事務所が設けられたが、その多くは、候補者が落選すると撤去された。当選し議員となった候補者の事務所も、選挙が終わると、途端に人影はまばらになった。選挙中、同じ色の鉢巻きをした人であふれ賑わっていたのが嘘のようだった。
 本来、政治家は、有権者のために、何を考え、何を今実行しているかを伝える必要があるはずだった。それが、次の選挙の票につながるはずだった。しかし政治家は、選挙を重ねる度に、当選するためには何が本当に大切なのかを、経験的に学んでいった。立候補者の中から、ほとんど必ず当選者のでる「外れくじのない、くじ引き」のような現在の選挙制度では、政策の違いや実行力をアピールするより、他の立候補者より、より一人でも多くの有権者に、自分の名前を覚えてもらう事の方が、何倍も有効である事を。
 彼女が住む新興住宅地は、それでもまだましな方といえた。会社に向かうサラリーマンが慌ただしく、砂糖に群がる蟻のように大勢集まる朝のターミナル駅の前で、名前の書かれた襷をかけ、ひたすら襷のその名前を連呼しているのが、立候補者だと知る事ができたから。それに比べ、家屋が広範囲に点在する山間部や、農村部は酷かった。ウグイス嬢だけを乗せ、ひたすら立候補者の名前を連呼するだけの選挙カーも、そこでは姿を見かける事はまずなかった。ほとんど、選挙の蚊帳の外といえた。山間部や農村部に、数の限られた選挙カーを送らない事は、どの立候補者にとっても疑いのない自然な行為だった。一日かけて十数件の有権者しか住んでいない山間部や農村部を回ることより、家屋の密集した、有権者がたくさん住む新興住宅地に選挙カーを回らせた方が、より多くの有権者に自分の名前を覚えてもらえるのだから。
「投票用紙に『選ぶべき候補者がいない』という欄がもしできたら、きっと政治が変わるはね。そう、来年の参議院選挙からできたら良いのに」
一瞬淡い期待が、彼女の心をよぎった。しかしそれは、春に振る雪のように、余韻を与える間もなく瞬く間に、儚く消え去った。どう考えても、議員定数の削減を先延ばしにする議員達が、定数削減よりはるかに自分の職を失う危険性を持った、この提案の実現に動くはずがないのは目にみえていたから。
 彼女のささやかな考えをさえぎるように、幼稚園のバスが家の前で停車した事を告げる、いつものブレーキ音が聞こえてきた。それに続いて、子供の元気な声と先生の送り出す声も聞こえた。「専業主婦」の彼女は、慌てて子供を出迎えるため、玄関の扉へと急いだ。今まで考えていた事を、居間に置き忘れてしまったかのように。

 女子高生の投げかけた提案は、徐々に、しかし確かな勢いで波紋を拡げていった。微かな波紋さえ、次第に水面に落ちた木の葉を揺らすように、政党という巨大な木の葉も揺らし始めていた。
 与党・野党を問わず、新聞の女子高生の提案に関心を持ったのは、当選一回の若手新人議員だった。彼らの、選挙ズレしていない、しなやかな感性は、この投稿の持つ言いようのない恐怖を敏感に感じとっていた。突然の恐怖に直面したとき、無意識に鳥肌がたつように。
それとは対照的に、当選回数を重ねたベテラン議員達は、女子高生の提案にほとんど関心を示さなかった。当選回数を重ねる度に、一層ずつ厚くなっていった感性を覆う甲羅は、遠い昔に、彼らを鳥肌とは無縁なものにしていた。

 「チルドレンの場合」
 すぐに、党派を超えた若手新人議員の勉強会が開かれた。しかしそこには、比例区で当選した「チルドレン」と呼ばれる若手新人議員の姿はなかった。与党の、候補者数水増しといえる一般公募に運良くパスし、名簿に名前を載せた彼は、もちろんそれまで、政治経験はまったくなかったし、候補者名簿の最下位に位置する自分が当選するとは、夢にも思わなかった。事実当選が決まった瞬間、テレビのインタービューのマイクを向けられた彼の顔は、喜びより驚きに満ちていた。
その時の選挙は、党首の歯に衣を着せぬ発言が、有権者の人気をさらっていた。与党自身も思いもしなかった追い風が、与党に勢いを与えた。議員定数の過半数を優に超える、与党の大勝利だった。立候補者の能力や実績に関係なく、政党の名前の力だけで当否が決まる比例区は、選挙の度毎に有権者に違和感を覚えさせた。特に、選挙区で落選した候補者が、比例区で復活当選し、自分の名前の上に飾られたバラをバックに、満面の笑みでテレビに映し出されるのは、違和感を超え、選挙に対する不信感を増幅させた。
比例区の、名簿最下位で当選したあの「チルドレン」は、次の選挙では決して今回のような奇跡が起こらない事を感じていた。そんな「チルドレン」が取った次の選挙への対策は、いたって単純だった。異常とも思える強気な発言や、問題発言をくり返し、マスコミへの露出度を多くし、自分の名前を有権者に刷り込む事だった。マスコミ各社も、思いもよらず議員となった「チルドレン」を、その話題性だけで取り上げたし、また「チルドレン」のそんな強気の発言を、面白おかしく番組でながした。「チルドレン」が次に取った手は、マスコミでの露出度を頼りに、選挙区を比例区から、自分の出身の選挙区に鞍替えすることだった。それが当選確実な比例区の名簿の上位に、決して自分の名前がのることがない彼が、次の選挙で生き残るための精一杯の行動だった。しかし、彼の立候補する予定の選挙区には、与党の重鎮が議席を確保しており、彼は党の公認を受けることができなかった。「チルドレン」は、それでも強気で次回の選挙に臨んだが、あまりにも稚拙な彼の戦法は、有権者の反感を買い、大方の予想どおり落選した。しかし、皮肉なことに有権者は、政治家の時より一層頻繁に、「元国会議員タレント」に転身した彼の姿を、見せつけけられることになった。

「派閥のドンの場合」
 若手議員の勉強会は、熱気があふれていた。
討論を重ねる毎に、気圧が低くなるのに反比例して、膨らんでいく風船のように、現在の政治に対する危機感が膨らんでいった。勉強会の経過は、すぐさま各党に持ち帰られ、幹部に報告された。幹部は派閥の会合で、「派閥のドン」と呼ばれる人物に逐一内容を伝えたが、与野党にかかわらず、「派閥のドン」の反応は鈍かった。長年選挙を戦ってきた経験が、女子高生の提案を過小評価させていた。
 時代を変えてしまうほどの大きな変化を、いち早く捕らえられるのはいつの時代も、白皙な若者の特権だった。何色にも染まっていない、しなやかな感性だけが変化の兆しを捉えることができた。それに比べ、選挙を重ねる度に濁っていった老政治家の感性、特に「派閥のドン」と呼ばれる政治家たちの感性は、あまりにも多くの色に染められ、もう既にどす黒く染まってしまい、時代の変化を微かに示すどんな色が染み込んでも、どす黒さは変わらなかった。
 多様性だけが、生物が、環境の変化を乗り越えるほとんど唯一の手段であることを、生物学は、私達に示してきた。政党も同様に、時代の変化をいち早く捉え、乗り越えていくのには、政党の中に、いかに多様な感受性を確保する事が出来るかが重要である事を、戦後の政治は示してきた。戦後から今日まで、最も多くの時間を、政権政党として君臨してきた現与党は、党内野党と呼ばれる「派閥」を数多く党内に抱える事によって、ほぼ単一のイデオロギによって構成された他の政党と一線を画してきた。自らの党内に、主流派に対抗する疑似的野党勢力、「派閥」を内包する事によって、多様性を確保してきた。その多様性こそが、国民の信頼を受け、戦後長期にわたって、安定した政権政党として存在してきた大きな要因だった。 しかし、内閣を牛耳る主流派との些細な意見の違いから、反主流派の「派閥」の「ドン」が次々と離党し、新党を結成する度、手の平から砂が静かに零れ落ちていくように、徐々にその多様性を失っていった。やがて、嵐となる変化の兆しは、無情にも、そんな彼らを一瞥もしないで、素通りして行った。
 一女子高生の投稿が巻き起こした風は、確かな速さで、多くの人達を、その中に引き込んでいった。
 投稿が多くの人達の心を捉える事が出来たのは、その主張の簡潔さと意外性だった。おとぎ話の、「はだかの王様」の少年が、無垢な目で、王様が裸である事を指摘したように、どんな反論をも許さない明解さがあった。多くの大人達が、自分の目で見、考える事をいつしか忘れてしまい、既成の事実を疑う事を忘れてしまった自分自身に、気づかされた。
 女子高生の「投稿」から、早ひと月が過ぎようとしていた。次第に高まる女子高生の「投稿」対する反響に、マスコミ各社は、平山美加という女子高生の情報を真剣に収集し始めた。視聴者・読者の関心は徐々に、女子高生の「投稿」の内容から、投稿者の人物に移っていったからだった。当初、すぐに判ると、安易に思っていたどのマスコミも、個人情報保護の壁に突き当った。安易にネットの検索サイトに名前を入力しても、ヒットするのは、彼女の「投稿」に共感するブログやツイッターばかりで、彼女の住所、年齢(本当に高校生なのか)、通っている高校名といった個人情報は何一つヒットしなかった。東京都の電話帳に掲載された平山姓に、片端から電話で問合せた雑誌社があったが、いたずらに電話代がかかっただけだった。困り果てたあるマスコミが、「投稿」を掲載した新聞社に、ツテを使って聞き出そうとしたが、個人情報保護の壁は、他のどのマスコミより高く厚かった。そんな中、次第に女子高生の存在を疑う声が大きくなっていったのは自然な事だった。政治評論家ゴーストライター説が、まことしやかにマスコミの間に流された。ゴーストライターと名指しされた政治評論家は、すぐさまそれを否定し、打ち消すのに懸命だった。そんなマスコミの喧騒とは無関係に「女子高生」の「投稿」は、その表現の明解さから、さまざまな人達に新たな「発見」を次々もたらした。
 
