『街とその不確かな壁』村上春樹作 感想文

『街とその不確かな壁』を読んだので感想を書きます。ネタバレあり。


あらすじは、17の頃に激しい恋をした相手を忽然と失った主人公が、「街」から戻って後、中年になり、山あいの町にある図書館の館長として転職し、そこで元館長・読書する少年・コーヒーショップの女店長と出会い…というもの。

このノートでは、登場する場所や人がどんな意味を持つのか考えてみたいと思う。
エピソードはざっくりと記載するが、読了している人ならわかるように書くつもりである。


第一部は、16・17歳時点の主人と後に姿を消す親密な少女のとのやりとり、そして、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる「世界のおわり」の「街」で夢読みをする主人公の2編が交錯する形式で展開される。
前者は、親密な関係の少女の喪失によって幕を引かれる。少女には家庭の事情もあり、心の開ける人物がいないようだ。唯一の拠り所だった母型の祖母も他界してしまったらしい。定期的に訪れるという、心の奥がこんがらがってしまう状態に陥るも、なんとか主人公に会いに来て、
「私は影のような存在で、本体は『街』にいるの」
「あなたに全てをあげたいの、本当よ」
「私には時間ががかかる、心と体がすぐには連動しないから」
と言い残し、やがて長い手紙(ふたりは文通もしていた)を最後に消息を経ってしまう。

主人公はこの少女に激しく恋している。性的な行為もぼんやりと望むものの、語り合う時間が大事と考えまだその時期ではないとも認識している。消息を経った少女のことを考え続け、何も手がつかない大学生活を送るものの、このままではいけないとちゃんとした日常を取り戻し、就職もして、中年に差し掛かったところで突如「街」へと行く(突然転送される)のであった。おそらくこの契機の後の「街」での暮らしが後者になる。
後者で主人公は夢読みをしつつ、街の形状を明らかにしようとし始めるが、不確かな「壁」に泳がされているのを感じる。
「お前が何をしようと勝手だ」
「どうせなにもできはしない」
という壁からの暗黙のメッセージを受け取るのである。

影の死期を知った主人公は、影の提案を受け入れ、一緒に「溜まり」からの脱出を図る。脱出路、壁からの妨害を受けるもの、「自分を信じられれば大丈夫だ」という影の助言の元に突破していくが。しかし最終的には、影のみを脱出させ自身は「街」にとどまることを選ぶ…というところで幕。


(書いていて思いの外長くなってきたがこのまま行こう…)
第二部では、少女との思い出と「街」での記憶を持ったまま、現実世界で生ける屍として生活する主人公が、辞職し山合いの町の図書館長に転職、そこで生活する様が描かれる。
元館長が登場するのだが、実はこの元館長はいわゆる幽霊の状態なのである。最愛の子と妻を不幸な形で失い、財産を使って設けた図書館に心血を注いでいた人物であった。主人公と1人の司書さん以外には(概ね)知覚できない存在として、主人公に示唆を与える役割をもつ。
ある日主人公に話しかける、イエローサブマリンのヨットパーカーを着た「少年」は、人間離れした記憶力を持ち、その特異な性質から家庭や学校に居場所を見出せず、図書館で貪るように本を読む生活を過ごす。「街」の正確な地図を描き主人公を仰天させ、「街」へ行きたいと切望し、自力で「街」に同化していく。

主人公がふらりと入ったコーヒーショップの女店主は、もともと性的に不能であることから離婚を経験しこの町へ流れ着いた。主人公とある程度親睦を深め、ある時、ボディスーツのような頑丈な下着を身に纏っていることがわかる。


だいぶ割愛したが、第二部は概ねこんな感じであると思う。



下記の論点に基づき、以下、考察のようなことをしてみようと思う。
・「街」とは何なのか?
・物語に登場する場所や人物はどのような意味を持つのか?
・主人公はどこへ向かうのか?


