杜子春(芥川龍之介)と杜子春伝(唐代の小説)
芥川龍之介の杜子春は、唐代の伝奇小説「杜子春伝」をもとに書かれています。内容は似ているところもあれば、全然異なるものや真逆の話もあり、比較すると面白いので、まとめてみました。
芥川龍之介の杜子春のあらすじ
若く貧しい杜子春が門の下でぼんやりしていると、謎の老人が現れて杜子春を大金持ちにしてくれます。そして杜子春は、老人のおかげで得た大金を散財してしまい、再び貧乏な身に転落してしまいます。
杜子春は貧乏になり、門の下に行きぼんやりしていると、老人が再び現れて、杜子春を再度大金持ちにしてくれます。
そして杜子春はこりずに散財、また転落、そして門の下へ。老人は三度現れます。
杜子春は大金持ちになっては貧乏になるということを繰り返したことで、人は皆お金がある時には寄ってくるが無くなると去っていく、そんな人間の薄情さを知ってしまい、もうお金が欲しくなくなります。
そして杜子春は、老人(実は仙人)と一緒に仙人になる修行に出ることになります。
修行において、老人は杜子春に「何があっても声を出してはならない」という条件を課します。
様々な状況に置かれても全く声をあげない杜子春ですが、最後の最後、母親が苦しむ姿を見せつけられた時、杜子春は「お母さん」と一言叫んでしまいます。そして修行は終わります。
杜子春は声を上げてしまったので仙人にはなれませんでしたが、老人(仙人)は杜子春に「もし声を上げてなかったら、杜子春の命を絶っていた」と言います。
そして「人間らしい、正直な暮しをするつもり」という杜子春に、仙人は桃の花が咲く畑がある家をあげて、話は終わります。
杜子春(芥川龍之介)と杜子春伝(唐代の小説)の違い
それではもとになってる中国版杜子春と、日本版(芥川龍之介)杜子春を比べていきます。
老人がお金のある場所を杜子春に教えるだけの日本版と、老人がやたらに渡す額をRaise(釣り上げていく)する中国版
日本(芥川)の杜子春では、老人はお金がある場所を杜子春に教えるだけで、以上終わり。杜子春が言われた場所を掘ると、黄金が山ほど出てきます。
中国版では、老人は杜子春に「いくらあれば足りるか?」とたずねて、杜子春は控えめな数字を答えているのに「まだまだ!」と、どんどんお金を釣り上げていきます。そして最後、杜子春が最初に言った数字の100倍の数字を言うと「よいだろう」と答えてdeal(妥結)します。
必要以上にお金を欲しがる杜子春を老人がいさめるのであれば分かりますが、話はその逆、必要以上に借りさせる金融機関のように「もっと!もっと!」と額を上げていきます。
3回目の大金を受け取る中国版、3回目の話は断る日本版
杜子春は一度ならず二度までも、大金持ちになっては破産するということを繰り返します。一文無しになって門のそばで佇んでいるところへ老人が現れてお金を恵もうとしますが、日本版では「いや、お金はもう入らないのです。」と言って断ります。薄情な人間に嫌気がさしたからです。
中国版では老人が杜子春に最初にあげた額の10倍、3,000万緡(びん)を与えます。杜子春は断るのかと思いきや、(自分のためにではないですが)喜んで受け取ります。
ちなみに1緡(びん)が1,000文(もん)に相当します。当時「百姓は絹一匹を納めて、銭額三千二三百文に代替していた」という話もあるので、お百姓さんが1年必死に働いて納める年貢がだいたい3緡(びん)=3,000文とすると、それが1,000万分もある。。。。。。確かに唐の皇帝(玄宗皇帝)かそれを超える暮らしができると言われても納得しますね。
※李復言の時代には絹の価格が下落していたという記述もあり、つまり3,000万緡(びん)はさらに価値が大きかったかもしれないです
話がそれてしまいましたが、とにかく中国版杜子春はこの大金3,000万緡(びん)を断らずに受け取り、身辺整理に使うことにします。
仙人の修行に向けて身辺整理をする中国版杜子春、天涯孤独でしがらみがゼロなので身軽に修行に向かう日本版杜子春
中国版杜子春は受け取った大金をもとでに、一族、特に孤児や未亡人のために広大な敷地に家をたくさん建て住まわせ、また未婚の者は結婚させたりします。
日本版杜子春は天涯孤独なので、家族や親戚に対して用事を済ませてから修行に向かうという記述はありません。
仙人になる修行の前に、仇に復讐を済ませる中国版杜子春