 「辛口の政治評論家の場合」

 「ノーといえる選挙がもたらすもの」

 現状の選挙制度では、有権者は自分の選挙区の立候補者達に、明確にノーと意思表示をする手段を持っていない。そのため、有権者がノーという意思表示をするために、投票を棄権してきたことは疑いのない事実といえる。ネット上で「積極的棄権」を発表した思想家もいた。投票率を下げる事によってしか、政治に対するノーの意思を具現できないからだった。しかし、その事は、有権者が期待するほど、政党にとってしもマイナス要因にはならない。投票率の低さは、立候補者にとって脅威ではない。手堅い組織票持つ政党(例えば宗教団体を母体とする政党・経済界・労働組合を支持基盤とする政党等)にとっては、投票率の低さはかえって追い風となることが多い。有効投票に占める自党の票の割合が、相対的に上がるからだ。棄権した人の票は、もとより有効票にカウントされない死に票となる。立候補者が最も恐れるのは、有権者の浮動票が死に票とならず、特定の政党・候補者に流れる事だと言える。
 投票用紙に「選ぶべき候補者がいない」という項目を設ければ、有権者はそれを選択する事により、明確にノーという意思を政党・立候補者に対して意思表示できる。また、選挙区から当選者を選出しないということが出来るという事は、有権者の意思で、議員定数を削減する事が可能になる事を意味する。議員に、自らの定数を削減する事を期待するのは間違いである。自分達の代表である議員を議会に送らずに困るのは、選挙区の有権者・国民である。この事は「権利と義務」といった観点からみて正しい。しかし今、「選ぶべき候補者がいない」という項目を設けられて実際に困るのは選挙区の有権者・国民ではなく、立候補者・政党自身だろう。立候補者をたてれば、必ず立候補者の誰かがほぼ必ず当選する、政党・立候補者にこの上なく好都合に仕組まれた選挙制度(公職選挙法)のぬるま湯に長年どっぷりと浸かった政党にとっては脅威となるだろう。(公職選挙法を成立させたのは政治家自身である)
 「選ぶべき候補者がいない」という項目を設ける事に、政治家は全力で反対するか無視するに違いない。しかし、その時点で彼らは最早、政治家とは呼べない集団に成り下がってしまうだろう。
 今までのように単にマスコミの露出度の多い、知名度だけが武器のタレント候補(参議院議員立候補者に特に目立つ)に代わり、真に政治能力のある候補者を自らの手で育成し、国民の信を問う事のできる政党・政治家。そして「選ぶべき候補者がいない」という項目を設ける事に積極的に邁進できる政党・政治家だけが、真の民意の代表者といえるだろう。
 「選ぶべき候補者がいない」という項目設けるという事を提起した「女子高生」に私は畏敬の念を禁じ得ない。なぜ私は今日まで、この事を思いつかなかったのだろう。私は、自分の思慮の浅さを恥じるだけだ。

 常に上から目線で話すこの評論家の、「自分の思慮の浅さを恥じるだけだ」という、自省の言葉は、いかに「投稿」がこの評論家に衝撃を与えたのかを如実に示していた。

 「投稿」を掲載した新聞社内では、「投稿」に対する反響のあまりの多さに、「投稿」をメインテーマとした、政治家・評論家・学生らによる紙上討論会が企画された。しかし、なぜかその企画は実現しなかった。この国唯一の国営放送も、同様の公開討論会を企画したが実現しなかった。そもそも、国営放送の経営委員会の委員十二名は、「放送法」により、衆参両院の同意を得て、内閣総理大臣により任命されていた。
「国会議員は、有権者の投票により選ばれた国民の代表」であるとい前提に、根本から疑問を投げかけた「投稿」をテーマとした放送を、国会議員によって選出、任命された委員会の長である国営放送の会長が、正式に許可することはあり得なかった。
 そんな、マスコミ界の「忖度」とは無関係に、「投稿」が捲き起こした民意の流れは、徐々にその勢いを更に加速度的に増していった。「国民による国民のための政治の樹立」という一点を目指して。

 年が明けるとすぐに、学生を中心とした政治活動のグループが、夏の参院選にむけて結成された。中心となった三十人の学生はいずれも、「特定秘密保護法案」の可決に反対し活動し、法案が、平成二十七年に国会で可決されてしまうと、すぐに解散したグループのメンバーたちだった。かれらのグループは常設のものではなく、目的のためにだけそのつど結成され、当初の目的が終わると解散した。その点で今までの学生運動のグループと一線を画していた。また、いかなる政治団体とも無関係だった。もともと既存の政党・政治家に不信感をいだき結成され、活動を始めた彼らのグループが、特定の政党や政治に依存するはずがなかった。学生運動というと、誰にもすぐ思いつく、全日本学生自治会総連合、通称「全学連」が当初、左翼系政党の影響下にあったため、長くそのイメージを払拭できなかったことを反省点としていた。
 「学生」を中心としたグループの結成と前後して、「専業主婦」と世間で呼ばれる職業を持たない、主に子育て世代の母親を中心としたグループも結成された。あの夏、「安全保障関連法案」成立に反対するため、国会前の集会に参加し、民意を反映出来なかった国会に失望した女性たちがその中心にいた。彼女たちの目は、常々女性議員の言動・行動にそそがれていた。女性の代表として選んだはずの女性議員の多くが(ほぼ全員とも思われた)当選後徐々に、女性としてのしなやかさを失い中性化し、男性議員と何ら変わらない発言をするようになる事を、同性として苛正しく思っていた。政界という特異な世界は、「母性」という女性特有の本能を、議員と成った女性から奪ってしまうように思われた。
 「学生」「専業主婦」両グループとも、その成立基盤は根底で同一で、目指す方向も同一だった。そのため、あえて両グループは共闘体制をとる必要もなかった。目標にむかう方法は幾つもあり、互いに異なった方法でその目標を目指す限り、異なった支持層をえることができた。野党が限られた反与党票を野党間で奪い合い共倒れとなり、みすみす議席を与党に奪われる愚行は起こり得なかった。
 野党第一党も参議院選挙に向けて動き出した。しかし、政権与党時代に失った信頼は二度と戻らなかった。選挙に向けてまた党の分裂、新党結党が始まった。いったいこの十年でいくつの党が生まれ、そして、消滅していったのだろう。党の名前は変わっても、議員の顔は相変わらず変わらなかった。変えなければならなかったのは党名ではなく、議員の顔ぶれだった。カラスは例え彩りを変えても、「カー」としか鳴けない、カラスに変わりはなかった。
 「学生」「専業主婦」の新しい二つの政策グループが誕生した事により、確実に「学生」と「専業主婦」の票が、与党・野党を問わず既成政党から失われていった。
 与党は、参院選後の憲法改正目指し、衆参両院の安定多数もって強行採決した、選挙投票年齢の十八歳に引き下げる法案が、この後、与党にとって取り返しのつかない逆風になる事を、与党の議員は誰も予想しえなかった。
 野党第一党の政権与党時代の失態により、投票の選択肢を失った有権者が、仕方なく消去法により投票し、棚ぼた式に政権与党に返り咲いた現与党の党首・総理大臣は、安定多数に慢心し、最早、国民の声は届かなかった。
 祖父の代からの悲願だった憲法改正に向けて、さらなる安定多数を目指して、内閣が総辞職し、国民の信を問う衆議院選挙が公布された。投票日は、参議院選挙と同時の七月十日に決定された。賽は投げられた。
 与党はいつになく活気づいていた。党の誰しもが、選挙年齢を十八歳に引き下げたことが、党にとって追い風になっていると信じていたからだった。法案成立前、大手リサーチ会社に依頼したアンケートでは、圧倒的に新しく有権者となる十八歳以上二十歳未満の二百四十万の若者は、保守的で安定志向であり、変化を好まず、与党支持者が大多数であるという調査結果が出ており、それを、鵜呑みにしていたからだった。しかし、これは大きな誤算だった。与党が依頼した大手のリサーチ会社が今回の調査で用いた、従来のアンケート用紙による意識調査は、もう既に現代の若者の本音を捉えることは出来なかった。現代の若者は、本音と建前を明確に使い分けていた。本音は、LINEやSNSといったネット上でやり取りされ、電話による聞取りや、アンケート用紙による調査には、当り障りのない建前が使われた。
大手のリサーチ会社は、皮肉な事に自分達の組織が硬直し、機能していない事をリサーチ出来ていなかった。若手の起業家が起こした、数人規模のリサーチ会社の方が、同世代の意識調査には長けていた。もし与党が、まだ実績のない小さな会社に、リサーチを依頼していれば、選挙の予想結果は大きく違っていたかもしれない。明らかに与党を、老害と安定多数による慢心が、的確な判断を誤らせていた。
既存の政党は、野党・与党を問わず衆参両議院選挙に向けて、相変わらず従来の戦術で選挙運動を開始した。
