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最低な言葉を吐くのはいつも簡単だ。

わたしが最低な言葉を吐くとき、校庭の木の葉は揺れただろうか。マグカップのカフェオレに波紋は立ったか。これから先、立つだろうか。それはわからないけれど、吐かれた相手の心は揺れるだろう。可視化される程に。悲しいどんぐりのような瞳が揺れるのを見て後悔する、「しまった。」と。

タイトルを繰り返すけれど、最低な言葉を吐くのはいつも簡単だ。これはひとと対面でコミュニケーションを取れる程度の能力がある人間ならば皆当てはまると思う。その証拠に日々を振り返ってほしい。多くのひとの最低な言葉を吐いているシーンはいくつか思い出せるだろう。そのうちのいくつかは自分に向けられたものだったりするだろう。そのひとが最高な言葉を吐いているシーンは思い描けなかったとしても、最低はあるのではないか。偏見だろうか。

それくらいに最低さは目につく。接するひとの多くに最低がある。目につく。ありふれている。噛みつきたくなるだろう。なぜだろうか。その理由は複雑なようで、単純だ。それに突っ込むと自分は優位になるからである。最低だから突っ込めるのは当たり前なのに。一番低いんだから、指摘したら自分はそれに比べたら刹那優位に立てるのだ。なんて卑小なんだろう!けれど、そういうこともあるよね。あると思うわ。

ここから「だからポジティブに美点を見つめて生きていこうぜ!」って地点までは徒歩0.5秒だ。それもまた最低に凡庸だと言わねばなるまい。なるまいよね。なるまいよね?

そういう最低さに惹かれちゃうこともあるからさ、そういう言論には与したくないわけですよ。

最低をスパイスにしてなお「はっはっはなんだこいつは!」と笑えるやつしか友達とか同士とかなんでもいいけど連帯するひとにはなれないんだよ。わたしは友達だと思ってるひとがほんの少しいるけど、誰ひとり聖人君子だなんて思ってないし事実そうじゃない。責任を語るくせに(こっちの)肝心なところで非常に怠惰だったり、努力の重要さを熱く語るくせに他人のそれをめちゃめちゃにこき下ろしてばっかだったりするよ。笑っちゃうよ。お前バカかよ。バカだな。はっは。全然だめじゃねえかよ。さっきまでの高尚な考え方どうしたアンタすげえなコロコロ変わるな!

っていう変化が楽しくてさ。わたしはそういうひとたちを間近で見ていられることになにより幸福を覚えるのだと最近気がついたよ。あはは。

でも好きだよ。胸が熱くなる。いつもありがとうございます。

走馬灯の上映会は、まあまだ少し先だとは思いますが、ぜひぜひオファーを出させていただきます。最後に見る映像にどうかそいつらがまあ見事に現れますように。これは結構マジに思う。現れますように。




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