そして恩人に恩を返すところは分かりますが、仇(かたき)に対しては復讐します。これから仙人になるために修行する人が復讐をする…??ちょっと驚きました。
仙人になる修行の前に特注のお薬を飲む中国版杜子春。特注の中身は…
この描写のあとに、老人が杜子春に「白い石薬を三丸を与え、酒といっしょに飲ませる」という展開になりますが、え、もしや、この炉のまわりにいる方々が主成分…。
ちなみに「紫の炎が光る炉の周りに9人の美女や龍や虎」というところは中国語では「高九尺餘。紫焰光發,灼煥窗戶。玉女九人,環爐而立。青龍白虎,分踞前後。」となります。漢詩みたいできれいですね。
トランスジェンダー杜子春、女性に生まれ変わる
なんと中国杜子春は「こいつの妖術は完成している。この世から追い出せ」と敵に言われ、閻魔大王に裁かれて女性として生まれ変わってしまいます。そして結婚もして子供も産まれます。日本版(芥川)には、この展開はありません。Netflixで観てみたいレベルの凄まじい話の転換です。
子供に対する仕打ちで声をあげる中国、母に対する仕打ちで声をあげる日本
老人から一切声を出すなと言われた(中国)杜子春なので夫に対しても何も口にしません。そんな杜子春(=妻)に夫は怒り、子供に対して酷いことをしてしまいます。その瞬間、杜子春の中に「愛」が生じ、ついに杜子春は「ああ(噫)」と声を上げてしまい修行は終了します。
芥川の杜子春では、馬の姿で鬼に鞭を打たれ続ける母親、それでも息子杜子春のことを思い「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で」と言われ、世間の薄情さと比べて母の愛はなんと深いのだろうと心打たれ、つい言葉を口にしてしまいます。
声を出したことを失敗と捉える中国、声を出したことを正解と捉える日本
「ああ」と声を出してしまった杜子春に対して、中国版の老人は「もしきみが『ああ』の一声さえあげねば、わしの薬は完成し、きみも仙人になれたのだが」と、明らかにがっかりし、杜子春と共に敗北感を味わいます。杜子春も「杜子春は帰ったあとも、誓いを忘れたことを恥じた」と、自分の未熟さを振り返り、声を出したことを後悔します。
一方で日本版の老人は「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ」と、急に隠れルールの存在を明かします。この「実は〇〇を試していたんだ」というのは、話としてよくあるパターンですが、最初に言われたルールを守り必死に取り組んでた身としては、考えようによっては冷める言葉ですが、いずれにしても日本版では(声を出してしまった)杜子春の行動は正解ということになります。
愛だけは忘れられなかった杜子春
こちらは中国版杜子春での老人の言葉です。
様々な煩悩や感情を抑えることができた杜子春ですが、「愛」だけは忘れることができなかった杜子春。中国版杜子春の裏テーマは「愛」なのかもしれません。
最後、謎な終わり方をする中国版杜子春
老人と共に強い敗北感を味わった杜子春は帰ろうとしますが、炉が気になりのぞいてみると、炉は壊れていて鉄柱が見えています。老人が鉄柱を削っていますが、それは炉を直しているか、それとも壊しているのかは分かりません。
そもそも、芥川龍之介の「杜子春」は杜子春の内面、精神の修行です。しかし、中国杜子春は精神修行はもちろんメインのお話ですが、老人が作った「薬」の成否という側面もあります。なので「もしきみが『ああ』の一声さえあげねば、わしの薬は完成し」というように、薬が人を仙人にするには効能が不十分だったことを老人は嘆いているわけです。
杜子春の仙人修行が失敗におわったことで、杜子春を仙人にするための薬を作った炉も、応報を受ける形で壊れてしまったのでしょうか?
そうだとしたら、全てのことは量子もつれ的に実は繋がってるんだよ的な展開ですね。
【龍成メモ】
中国版のオリジナル杜子春である杜子春伝。かなり味わい深く、そして話が所々飛躍するので全てを理解することができず、謎が残ります。学者さんの解説を聞いてみたいです。
日本版、芥川龍之介の杜子春は言葉がとても美しいです。窪田さんのナレーションで楽しむと、とても穏やかな気持になれるのでオススメです。
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