 有権者が多く集まる大きなターミナル駅や、住宅密集地には、夏にしか鳴かない蝉の鳴き声えような、選挙のときにしか聞かれない喧騒が戻ってきた。都会の蝉が日中にだけでなく、夜の煌々とした明りにも反応して鳴くように、今回も、立候補者の名前だけを連呼するだけの選挙カーは、より明るい灯りを求めて街中を走り廻っていた。人家の点在する山間部や一部の農村部にだけは、常時の静寂さが保たれていた。
 相変わらず働き盛りの年代層と無関係に昼間に放送される、国営放送による立候補者の政見放送だけが、ほとんど唯一の、立候補者の顔と政策を知る手段だった。
 既存の政党の選挙戦を見る限り、今回もなんら変わる事はない風景だった。しかし、ネット上では今までに見られない、まったく新しい選挙戦が進行していた。
 「学生」グループ・「専業主婦」グループは、候補者の選挙事務所を、立候補者の選挙区に作らなかった。「学生」グループは、三十人程の学生を中心にした選挙対策室が、東日本大震災からの復興が一向に進まない、岩手県の沿岸部にある一部不要となった仮設住宅に開設された。
 「主婦」グループは、さすがに各自が家庭を持っていたので、選挙挙活動に専念できず、彼女らに替わって、法学部の現代政治を研究テーマとする女子大学院生達が、研究の一環として、ボランティアで、さまざま事務処理などを応援した。日頃研究室から一歩もでない自分達の研究に疑問を持ち、「女子高生」の「投稿」に注目した女子大学院生達は二十人ほどで、「選挙支援室」を基地問題で揺れる沖縄の辺野古に開設した。
 既存の政党は、与党・野党にかかわらず、そんな彼ら・彼女らの行動を密かに嗤っていた。肝心な選挙運動資金もなく、選挙の戦い方を知らない素人集団に何が出来るのかと。
 朝夕の通勤通学電車の中は、いつもと変わらず、スマホの画面に熱心に見入る学生や、若いサラリーマン、OLであふれていた。一見いつもと変わらない光景も、良く見ると大きな変化がここ数日で起きていた。イヤーホンを耳にした学生や、若いサラリーマンが見ていたのは、お気に入りのドラマ・ゲーム・スポーツといったコンテンツから、無料動画サイトにアップされた「学生」グループが擁立した、衆議院選挙候補者の政見放送のビデオになっていた。また、女子大生や若いOLたちが熱心に検索していたのは、それまでのグルメやファッション情報に替わって、沖縄の「選挙支援室」から発信されたツイッターであり、ラインの中の同世代の意見、評判だった。
 「学生」グループが発する政策のビデオのフォロワーは、同年代の若者の共感を得て、確実に増え、拡散していった。そのことは、「主婦」グループも同様だった。
 この国の有権者の総数は、約一億一千万人。内訳は、男性が四千九百万人、女性が五千二百万人で、女性の方が三百万人も多い。法改正で、新しく投票権をえた、若者の総数二百四十万人を超えている。単純に男女同数の候補者が立候補し、有権者が性別に従って同性の候補者に投票したとすると、女性議員の方が多数となる。しかし、実際には、現職議員の総数に占める女性議員の総数は約十二パーセントにしかすぎない。これは世界平均の約半分で、ドイツの三分の一にしかすぎない。
 「主婦グループ」は、女性議員の割合を世界平均にすることを目標に、衆議院の議員定数四百七十五人の二十パーセントに当る、九十五人の候補者を擁立した。それは、単純計算で各都道府県に各二名の候補者を立候補させることだった。 
 安全な高台の仮設住宅を借りて設置された「選挙対策室」から見える海は、あの震災の前と少しも変わらずに、太陽の日差しを受け輝いていた。違うのは、かつて波打際に互いに寄り添うように建っていた家並みが今はなく、家が建っていただろう場所に、わずかな雑草に覆われた更地だけが見渡す限り続いていたことだった。      
震災からまる五年の月日がすぎ去っていた。その月日が長いのか短いのか、「青年」には判断できなかった。ただ毎月何人かの老人が、住み慣れた土地に帰る事もなく、この仮設の建物で亡くなっていく事が、過ぎてきた月日が決して短くない事を示している様に思えた。東北人特有の寡黙さと忍耐強さが、ここでの孤独死を一層深いものにしているように感じられた。
 津波が奪った物は、人々が暮らしていた建物や自然だけでなく、そこに暮らした想い出や、人と人の絆まで一瞬にして奪い去った。目から消え去った物は、やがて心からも消え去り、二度ともとの持ち主に返される事はなかった。
 「青年」は、岩手の沿岸部の出身だったが、震災の時、東京の国立競技場脇の都営住宅に下宿し、大学に通っていた。都営住宅の住人の多くは、建設当初からそこに住み、人生の大半をそこで過ごした老人達だった。彼ら老人たちは、「青年」の入居を心から歓迎した。「青年」に、若かった頃の自分の姿を重ねていたからだった。わざわざ自宅に招き夕食を御馳走してくれる事も少なくなかった。「青年」が生まれ育った田舎と、同じ優しさがそこにはあった。「青年」を囲んだ食事の時決まって老人達の話題にあがるのは、すぐ隣の国立競技場で開かれた東京オリンピックの開会式の想い出だった。日本がまだ成長期の若々しい青年だった頃、アジアで初めて開催されたオリンピックは、当時の日本人誰しもに将来への明るい希望と自信を与えた。高度成長期がすぐそこまで来ていた。いつもは物静かな老人達も、開会式に、自衛隊機が編隊を組み、十月の碧く澄みきった大空に、平和の祭典であり、オリンピックの象徴である五つの輪を見事に描ききった場面では饒舌になった。大空に描かれた五輪は、国立競技場で実際に見た人達だけでなく、なぜか、当時はまだカラーテレビが普及していなく、白黒テレビで見たはずの人々にも、選手団の鮮やかな深紅の上着の色と同様に、鮮やかな五色の色を持って記憶された。興奮したアナウンサーの「五色の五輪と、深紅の上着」というアナウンスが、視聴者の心の中に鮮やかな色を描いたのかも知れなかった。
 「青年」がようやく東京での暮らしに慣れてきた頃、老人達の記憶を上書きするような事件が持ち上がった。オリンピックを再度東京で開催しようと、官民一致で誘致運動が展開されたのだった。政府は、バブル崩壊以後一向に回復しない日本経済のテコ入れとして積極的に支援した。誘致の目玉として、新国立競技場の建設を掲げ、世界の注目を集め誘致が有利に進むように、その設計を国際コンペとすることにした。コンペの条件として設定された敷地は、現在の国立競技場を解体してできる跡地と、隣接した都営住宅を解体してできる跡地を合わせた土地が示された。数多くのコンペ案から、イギリスに事務所を構えるイラク生まれの女性建築家の案が選ばれた。新聞紙上で、初めてその案が公開された時、多くの読者は、そのデザインの斬新さよりその巨大さに驚かされた。
 新国立競技場が、肥大化し巨大になった責任は、建築家より、設計条件を提示した、日本スポーツ振興センター(JSC)の方にあった。各スポーツ競技団体の意見・要望を、無分別に受け入れれば、各競技に合わせるため収容人数が増大し、肥大化するのは当然だった。
 「青年」は、すぐさま、都営住宅の解体・移転に反対する住民の会を立ち上げ反対運動を繰り広げたが、運動を取り上げるマスコミも少なく、国は国立競技場と都営住宅の解体に向け粛々と準備を進めた。
 国立競技場の解体により失われるのは、国立競技場という「物体」だけでなく、「国立競技場」という言葉に付随する、多くの人たちの「想い出や記憶」だった。
 サッカー部の高校生達は「国立へ」を合言葉に日頃練習に汗を流したし、ラグビーに汗を流す社会人達は、幾多の名勝負を残してきた。国立競技場は、さまざまなスポーツを通して、数多くの忘れられないドラマが生まれ、そして語り継がれてきた場所だった。
「青年」は小学生のとき知った「目から消え去るものは、心からも消え去る」という言葉を心の中で呟いた。そして、日本というこの国は、「歴史」もっと身近なところで言えば、「想い出」・「記憶」といったことを何時から大切にしなくなったのだろうと考えた。政治家や官僚という種類の人たちが保存に積極的に動くことはなかった。オリンピックを控えた女性初の都知事は、就任時、新国立競技場についてマスコミで「レガシー」という言葉を連発した。自分の就任中に完成する新国立競技場には、「レガシー」があり、解体されていく現国立競技場には「レガシー」は無いのか。そんな素朴な疑問は、彼女の中には無かった。「青年」は「レガシー」の保存に関しては、官僚にはあまり期待していなかった。官僚の主な職務は、与えられた課題を、整合性をもって遂行することで、自ら課題をみつけて動くことはないからだった。課題を与えるのは政治家のはずだったが、残念なことにこの国の政治家は著しく自国の文化に疎く、「レガシー」に興味がなかった。
 今回の保存運動を通して「青年」は、「レガシー」に対して無関心なのは、決して官僚や政治家だけの問題でなく、一般の国民も同様であることを思い知らされた。国立競技場を、競技大会の会場として利用してきた各競技団体から当然、保存運動が起こるものと期待したが、期待に反して保存運動は起こらなかった。「これが甲子園球場だったらどうだったのだろう、かつての甲子園球児や、大会関係者はどう動くのだろう」
「青年」は、学生時代にセミナーで聞いた、日本建築史の研究者の「文化財」についての、言葉を思い出していた。

「文化財は、文化財に『指定』される前から文化財だった。」

その言葉はいたって簡単だったが、多くのことを「青年」に考えさせた。国民の「お上のお墨付きをありがたがり、重要視する国民性」を皮肉った言葉のように思えた。昨日まで殆んど訪れる人のなかった建物が、「重要文化財」に指定された途端、多くの見学者で溢れ、静寂だった町が、観光客目当ての土産物屋で活気づくことは、決して珍しくなかった。しかし、建築史家が指摘したように、建物は、「文化財」に指定される前からそこにあった、「文化財」だった。文化財に指定されることにより、蛹が蝶に変身したわけでもなく、建物は変わらず、「建物」だった。変わったのは、『文化財』に『指定』されたことだけだった。
皮肉にも、国立競技場の解体と、都営住宅の解体を少しだけ遅らせることができたのは、反対運動ではなく、東日本大震災の復興で人件費が高騰し、膨らんだ解体費用だった。入札金額が折り合わず、請負うゼネコンがなかなか決まらなかった。しかし、いったんゼネコンが決まると、解体は、予定通りに進められていった。
『学生』グループは、比例区に候補者を擁立するために、「新党・学生連合」に名前を変えていった。『主婦』グループも同様の理由から「新党・母親連合」に名前を変えていった。
 『新党・母親連合』の、沖縄に開設された「選挙支援室」に並んだパソコンのモニターには、刻々と変化する棒グラフが映し出されていた。それは、SNSで発信された、「新党。母親連合」の政策を支持するフォロワーの数だった。このシステムは元々、「学生グループ」の大学院生が開発したものだったが、女子大で政治学を学ぶ女子学生達にも、プログラムの有意性を検証するために、無償で提供されていた。当然、「新党・学生連合」もそれを使用していた。それに対して、既成政党は、与党・野党を問わずに、票の取りまとめを、相変わらず人海戦術に頼っていた。票の取りまとめに人が動く以上、掛かる費用も少なくなく、人数に比例して選挙費用は膨れ上がっていった。それに比べ、「新党・学生連合」も「新党・母親連合」も、票の取りまとめは、SNS,LINEといった、サイバー空間を利用していたので、掛かる費用は、支援室の事務所の賃貸費料のほかは、インターネット使用料・パソコンのリース代・数人のボランティアの日当だけだった。両グループの候補者の選挙活動も、パソコンを利用して行われた。具体的には、ネットのグループ専用の掲示板に提案された政策案をグループの一員として検討し、ネットのテレビ会議で討論を重ね、決定された政策を自分のブログに政策として提示し、フォロワーの数をチェックすることだった。フォロワーの数は、当然、「選挙支援室」のパソコンにも表示された。
 この十年、日本全国にくまなく張り巡らされた、光回線・ネット網が、情報の伝達を劇的に変化させていた。人の交流の殆んどない山間部に住む老人たちが、朝、タブレット端末で、「木芽・木の葉」の注文を受け、注文の分だけ山から採取し、昼前には宅配便で注文主に発送し、その日の夕方には、東京の高級料亭に届けられるといった、時間も物も無駄のない、トヨタの看板方式のようなことが、限界集落と言われる僻地の山間部で行われていた。情報の伝達手段のITの高速化・普及は、山の木芽や木の葉といった、今までなんの価値も無かった物に価値を生み始めていた。ITによる恩恵は、都会よりも山間部でのほうが、大きかった。子供が、怖がらずにパソコンに触れて、自然に操作を覚えていくように、山間部の老人たちも無邪気に、タブレットの画面をタッチしたのだった。老人たちはその点で、子供に近かった。分別盛りの初老の人達、パソコンに乗り遅れた退職後の団塊の人達とは対照的だった。情報の伝達だけに関していえば、場所性は、意味も価値も持たなかった。アドレスだけが問題で、極端に言えば、発信する場所は、国内である必要もかった。それをいち早く見抜いた、「新党・学生連合」も「新党・母親連合」も賃貸料の高い都市部に選挙事務所を置かず、賃貸料の安い地方に基点を置いたのだった。既成政党は、人手に頼っていたので、家賃の高い人口密集地・都市に基点を置くしか他に方法がなかった。
 戦後、日本の高度成長を支えたシステムが、そこかしこで綻びを見せていた。きっかけは、不動産バブルの誕生とその崩壊だった。「政治三流・経済一流」と、世界から賞賛された日本の経済も、バブル期の政治の愚策に足を引っ張られ、敗戦から奇跡の経済成長を遂げ、「ジャパン アズ ナンバーワン」と、世界から驚異の目で見られた「経済大国」の面影は、今は見る影もなく、長い出口の見えない景気の低迷に苦しんでいた。
バブル期、証券会社やシンクタンクの、上席アナリストと呼ばれる類の人々は、盛んに経営の多角化を唱え、多くの企業の経営者を煽りたて、本業と全く関係の無い分野への参入、投資を決断させた。日銀が打ち出した、総量緩和規制が引き金となって、今まで経験したことのない「バブル」が始まった。有名私立大学が、ホテル経営のために、地上げをし始めたと囁かれ始めたのもこの頃だった。頑なに本業に留まり、身の丈にあった経営を続ける社長は、陰で社員達から公然と無能呼ばわりされる時代だった。今日買ったマンションが翌日には、買値より高く売れ、買い換えるたびに、より広くより便利な場所に住み替えられるという、まるで手品のようなことが、日常的に進行していた。それが永遠に続くはずの無いことは、誰しもが薄々気がついていた。しかし、哀しいことに誰しもが「ババ」を引くのは自分ではないと信じたがっていた。庶民の誰しもが、夢にすがって生きていた。その、庶民の夢に冷や水をかけ、夢から引きずり出したのも、「バブル」を引き起こした当の日銀だった。誰の目にも異常に映る、不動産投資を抑制するために打ち出した「総量規制」が、「バブル」をいっきに弾けさせた。気がつくと、庶民の手には、しっかりと「ババ」が握らされていた。ささやかな金持ちも、相続税対策にと、銀行から半ば強制的に貸し付けられ建設したアパートは、膨大なローンだけが手元に残った。そのまま暮らしていれば何の不自由もなく余生を送れたはずだった資産は、跡形もなく消え、手元に残ったのは住み手の集まらないアパートだけだった。
「バブル」の崩壊を待っていたかのように、銀行の凄まじい「貸し剥がし」が始まった。揉み手で、半ば押し付け気味にアパート建設資金を貸してくれた銀行は、まさに手の平を返すように、貸し付けた融資の早期返済を求めてきた。銀行に抜かりはなかった。官僚の長い時間かけて磨いてきた、決して自分たちに不利にならない行政文書の作成方法と同じように、長い時間と経験から産まれた銀行の契約書に、抜かりはなかった。貸付の契約書が銀行の最強の武器だった。契約に不慣れな庶民の、まして一生に一度対面する契約書に、銀行より精通している筈がなかった。毎日のように訪問する銀行員の言葉を信じ、ろくに読みもしないでめくら印を押した契約書が、隠していた牙を剥き出して庶民に襲いかかってきた。慌てて担当の銀行員に連絡を取ると、担当者は、すでに海外支店に転勤になっていて、事実上連絡は取れなかった。そんな庶民やささやかな資産家達に対して、富裕層は、「バブル」の崩壊による痛手をなんら受けていなかった。そもそも彼ら富裕層は、庶民やささやかな資産家達のように、不動産転がしのような事に手を染めなくても、確実に資産を増やす術を持っていた。相続税に関して言えば、彼らは名目だけの資産管理会社を設立し、彼らの資産を会社名義にし、自分や子供達を役員にすることで、対策済みだった。資産を管理するだけの会社が潰れるはずもなく、その安定性は、公務員のように保証されていた。多くの場合に、資産管理会社は、「何々不動産」という名称で登記され、会社の所在地は、資産家の自宅住所になっている。資産家の当主が何時亡くなっても、資産管理会社の役員が変更されるだけで、相続税は発生しない。また、家族を資産管理会社の役員にすることで、少なくない報酬も支払われていた。銀行も、相続税対策としてのこの方法を熟知していた。しかし、ささやかな資産家に対してこの事に口を噤んでいたのは、この相続税対策は、銀行になんら利益をもたらさないからだった。資産管理会社に収まった金は、ただ黙って預けられているだけで、利子により確実に増えていく。銀行は、お金の移動によって大きな利益得るので、ただ利子だけを払い続けなければならない、預け入れられただけの「金」はある面では迷惑だった。画商が名画を美術館に売りたがらなかった。いったん美術館に収まってしまった「名画」はそれ以降、美術商になんら利益をもたらさないからだった。

かつて、「与党をぶっ壊す」と豪語した総理大臣がいた。「彼」は、積極的に規制緩和と富裕層の減税を行った。異業種の参入が業界の活性化をもたらし、雇用の拡大をもたらし、富裕層の減税による消費拡大が、消費全体の牽引となるというのが、「彼」の主張だった。
しかし、ぶっ壊されたのは「与党」ではなく、日本の産業・経済だった。規制緩和は確かに異業種の参入をもたらし、雇用の増加をもたらしたが、同時に労働者の、過酷な労働環境をも同時にもたらした。典型的な例がタクシー業界だった。規制緩和により、車の数を増やせば増やすほど、会社の収入は、車の増やした分だけ確実に増える。しかし、運転手達は、車の増加によって、限られた数の客の奪い合いが始まり、歩合制の収入は確実に減っていった。収入が減らないように、運転手は必然的に労働時間を延ばす。歩合制の運転手の収入が減っても、増車した分の売り上げが増えれば会社の売り上げが増え、経営者の給料だけは確実に増える。経営者にとってこの上ない好都合な仕組みになっていた。チェーン店・フランチャイズ店を増やせば増やすほど、各店の売り上げと、フランチャイズ料で潤うコンビニ業界、コンビニの乱立による収入の悪化で苦しむオーナー経営者といった構図が既にあったのに。「彼」に規制緩和と富裕層の減税をアドバイスした「彼」のブレーンの一人、経営者目線の大学教授は、黙殺した。ほどなく、タクシー業界は、ドライバーをいくら募集しても集まらなくなり、経営破綻するところが続出した。規制で守られてきた地方の駅前の「タクシー屋」の廃業が特に多かった。ほどなくして、業界の悲鳴に似た要請により、規制緩和は撤廃された。規制緩和は撤廃されても、一度なくなってしまった地方の駅前の「タクシー屋」は戻らなかった。乱立していたコンビニも、閉店する店舗が地方で目立つようになっていった。
 富裕層の減税が、富裕層の消費の拡大をもたらし、それが景気の回復につながり、庶民の収入も増加する。というのが、富裕層減税の大義名分だった。しかし、この政策も単に富裕層の資産を増やしたのにすぎず、庶民には何の恩恵ももたらさなかった。理由は単純だった。富裕層は、今更、消費を増やす必要がなかったからだった。今でも十二分に消費生活を謳歌していた。収入が自動的に増えていく富裕層にとって、デフレによる物価の低迷は、贅沢品の支出の減少をもたらした。減税で増えた所得は、株の投資や安定資産である「金」の購入にまわされ、消費の拡大にはほとんど貢献しなかった。景気の低迷を引き起こしていたのは、収入が一向に増えないサラリーマン家庭の、消費の引き締めと、それに起因する、個人商店の売り上げの減少だった。家庭の支出を少しでも抑えるために、真っ先に小遣いを減らされたサラリーマンは、昼食代を五百円玉一枚で済ませるようになり、世間は彼らを、自嘲を込めて、「ワンコイン亭主」呼んだ。自家用車の保有年数は年を追うごとに長くなっていった。庶民の買い替えられず、やむなく長期保有する自家用車の税金が大幅に引き上げられ、逆に富裕層の購入する大排気量の車の税金が引き下げられた。
 景気の回復は、サラリーマン家庭の消費の拡大、個人商店の売り上げの増加しかないことは、誰しもうすうす感じていた。しかし,悲しいことにこの国には、民意をくみ取ることができる政治家を、選ぶことが出来る選挙制度がなかった。
 女子高生が投稿した新聞とは別の新聞に、「議員にも資格試験が必要では」という見出しで、「一級建築士」の投稿が掲載された。
 
 「最近の国会議員や地方議員のレベルに不安を抱くのは私だけでしょうか。漢字が読めない、倫理観がない、羞恥心がないなど枚挙にいとまがありません。このような方々は議員の一部だと思われます。しかし、レベルの低い議員が次から次に現れると政治への不信が増し、選挙から足が遠のきます」という書き出しで始まり、「国民が各種の仕事に就くのには資格を求めるのに、選挙で受かっただけで、議員資格ありとするのは釈然としません」で終わったこの投稿は、明らかに国民の声を代表していた。たった一人の建築士の、「耐震偽装」により、建築士法を改正し、定期講習の義務付けや罰則の強化をしたのに比べ、提案された法案の説明が、過去の法案の説明と気づかず、野党に指摘されるまで朗々と官僚の作った原稿読み、説明を続けた閣僚を処罰する罰則がない方が大きな問題だった。
 残念なことに、「建築士」の投稿を取り上げるマスコミは現れなかった。既存政党の議員からも当然のごとく反応はなかった。議員にとっては、投稿した「建築士」のような、政治に関心を持つ良心的な有権者が、選挙から遠のいてくれたほうが、候補者から、必ず当選者が出る現在の選挙制度では好都合だったから。
 満員の地下鉄車内で、「少女」が熱心にスマホの画面に見入っていた。人混みで薄暗くなった車内で、スマホの明かりがまだいくぶん幼さを残した「少女」の顔を明るく照らし出していた。イヤーホンから進入する地下鉄特有の振動音も気にならないほど、「少女」を夢中のさせていたのは、今人気のアイドルの映像ではなく、少女の住む選挙区の、立候補者「新党・学生連合」のSNSで発信された政見ビデオだった。
「少女」は、現政権が改正した選挙年齢の引き下げにより、今年の参議院選挙から投票権が与えられていた。「少女」の見詰めるスマホの小さな画面には、富良野のラベンダー畑をバックにして、「長身の青年」が、「新党・学生連合」の選挙公約を、淡々と見る人に解りやすい言葉で語りかけていた。

 「まず、私たちのグループ「新党・学生連合」について説明をさせていただきます。「新党・学生連合」は、今回の選挙に向けて掲げた、五つの公約を実現させるために結成された団体です。政党として登録しているのは、選挙制度に従い、今回の選挙で候補者を擁立するためです。私たちは、この「新党・学生連合」を既成の政党のように、常設化するつもりはありません。今回、私たちが公約に掲げた「五つの公約」が実現できた段階で解散する予定です。私たちの擁立する立候補者の誰しもが、「職業として政治家」を志してはいないからです。公約が実現された後、議員としての任期が終われば、各メンバーは、各々休学・休職届けを出した、大学院・研究所に戻り、元の研究者に戻ります。公約の実現のためだけに結成された一時的団体です。五つの公約の実現こそが、私たち国民に、今より、より良い生活をもたらしてくれると信じているからです。今まで私たちはより良い暮らしの実現を、既成の政党・政治家に期待してきました。しかし、私たちはそれが無理な期待であることを、私たちが行った二度の法案成立反対運動を通して痛感しました。「特定機密保護法の成立反対運動」・「安保関連法案成立反対運動」の二度です。「今の政党・政治家たちでは、民意を反映した政治を実現できない」。私たちが身を持って痛感したことです。現与党、特にその党首である現「総理大臣」が実行した政策。また憲法改正を始めてとしてこれから実行しようとしていること。これらは、決して私たち国民をより良い方向には導かないと信じるからです。それらを阻止するために、私たちは自ら行動することを選択しました。私たちは政策の立案能力にかけては、既存のどの政党よりも優っていると確信しています。それは、私たちメンバーと、私たちの考えに賛同する協力者たちは、政治・経済・法律・行政・建設等で活躍する第一線の研究者・実務者だからです。私たちは自分たちの研究を、単に従来の研究者たちのように、研究室の中に留めて置くのではなく、実社会に活かそうと考えています。抱える問題点の調査・資料収集には現役の大学生が協力してくれます。彼らの機動力と、大学院生の知識を最大限に発揮してもらいます。彼らも研究のための研究ではなく、自分たちの研究が実社会で役立ち、国民にとってのより良い社会が実現することを望んでいます。私たちの最大の強みは、政策の立案に多くの時間がさける点にあります。「学業・研究イコール政策の立案」ということが、なんら矛盾しないからです。景気の停滞する今、会社員・中小企業の経営者・個人商店の店主さん達は、現在の状況に対応する事に追われ、現在の政治に対する不満や矛盾感は感じていても、なかなか実際に行動するだけの時間的余裕がないのが実情だと思います。」
 気負いのない自然な姿で語りかける『長身の青年』の眼は、勁よい意思で輝いていた。それは今までの既成の政党の候補者には決して感じられなかった勁よさだった。
 青年の脇に、「新党・学生連合」が掲げる五つの公約が、見やすい大きな文字で、映し出された。

一 「公職選挙法の改正」
   ノーと言える選挙制度の確立
二 「憲法改正阻止」
   世界に誇れる平和憲法であるこの国の憲法の堅持。特に第九条の改正阻止。
三 「格差社会の解消」
   例外のない、同一労働・同一賃金の確立 
四 「政党助成金・企業献金の全面的廃止」
   金権政治からの真の脱却
五 「原子力に頼らない電力供給」
   原子力発電所の順次撤去。原子力発電所から発生する放射性廃棄物の処理を次世代にまわさない

   テロップに続いて「長身の青年」が、各公役の説明を、語りかけるような、ゆったりとした口調で始めた。

 「私たちはまず、「公職選挙法の改正」目指します。現在の、立候補者の中からほぼ確実に当選者の出る現在の公職選挙法では、民意を代表する政治家が必ずしも選出できないと考えるからです。具体的政策として、「公職選挙法」を改正し、投票用紙の立候補者の氏名を記入する欄とは別に、「選ぶべき候補者がいない」という欄を新たに設けます。そして、「選ぶべき候補者がいない」を選んだ投投票数が、選挙区の有効投票数の二分の一を超えた場合には、その選挙区の当選者は、「ナシ」とします。「選ぶべき候補者がいない」という投票が、過半数を超えない場合は「選ぶべき候補者がいない」の投票数を上まわった票を獲得した候補者の中で、最も得票数の多い候補者を当選者とします。有権者はこの選挙制度の改正で、自分の選挙区の候補者の中に、議員として選出するべき候補者がいないと判断した場合、積極的に政党・立候補者達に「ノー」という意思を伝えられます。今までは、投票の棄権という手段でしか「ノー」と意思表示できなかった、政治に真摯に向き合う有権者も、積極的に意思表示でき、投票率も上がることと思います。現在の投票率の低さは、政治に対する無関心ということより、政治家にたいする「ノー」という意思表示の方法の欠如にあったといえます。既存政党がつくりあげる「落下傘候補者」にも着地点はなくなるのです。立候補者も日頃から、選挙区の有権者と積極的に交流を持たざるを得なくなると期待されます。また、当選者を、「ナシ」とすることにより、無駄な議員の削減も有権者の意思で可能となります。議員数の削減を、議員自身に期待することが間違っているのです。
 「憲法改正の阻止」、憲法、特にその中の第九条を、今回の選挙で過半数の当選者、を獲得し、衆参両院で絶対多数の力を持って、押し進めようとする動きがあります。残念なことに、現在の野党が協力しその全ての力を集めても、与党の過半数確保を阻止できないでしょう。国民は過去何度か、戦後長く続く与党の政治に疑問を感じ、野党に期待して投票しました。それは時に大きな流れとなり、野党の連立政権を産み、また、二大政党を目指した野党に投票し政権を委ねました。しかし、何れの野党政権も短命に終わり、国民の期待に答える事はできませんでした。二大政党制を掲げて政権政党となった、現野党の場合は特に悲惨でした。大震災という、未曾有の災害が発生したことを差し引いても、政権運営能力のなさは隠しようもなく、政権政党として迎えた最初の選挙で大敗し、再び現与党が政権政党として返り咲いたのです。
 憲法第九条を改正しようとする政治家達の改正の理由として、自衛隊の存在を取り上げ、第九条の形骸化を指摘します。自衛隊は既に、第九条の規定に違反する軍事力であるという主張です。軍隊を既に保有している以上、憲法第九条の改正が必要であるという主張です。自衛隊の持つ装備に着目して、その装備がすでに自衛の枠を超え、軍隊の装備であるという主張です。私たちは明確にこの主張に異議を唱えます。理由は単純です。自衛隊は、その装備で、自衛隊か軍隊かを判断するべきではなく、その装備を何に向けて使用されるかで判断されるべきと考えるからです。未曾有の大災害であった東日本大震災の時、ヘリコプターやトラックで東北の地に駆けつけ救助に当たった自衛隊を、軍隊と感じた人が一人でもいたでしょうか。放射線被爆の恐怖の中で、懸命に、文字通り命懸けで、爆弾ではなく大量の水を何度も原子炉に投下した自衛隊は、軍隊だったのでしょうか。ヘリコプターは兵器だったのでしょうか。自身も先の戦争で、戦車隊の一員として従軍した国民的作家が、著書で指摘されていたように、自分達国民を守ってくれると信じていた軍隊が実は、軍上層部の保身と、一部の資本家・財閥のためのものであったことを歴史は教えてくれます。今、第九条を改正しようとする政治家達には、先の戦争時の財閥や軍首脳部とおなじ臭いを、私達は感じます。自衛隊が国民を守るために使用されるのであれば、紛れもなくそれは自衛隊です。しかし、外国を侵略するために使用されるのであれば、それは疑いもなく正真正銘の軍隊です。私達は先人の過ちを繰り返してはいけないのです。尊い犠牲を強いた過ちを繰り返してはいけないのです。また、憲法改正論者の改正の理由として、現在の憲法は、GHQから押し付けられたものであり、この国が自主制定したものではない。だから、自分達の手でこの国憲法を、自主制定しなければならないと主張します。この件にかんして、私たちのメンバーの現代政治史の研究者は歴史の検証から次のように反論します。

『敗戦後、この国の民主化のため、GHQよりそれまでの「帝国憲法」に替わる国民主体の憲法の制定を、時の政府は求められました。自主憲法の制定の機会は、この国に与えられていたのです。しかし、新憲法の草案作成に当たった憲法学者は何れも、「帝国憲法」の亡霊から逃れられず、民主主義に則った国民主体の新憲法を立案することが出来ませんでした。そのためGHQは、この国が再軍備し、自国の国民、周辺諸国を中心とした世界平和の脅威と再びならないよう、細心の注意の下、現在のこの国の憲法の草案を作成しました。幸いなことにそれは、かつてのこの国の軍の参謀本部の軍人ように、自国の安全地帯で戦争の指揮をしていた者ではなく、過酷な最前線で戦争の悲惨さを、身を持って体験した軍人が参加することにより、草案を作成した軍人の自国にもないような戦争放棄、第九条を含んだ平和憲法が生まれたのです。平和を希求するシンボルと言える第九条のおかげで、先の戦争の後に起こった数々の国際紛争(戦争)にも、この国は巻き込まれずに済みました。「この国は、金は出すが人は出さない」と幾度となく国際社会から揶揄されようとも。戦後七十年、平和な国家でいられた事が、東洋の奇跡と呼ばれた、この国の経済繁栄の理由のひとつであることは、誰しも異存のないことと思います。誰が決めようと、良いものは、良いのです。』
 先の戦争では、職業軍人が本来守るべき国民に対して、多大な犠牲を強いました。敗戦が濃厚であるのにも拘わらず、私たちと同年齢の将来を担うべき学生が、「学徒動員」で強制召集され、十分な訓練も受けずに戦地に送られ犠牲になりました。その犠牲を強いた参謀と呼ばれた集団は、常に後方の安全な場所から指示を出すだけで、最後まで最前線に立とうとはしませんでした。連合国軍からBAKA・BAMBと嗤われた、爆弾に人を乗せた必死兵器の「桜花」は、ただの一機も敵艦に到達することはありませんでした。敗戦までのわずかな期間に、八百二十九人の桜花搭乗員の命が犠牲となりました。戦後、アメリカ軍が公開した、戦闘機のガンカメラに映し出された、一式陸上爆撃機が、重い桜花を機体に吊り下げ、機首を左右に振り、必死に戦闘機の機銃掃射避ける光景は涙なくして観ることはできませんでした。やがて被弾し、火を噴き大きな弧を描きながら墜ちていく一式陸攻には、私たちと同年齢の七名の搭乗員が、そして吊る下げられた桜花には一名の、計八名の命がそこにはあったはずです。「長身の青年」の言葉が一瞬詰まり、瞳から涙が零れ落ちた。しかし、「長身の青年」その涙を拭いもせず、また語り始めた。
 「格差社会の解消」の実現のためには、労働派遣法・パートタイム労働法・労働契約法の改正を目指します。各省庁が作成した各法令の条文の見直しをします。官僚が作成した条文の、あえて残した解釈の多様性が、国民(労働者)にとって不利益になっていると考えるからです。条文の解釈の多様性が、「同一労働・同一賃金」の実現を阻んでいると考えるからです。私たちグループの、労働法関係の法律を研究する研究者たちが、労働者目線に立ち各法律を検討した結果、まず改正しなければならないのは、どの研究者も同様に、労働契約法の第二十条だと指摘しています。この条文からまず手がけます。研究者たちが、EUの労働政策参考にして改正の骨子をつくります。
老後の生活の不安が、若者の消費を鈍らせ景気の回復を遅らせています。老人が生活の不安なく暮らせる社会は、当然若者の将来にも優しい社会です。財源は、大企業の役員報酬の上限を定め、それ以上の報酬の部分には、高い税率を定めます。そもそも、一般社員と役員の年収が何百倍もの開きがあること自体が異常です。この事態は、経営者たちが自分達の都合の好い部分だけ、企業の国際化、報酬の国際化を唱え、一般社員と経営者の格差を広げたのに過ぎません。企業の国際化という意味の悪意のある解釈といえます。つい最近も、この国を代表する家電メーカーのトップに、欧米人がつきました。彼は企業に何の業績の回復をもたらせなかったにもかかわらず、巨額の退職金を懐に自国に戻ったのは記憶に新しいことと思います。今や世界のトップに躍り出た自動車メーカーのトップより、生産量で半分にも満たない自動車メーカーの外資から着任したトップが、何十倍もの報酬を貰うことについて、過酷なリストラを受けた従業員や、工場閉鎖で活気のなくなった商店街の店主たちは納得しているのでしょうか。それが国際化というのであれば、そんな国際化は必要ありません。今、企業の利益は、社内留保・株への配当というかたちで、社員に還元することなく、蓄積・流出しています。会社の利益を産み出したのは、一人一人の社員であり、株主ではないのです。私たちは、そこにメスを入れます。
「政党助成金・企業献金の全面的廃止」国民主体の政治では当然のことといえます。イタリヤでは、この国の政党助成金と同様の政党交付金は、1993年の国民投票で廃止されました。そもそも、企業からの献金が政治を歪めているという、極めて適正な判断から企業からの政治献金を禁止し、国民の尊い税金から、政党を助成するために制度化したのにもかかわらず、現政権で企業献金が復活し、政党助成金と、企業献金という二重取りの甘い汁吸う、政治家に助成金も献金も不要です。既成政党の政治家には改革は期待できません。金のかからない政治・選挙を私たちは実現します。今回の選挙でまず、お金の掛からない選挙を実行してみせます。

「原子力に頼らない電力供給への移行」
東日本大震災そのものは、未曾有の天災でした。しかし、その後に発生した、津波による原子力発電所の事故は明らかに人災でした。地震の少ない欧米の安全基準を、熟慮なしに「ターンキイ方式」という、設計から竣工までを外国人任せにすることを受け入れ、導入した電力会社のトップの無責任と、推進した政治家の思慮のなさが招いた人災です。原子力による発電方式の最大の欠陥は、燃料のウランと、発電後に発生するプルトニウムが発生する放射能が、人類に有害であるのに、それを安全に処理する方法が、現在確率されていないと言う事です。発生したプルトニウムが、人類に無害になるまでの管理に、今までに人類が経験したことない長い時間を必要とすることです。この国の事故を受け、ドイツはいち早く老朽化した原子力発電所を停止し、残る原発も2020年までに廃炉にすることを決定しました。ベルギーとスイスは、原子力発電所の全廃を掲げています。いち早く廃炉を決断したドイツのメルケル首相は、科学アカデミーの研究員時代、理論物理学を専攻し博士号を持つ、物理学者です。物理学を学び、原子力の持つ、放射能の恐ろしさを誰よりも知っていたことが、この国の事故をきっかけに、自国の原発全廃を決断させたのでしょう。私達のメンバーの若手物理学者、特に原子力の専門家は、原子力発電を推進する電力会社の、発電コストの比較おいて、原子力発電が優位であるということに疑問を感じています。理由は、原子力発電により発生する放射性廃棄物の処理にかかる費用が、コストの計算に含まれていないからです。現在、放射性廃棄物を人類の手で、短期間に無害化する技術はありません。長い年月をかけ密閉容器に保管し、放射能が半減するのを待つしか方法はありません。石油・石炭・天然ガスといった化石燃料からでる、二酸化炭素や灰といったものは、人類の手でコントロールできます。クリーンエネルギーと呼ばれる風力発電・太陽光発電からは有害な物質は発生しません。化学プラントの設計者は、プラントを設計する時、万が一、配管等に問題が起きて、中の物質が漏れ出しても、人体に影響が出ないように設計します。配管他のトラブルは避けて通れないからです。原子力の恐ろしい点は、漏れ出した放射性物質を人間が処理するために近づけないという点です。現在、人類の持つ英知を持っても解決できない恐ろしい問題です。今現在も、放射能汚染地域からの非難生活者は、数万人います。故郷に帰ることなく、生涯を終える人たちも、決して少なくないでしょう。残念ながら私達も、今すぐに、原子力からの脱却は出来ないと思います。しかし、この問題を私達の世代で解決する努力をします。既に私達グループの若手研究者のグループが、原子力に替わるエネルギーの研究に国境を越えて結集しています。インターネットに国境はありません。時差も問題ではありまでん。私達には十分ではないにしろ、時間があります。大切なのは、実行する熱意です。私達にどうか、この五つ公約を実行する場を、実現の機会を与えてください。』
 二十分にわたる、公約の説明を終えた「長身の青年」の顔は爽やかな笑顔で満たされていた。深々と頭を下げる彼のポロシャツの胸には、「WASURENAI 3・11」と鮮やかな真紅の糸で刺繍が施されていた。それは、震災の仮設住宅の空き部屋に事務所を設けた彼らの、隣に住む老婆たちが無償で仕上げてくれたものだった。

 少女は「いいね」のアイコンと「フォロワー」のアイコンを素早くタップすると、あわててスマホの画面を閉じた。聞きなれた車内放送が、次の駅が少女の降りる駅であることを、イヤーホン越しに告げていたからだった。

 「新党・学生連合」はあえて参議院議員選挙には、立候補者を立てなかった。国会は、「衆議院の優位性」の原則により、衆議院で可決した法案を、参議院は覆すことが出来ない。例え衆議院を通過した法案を参議院が否決しても、その法案は衆議院に持ち帰られ、再度審議したのちに、一定の期間を経ると衆議院の決定が優先される仕組みになっていた。初めて望む選挙に、候補者の数を増やすことより、貴重な人材を衆議院選挙に集中する事のほうが、はるかに戦略的に有利だった。「突破力は戦力を集中するほど威力を増す」兵法の鉄則だった。
 「新党・学生連合」に比べ、「新党・母親連合」は候補選びに手間取っていた。家庭を持つ母親・主婦が中心メンバーであることが、候補者選びを遅らせていた。「新党・母親連合」のメンバーの家族は、いずれも協力的だったが、当の本人たちが、家族に割く時間が極端に減ることに対して抵抗があった。まさしく彼女らは、母親であり主婦だった。しかしその事は、社会学を研究するボランティアの女子大生の一つの提案で、あっさりと解消した。立候補者の母親・主婦が当選し、議員に成った段階で、その議員を,十人の母親・主婦で支援するという、シンプルな解決策だった。議員報酬は、議員・支援者の十一人で分配する。議員報酬の分配金は、パートで得る収入よりはるかに効率的で、高収入になった。
 「新党・母親連合」も参議院選挙には候補者を擁立しなかった。その点は「新党・学生連合」と連絡を密に取り、抜かりなかった。
 「新党・母親連合」が掲げた公約も五つだった。公約についての親切な説明は、SNSで発信され、興味をもった人誰もが、手の空いた時間に、スマホやパソコンで自由に見ることができた。

 沖縄の碧く澄み切った海をバックに、「新党・母親連合」の公約が、ゆったりとした口調とテロップで流れていた。「新党・学生連合」の時とは違い、画面には誰も登場しなかった。母親の選挙活動により、心無い人から、子供が「いじめ」を受けないための配慮だった。
 「新党・母親連合」公約は次の五つだった。

一 「子育て世代の積極的支援・共稼ぎ家庭の減税」
二 「老後を安心して暮らせる社会の樹立」
三 「女性国会議員定数の法制化」
四 「沖縄を経済特区に指定」
五 「公職選挙法の改正」
   ノーと言える選挙制度の確立

 テロップに続いて、母親特有の子供に言い聞かせるような優しい口調で、公約の説明が流れてきた。静かな沖縄の海の景色をバックに。
『 「子育て世代の積極的支援」
私たちは、待機児童ゼロの達成を実行します。若い共稼ぎの家庭にとっての一番の問題点は、子育てと仕事の両立です。子供を産むことによって、仕事を辞めなければいけない事が、子供を産む事を躊躇させていると思います。若い世代は夫の収入だけでは、生活が苦しいから、やむをえず妻も働いているのです。許認可保育施設に入れない、世間で言われる「待機児童」をゼロにすることは、女性が、長く仕事に就くことを可能にすると思います。女性が仕事に就くことは、今深刻な問題になっている人手不足の解消につながると思います。女性が働くことによって、世帯の収入は増えます。当然支出も増えるでしょう。消費が増える事によって、景気の回復も期待できます。待機児童は、2002年の時点で、4万人いました。その半分の2万人の母親が仕事に就くことができれば、大変な労働力になります。特に女性は、大企業より中小企業で働くことが多いので、大企業より深刻な人手不足に悩む中小企業の助けになります。財源は、居住用以外の不動産、アパート・マンション・貸し駐車場・貸店舗などからの、不労所得の税率を引き上げることで確保します。また、富裕層の資産管理会社の課税強化によって確保します。

「老後を安心して暮らせる社会の樹立」
これは、若い人たちの消費が停滞しているのは、将来の生活への不安が大きく関係していると実感しているからです。公的年金の支給の不安が、収入の多くを買いたいものを我慢して、貯蓄に回している事は明らかです。年金保険料の引き下げと、支給額の引き上げをします。財源は、公務員の共済年金を国民年金へ移行することで確保します。また、公務員の、とくに、日銀総裁の報酬を筆頭に、独立行政法人の理事・役員の報酬・退職金見直し、引き下げを行います。いったい、総理大臣より高額な日銀の総裁の、年間3500万円給与はどんな根拠から決められたのでしょうか。
人口は減るのに、いっこうに減らない公務員の定数削減。役所や役場を用事で訪れた時、誰しもが感じるのは、「この中のいったい何人がフルで仕事をしているのだろう。民間企業だったら、半分で済むのでは」といった疑問ではないでしょうか。ここ何ヶ月か、痛ましい児童虐待死の問題が新聞、テレビで取り上げられました。通っている学校、教育委員会、児童相談所の対応の拙さがクローズアップされています。政府は児童相談所の職員数が足りないことが原因とし、相談員を増加することに閣議決定しました。本当に数は足りないのでしょうか。民間企業であれば、まず、社員の働き状況を調べ、問題点を洗い出し、現状の人員で対処する方法を考えるでしょう。公務員は問題が発生するたびに、その数を増やしてきました。しかし、問題はいっこうに解決していないと思います。大学を始めとする研究機関に公務員の適正数を出してもらい、余剰人員を介護施設に、十分な教育の後、就いていただきます。民間では当たり前の配置転換を「公僕」である公務員で積極的に行います。このことは、介護職の待遇改善にも大きな前進になると思います。公務員が、自分自身の待遇を良くするのは、手馴れた作業なので。
公務員、特に国家公務員の退職後の共済年金と国民年金の支給額を比較し、格差をなくします。もともと、公務員の給料は、税金が使われているのです。納税者より支給額で優遇される根拠がありません。今は死語になってしまいましたが、公務員は国民の「公僕」なのです。老老介護のための早期退職者が出ない環境を整備します。母親や父親の介護のために、多くの働き盛りの会社員が、退職に追い込まれています。労働人口が減る中、ベテランと言われる彼ら彼女らの退職は、企業にとっても大きな損失です。個人事業者、定年退職者を含めて、老老介護を公的機関を設置し対応します。財源は、株の短期取引にかける税率の大幅引き上げによります。株取引の本来の目的は、現在の状態を予想していたでしょうか。一秒の何分の一かで利益を得る今の状態は、異常だと私たちは考えます。マネーゲームは、必要ないのです。文字どおりの「不老所得」の課税強化を行います。

「女性国会議員定数の法制化」
 現在の国政には、あまりにも女性目線の政策が少ないと感じています。それは、女性国会議員の数が、男性議員に対して余りにも少ないことが原因だと思います。国会議員の中で女性議員の占める割合は、世界平均で、約20パーセントです。日本は、約12パーセントで世界147位。ドイツは約36パーセント。イギリスは約24パーセント。アメリカは約20パーセントです。私たちは、女性議員の割合を少なくとも、世界平均の20パーセントするために、国会議員定数の20パーセントを、女性とする法案を提出し、実現にむけて行動します。一時的には、議員を確保するために、定数合わせの議員も誕生し、混乱するかもしれません。しかし、長期的にみれば、女性議員が増えることによって、男性化する女性議員も減り、男性議員には、発想できない母親目線の国民に優しい政策が実行できると考えます。

「沖縄県を税制面での経済特区に指定」
沖縄に本社を置いた企業への法人税の積極的減税を行います。特に外資系企業を優遇します。沖縄に外資系企業を積極的に誘致する訳は、沖縄が直面する基地問題を世界に認知してもらうためです。残念ながらこの国は、自国の人々の声より、外国の声に敏感に反応する癖があります。同じ事を主張しても、与える影響は天と地の違いがあります。最近の例をとっても、女性厚生省事務次官が、冤罪により一年以上拘置所に拘留されても、世論・マスコミはその不当性についてなんら話題にしませんでした。それが、自動車メーカーの外国人会長が逮捕され、保釈請求が棄却され、数ヶ月拘留されたことが海外のマスコミに大きく取り上げられ批判されると、マスコミや評論家たちは、一斉に拘留の不当性(人質拘留)を取り上げ、日本の司法制度が国際的に遅れていると騒ぎたてます。私たちは、この外圧に弱いこの国の国民性を利用し、沖縄の基地問題を早期解決できるようにします。沖縄に米軍基地が集中することにより、何度も被害を受けてきたのは、無辜の少女たちです。男性議員にはこの問題の解決は期待できないのです。目立った産業のない沖縄県は、確かに経済的に基地に依存しています。しかし、それは歴代の政府が、基地の存在を前提に政策を進めてきた結果です。前提を少し変えてみいれば、今までとは全く違った世界が見えてきます。基地問題解決のために、私たちは基地の隣接地に、国際的なアミューズメントパークを誘致します。既にこのことについて、運営会社と大筋で合意が取れています。平和のシンボルである人気キャラクターの頭上を、戦闘機が発着するのです。アミューズメントパークの誘致は、確実に沖縄の雇用の拡大につながります。また、アジア周辺各国からの観光客は、この国の抱える基地問題を痛切に感じることでしょう。ペリーの黒船の再来は必ずあると信じます。

 「公職選挙法の改正」
   ノーと言える選挙制度の確立
この公約は、皆さんも既にご承知のように、「新党・学生連合」がまっさきに掲げている公約です。私たち「新党・母親連合」もこの公約の実現が、私たちのこの国の政治を、革命的に変えられると信じています。一女子高生の投げかけた問題を「新党・学生連合」と同様に実現していきたいと思います。

 今回、私たちが掲げた公約実現のための財源として、高級官僚・役人といった公務員の給与、待遇面の改革を取り上げました。このことは、公務員の反感を買い、確実に公務員の支持票が減ることでしょう。しかし、あえって私たちがこの問題を取り上げたのは、公務員改革が、私たち子供の時代に、先延ばししてはいけない重要なことだと感じていたからです。既存の政党は、与党・野党にかかわらずこの問題を避けてきました。いかに効率良く票を集め、選挙を優位に戦うかに腐心してきたからです。国民の生活は二の次で、まず自分達の職の確保が最優先されてきました。知らない内に国民は、「公僕」に仕える「下僕」になってしまっています。この公務員改革についての提案は、現職の公務員の妻や母親が提案をしました。彼女たちの、自分の身を削ってまで、この国をより良いものにしようという姿勢は、他のメンバーの心を動かしました。
以上で私たち「新党・母親連合」の公約の説明を終わります。
どうか私たちに、この公約の実現の機会を与えてください。』
祈るような口調で終わった「新党・母親連合」の女性・母親目線の主張は同姓だけでなく、男性にも深い共感を与えた。

 おりしも、世間の注目を集めた、認知症の老人が引き起こした鉄道事故に対する最高裁の判決が下された。一審、二審は、家族の監督義務を厳しく求め、家族に鉄道会社への賠償を認めるものだったが、最高裁は一審・二審の判決を覆し、家族の賠償責任を否定する判決を下した。判決の成り行きを、固唾を呑んで見詰めていた、認知症の老人を抱えた家族は、一応に胸をなで下ろした。明日は吾身かもしれないと、切実に感じていたからだった。判決を下したのは、数少ない女性裁判官の一人だった。単なる法文の解釈に偏らない、人の暖かい心を感じさせる、素晴らしい判決だと誰しもが感じた。確実に、風向きは「新党・母親連合」向かって吹き始めていた。
 「新党・母親連合」の公約説明の間に映されていた波打ち際の風景は、何時しか、今まさに、水平線から朝陽が昇る風景に変わっていた。

 政治に対する不信感、不満はこの国だけのものではなかった。アメリカでは、「ミレニアル世代」と呼ばれる、1980年代から2000年に生まれた若者たちが、大統領選挙の予備選挙を、左右するまでの勢力になっていた。彼ら世代は、日本以上の格差社会に苦しんでいた。格差社会から抜け出すためにかかる大学の学費は、巨額な学資ローンとなって、卒業後の彼らを苦しめていた。アメリカの一流大学の大半は私立で、卒業までにかかる費用は、日本の大学の比でなかった。不景気による就職難がさらに追い打ちをかけていた。「アメリカは今行き詰っている」不満は若者だけのものではなかった。大統領予備選挙で、国粋主義者・差別主義者と取られかねない発言を繰り返す野党の候補が、急速に支持を集めていた。それは明らかに、現在の政治に不満を持つ人たちの、不満のはけ口になっていた。そのことに危機感を持った与党と野党の一部議員が、彼の阻止のためだけに手を組んだ。私たちのこの国でも、唯一結党以来その政党名変えていない左派の野党が、現政権からの政権奪還を訴えて、他の野党との選挙協力を呼びかけた。その左派の政党は、選挙の度に自党の候補を各選挙区に擁立した。しかし、そのことは、悪戯に野党の票を分散させ、与党を助けさせていた。唯一、政党助成金を受け取らないこの政党と、共闘することに、初めは躊躇していた他の野党も、与党のこれ以上の勢力拡大に対する危機感から、若手議員を中心に共闘が始まった。共闘の中心となったのは、「女子高生」の新聞への投稿にいち早く反応し、党派を超えた勉強会を立ち上げたあの、当選回数一回の若手議員たちだった。
 人が、昆虫のように固い殻で覆われず、柔らかい皮膚で覆われているのは、人が人の痛みを知るためだった。しかし、政界という、どす黒く淀んだ甘い水に、どっぷりと浸かった政治家たちは、自分たちの保身のために、徐々に、その当選回数と同じだけの数の硬い殻で覆われていった。全く本人の自覚なしに。
 衆参両議院同時選挙の投票日が告示されると、各選挙区の街角に掲示板が設置され、候補者のポスターが貼りだされた。いつもの選挙同様そこには、普段見ることの出来ない、満面の笑みで満たされた候補者たちの顔があった。「新党・学生連合」と「新党・母親連合」の候補者のポスターも当然その中にあったが、他の党の候補者と一見して違っていたのは、両党の候補者で笑顔の候補者は、誰一人としていなかった。両党の候補者はいずれも、口元をきりりと結び、見る人に勁い意思を印象付けた。両党の、統一されたポスターの背景の色も、遠くからでも両党の候補者であることを教えてくれた。ポスターの背景の色を統一することは、「新党・母親連合」のボランティアスタッフのアイディアだった。美大で、「背景の色による人物の印象度の違い」を研究テーマにする、大学院生の提案だった。
 「新党・学生連合」と「新党・母親連合」のSNSにはリンクが張られ、互いの情報を共有することができた。両党は、「民意を反映できる政治の確立」という共通の問題意識で協働していた。それは、一女子高生の投稿が蒔いた種が、確かに花を結ぼうとしていた。
 両党のフォロワーの数は日増しに増え、その数は八桁に達していた。その中には悪意のフォロワーも当然いたが、それらは、「自動追跡プログラム」により、瞬時に発信元が特定された。多くは、既存政党の支持者だった。悪意のフォロワーの追跡プログラムを作成したのは、「新党・学生連合」のメンバーの、専門学校でプログラミングを教える「若手教師」だった。「若手教師」は中学生時代に苛めに遭い、不登校になった。今まで仲の良かった親友が、ある日突然、苛めグループの一員になっていた。苛めグループのリーダーは、自分では手を下さず、彼の親友に、彼を苛めさせた。その方がより苛めの効果が増すことをリーダーは知っていた。親友がリーダーの命令を、断れなかった理由はたった一つだった。リーダーの命令を断れば、苛めの対象が一転して、彼から自分自身になることを、親友は今までの経験で知っていたからだった。その点で彼を苛めた親友も、苛めの被害者だった。学校は、苛めの解決には無力だった。「若手教師」は不登校になった。心の成長期に、苛めに遭った経験が「若手教師」を極度の人間不信にした。人間の曖昧さ、不確かさが「若手教師」を極度の人間嫌いにした。そんな「若手教師」の唯一の救いは、決して学校に行くことを強要しなかった、両親の寛容さだった。しかし、寛容な両親も、「若手教師」が学ぶ事を止めることは許さなかった。「若手教師」も学校で学ぶ事に興味をもち始めていた。今まで知らなかった事を知ることは、彼をワクワクさせた。父親が、社会人向けの中学通信講座をさがして、「若手教師」に受けさせた。それは、この国がまだ貧しかった頃、十分に教育を受けられなかった大人向けのものだったが、その教育内容は通常の義務教育と、なんら変らなかった。通信教育で学ぶことは楽しかった。添削されて返ってくる答案が待ちどうしかった。五教科の中でも、数学が特に「若手教師」のお気に入りだった。数学以外の教科は、覚えること、記憶することが中心だったが、数学は、まず手段を学び、その手段を使って新しい問題を解き、答えを見つける。数式は曖昧さがなかった。そして、「若手教師」の期待を決して裏切らなかった。「若手教師」は高校へは進学せず、独学で数学を学ぶようになっていった。やがて、コンピューターのプログラミングに関心が移っていくのは自然なことだった。「若手教師」は何時しか、ホワイトハッカーとして、ハッカー仲間で、恐れられる存在に成っていった。きっかけは、「若手教師」のコンピューターがハッカーの送り込んだウィルスに感染し、二度と起動しなくなってしまったことだった。パソコンは「若手教師」を決して裏切らない親友であり、ネットを通してたくさんの事を教えてくれる、大事な教師でもあった。ネット上に悪意のハッカーの情報を公開する「若手教師」は、「ホワイトハッカー」と呼ばれるようになり、悪意のハッカーたちから心の底から恐れられた。匿名性だけが、悪意のハッカー自身を守る鎧だったが、その鎧をいとも間単に破ってしまう「若手教師」のメールは、ハッカーを一瞬にして殻を脱いだヤドカリにした。ハッカーが自分自身を守る術はなかった。海外の複数のサーバーを巧みに経由させ送りつけたメールが、いとも簡単に返送されてくることが、ハッカーたちには、にわかに信じられなかった。しかし、「若手教師」はネットのシステムの曖昧のなさを信じていた。一つ一つ適正な手順を踏めば、数式を解くように発信元に辿り着く事も約束されていた。しかしその事は、人並み外れた細心さと、根気が要求された。「若手教師」にとってそれは苦痛ではなく、快感だった。一つ一つの手順を踏んで、発信元に近づいていく作業は、登山家が、未踏峰の頂を目指すのに似ていた。「今日は第一キャンプまで、明日は第二キャンプまで」と、一歩一歩の歩みを止めない限り、その足取りは、確実に頂に近づいていく。
「若手教師」が、「新党・学生連合」「新党・母親連合」の使用するパソコンの全部を、常時ハッカーの攻撃から防御している事は、すぐに、悪意のハッカーたちの知ることとなった。なにも知らないハッカーが、「若手教師」に攻撃を仕掛け、見事に逆襲され、その正体をネット上に曝されたからだった。
「若手教師」のような人材は、今の教育システムの中では決して誕生しなかっただろう。事実をいかに多く正確に記憶したかが、たった一度の試験により勝者となる、現状の入試試験のシステムでは。教える側にも問題はあった。苛めが問題となり、マスコミに顔を曝した、教育委員会、校長の顔は一様に、何かに立向かい傷ついてきた顔とは程遠く、いかに自分のキャリアを傷つけないかに腐心してきた高級官僚の「柔らかい顔」に似ていた。
 並みのシンクタンクを凌駕する、若い優れた頭脳が、「新党・市民連合」に集まっていた。
 選挙は、投票日まで残すところ数日となり終盤にさしかかっていた。ここまで来てようやく既存の政党は、与党・野党にかかわらず、今回の選挙の、今までと様相が違う異常さに気づき始めていた。今まで、党首や知名度の高いタレント議員が駆けつけた、ターミナル駅での街頭演説には、徴集された党の支持者だけでなく、多くの有権者が集まったが、今回の選挙では足を止める人は驚くほど少なかった。行き交う有権者の視線は、選挙カーの上の候補者や、応援のタレント議員ではなく、スマホに注がれていた。山間部や家屋の密集度の低い、選挙過疎地域ではいつもと変わらない静かさが保たれていた。それは見慣れた、いつもの選挙と変わらない風景だった。大きく変化したのは、限界集落と呼ばれ、今まで選挙から取り残されてきた地方だった。限界集落の老人たち誰しもが、木の芽注文のために、手渡されたタブレット端末により、「新党・学生連合」と「新党・母親連合」の補者たちの公約を聞き、自分たちの孫の顔より頻繁に候補者を眼にしていることだった。選挙前に、左派の野党が呼びかけた選挙協力は、思いのほか上手く機能していた。国民の誰しもが、与党の民意を無視した国会運営に危機感を感じていた事が追い風になっていた。与党は、この段階でも危機感は薄かった。
 音楽を楽しむ方法が、この三十年でレコードから、テープレコーダー、CD,MD,メモリー、そしてスマホへと劇的に変化していた。選挙戦の手法だけが変わらずに来たことのほうがむしろ異常だった。若者、特に学生を中心とした「新党・学生連合」、と、女性特に母親を中心とした「新党・母親連合」が取った、まさしく眼には見えない「サイバー空間」で進められている選挙手法に、従来の豊富な選挙資金を使い、大量の人や物を動かす従来の選挙戦術に相変わらず依存する、既存の政党は、なんらこの両政党に対抗することはもちろん、対応することすら出来なかった。
 投票日を間近に控え、各新聞社の朝刊の第一面は、街頭での有権者への聞き取り調査で埋めつくされていた。選挙の結果予想には、どの新聞社も慎重だった。ただ確かなことは、「新党・学生連合」と「新党・母親連合」のSNSでの支持者の数が、八桁の半ばをもう既に越していることだった。
 各既存政党の、立候補者の声が嗄れた頃、衆参両議員選挙の投票が始まった。投票日当日、夜半から降り始めた雨が、雨脚を速めていた。そんな生憎の天気にもかかわらず、都市部・過疎地域にかかわらず、投票所では、今までの選挙では見られなかった数の若者たちと、女性の姿が目についた。山間部や過疎地に住む、既存政党から見捨てられていた選挙難民の老人たちも、積極的に投票所に足を運んでいた。老人たちは、互いにタブレットで連絡を取り合い、軽トラに乗り合いで投票所に向かった。山間部の七月の涼風が、開け放たれた窓から、霧雨とともに入ってきた。入り込む霧雨は少しも気にならなかった。日頃の農作業や、山仕事が、老人たちの精神と体を、都会に住む老人より何倍も強くしていた。七十代の「村一番の若手」が、村の福祉車両の軽トラを借りて、足の不自由な老婆を投票所まで連れて行った。運転免許書と違い、選挙の投票権は、年をいっても、返納する必要はなかった。山間部や過疎地の集落の老人の数は、決して多くはなかったが、全国規模で考えると見過ごせない数になった。しかし、既存政党は、人海戦術に頼っていたため、効率の悪い過疎地帯を意識的に無視してきた。人海戦術とは、全く無縁の選挙戦術を取った「新党・学生連合」・「新党・母親連合」は確実に、老人たちの心を掴んでいた。
 沖縄県では、ほぼ、全ての有権者が投票所に行ったように感じられた。投票を終えて会場から出てくる県民の顔は、一様に希望に満ちあふれていた。そこには、保守も革新もなかった。ただ、沖縄を愛する「沖縄県民」がいた。
 今までの選挙では明らかに見られなかった光景が、この国のいたるところで見受けられた。東日本大震災で、津波の被害を最も受けた三陸地域は、住民の大半が漁業に従事していた。投票日を遠い北の海で迎える漁師たちは、一人残らず、不在者投票を済ませて出帆した。出帆を見送る家族たちの顔もいつになく晴れやかだった。六十パーセントを前後していた衆議院議員選挙の投票率は、すでに八十パーセントを超え、九十パーセントに迫っていた。これは、明らかに連立与党にとっての逆風だった。連立を支える与党第二党とって、投票率が上がることは、手堅い組織票が、投票総数に占める割合が、相対的に減ってしまうからだった。与党第一党は更に強い逆風に曝されていた。野党に政治改革を期待出来ず、投票を棄権してきた有権者の票が、新しい政党、「新党・学生連合」・「新党・母親連合」に流れているのは、疑いがなかったからだった。
 新聞各紙も、それぞれの出口調査で、投票率の増加分の票が、一つの方向に流れていることを感じていた。その流れの先に、現政権与党や既存の野党がないことは明らかだった。「民意」は、確かな目的を持った大河となって流れ始めていた。
 投票が締め切られ、すぐさま開票作業が始められた。
 この国は、今までの歴史の中で、二度「維新」という言葉が登場した。一度目は「明治維新」と呼ばれ、二度目は「昭和維新」と呼ばれた。一度目の維新は、この国を、刷新すする事に成功したが、青年将校の、武力による二度目の維新は、失敗に終わった。
 十九世紀末、この国は、ひたひたと忍び寄る、欧米列強によるアジア植民地化の嵐に飲み込まれようとしていた。しかし、当時この国の政権を握っていた「幕府」は、三百年続いた鎖国政策により、明らかに、その脅威を感じ取るだけの国際感覚を失っていた。かつて、東アジアの宗主国だった中国は、主要な港町を、欧米列強国に租借地という名の植民地にされていた。東アジアの覇権は既に、中国から欧米に移っていた。悲しいことに、この国の「幕府」は、なんらそのことに機感を感じていなかった。しかし、欧米列強との密貿易を通して、世界の流れを敏感に感じ取っていた、三十そこそこの一人の若者の危機感が、いがみ合っていた本州西端と、大藩である九州南端の二藩を動かし、政権を将軍から天皇に移す、大政奉還を成し遂げた。尊皇攘夷の名の下に、いつ内乱が起きてもおかしくない状況の中、江戸城の無血開城により、幸いにもこの国は、内乱にならずにすみ、欧米列強に、侵略の隙を与えなかった。平成の最後の年に、一人の血も流すことなく、武力に因らない選挙という民主主義方法で、第三番目の平成の政治改革・「平成維新」が今、成されようとしていた。
 選挙の態勢が大方決まった明け方、ようやく長い一日が終わり、雨上がりの晴れ渡った空に向かって、太陽が水平線に顔を出し始めていた。
 「新しいこの国」の夜明けだった。 

 「平山 美加」という名の女子高生は本当にいたのか。彼女は、確かに存在した。数学が好きな、将来数学者になることを夢見る、どこにでもいる普通の女子高生だった。しかし、無情にも不治の病である白血病が、彼女の夢を奪去ってしまった。病との闘いが終盤を迎えた頃、新聞への投稿がなされた。蝕まれていく肉体と反比例するように澄みわり明晰さを増す精神が、この国の政治が、劇的に改革するきっかけとなる新聞への投稿を残させた。若き数学者ガロアが、死の直前に残した数行の数式の代わりに。
                結

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