・「街」とは何なのか?
一言で言うならば、「街」とは、なんらかの喪失に伴う癒え難い喪失感を持つ人間が、その喪失を無きものとして生きていくための冥界である、と思う。
現実世界(と便宜的に呼ぶならば)と「街」の両方に存在する(ことがあった)と思われるのは、主人公、少女、そして少年である。

「街」に入るためには影を捨てねばならず、また「壁」が外に人を出さないようになっている。この影とは、喪失感のことを指しているのではないか。現実世界では、ついて回る苛烈な喪失感に耐えきれず、それでも生きていくために作られた精神的な冥界がこの「街」でなのではないか。「街」には感情という概念がなく、それゆえ変化がなく、時間が流れない(季節は巡るのだが、昨日と今日や今日と明日が違うという概念には乏しい)。喪失感という、受け入れがたくはあるものの、しかし生きている人間として切り離せない感情というものの、誰しも中核を占める部分から完全に目を背けることで、本人の中では完全に時間が止まってしまうということだと思う。それゆえ、仮染の安寧にひたることで、痛みを呼び起こす変化もなくなり、死んだように生きることができる世界として「街」は描かれているように感じた。

主人公は、少女の消失という出来事で心が「照射」され焼き尽くされてしまい、中年の年齢に至るまでただ死んでいない状態で日々を送っている。職場の知人に「捉えどころがない」と評されるよう、強烈な喪失を抱えつつ、それに目を向けることができずに、ふわふわとただ生きているだけだ。しかし、そういった或る意味平和な日常を送りつつ、どこかでその喪失感に(正当に、公平に)向き合うべきではないかとも思っている。そんな状態の中突如転送された「街」の壁が蠢き、主人公を弄んだり阻んだりするのは、その「街」の目的からして主人公を脱出させるべきでないからだ。「街」を経てからの脱出とは、その喪失感と真っ向から向き合わざるを得なくなる痛みを伴うことであり、そんなことに耐えられるかどうか、まるで高いところから落下したときのようなものと自身の深層で自覚していて、そうなことはしたくないという意志がこもっているからだ。主人公の逡巡と共に形状を変えるのはそのためである。信じることで突破できるのもそのためであろう。

喪失感に代表されるような、感情というものを完全に失うことで、もう心の揺らぎのある外界には出られなくなり、変化を失って安寧を得るのである。最期が近づいた時に影は脱出を提案するが、これは感情が麻痺し切ってしまう前に、現実世界でやり直せる最後のチャンスだったのだろう。一方、主人公は、現実世界での喪失感を(まだ影が存命していることから)拭い去ることができず、街に止まる決断を第一部ではしている。

少女に関しても、家庭環境のせいで喪失感を抱えており、現実世界の方が仮初の自認した状態で登場している。「街」の住人として己を認識しているからこそ、主人公という救いが現れて、失われていたはずの涙を流す。自分は現実世界に戻ってこれるかもしれない、落下を受けとめてもらえるかもしれない、しかし私の本分はもう「街」に埋まってしまっているのだ…と。

少年に関しては、喪失感ではなく、″欠如″とも言うべき喪失を抱えている(なお、女店主も′′欠如″型の喪失を抱えた人物である)。その能力や、こちらも家庭環境のせいで、感情を発露することができず、現実世界での他人との有機的な関わりを見出せず、彼はむしろ自分が仮初の甘寧の場所を求めていることを自覚していた。彼は少女とは違い、喪失ではなく、もともと現実世界での価値ある繋がりを持っていないのである。感情、心の揺らぎという、現実世界で日々を生きていく上で重要な要素を抱けず、現実世界こそが明快であるように映っていたのではないだろうか。図書館の猫が出産し子猫が旅立っていく過程を注視しているのは、その現実世界におけるあるがままの生というものが自分とは正反対の対比であったからだと思われる。彼は自分が存在していい場所、すなわち必要とされる場所にいくべきと自認していた。
彼は特異な能力により、凄まじいスピードで読む本の、内容も全て覚えているのだという。しかしそこに、解釈や感情といったものが入る余地はない。本人が天職と言う通り、その性質は、ただ語ることをもとめている「古い夢」にとって非常に相性の良いものだっただろう。話したいことを、感情ではなく情報として整理がされているバックグラウンドに受け入れられるのは心地良かろうと想像する。また少年自身にとっても、現実世界では見出せなかった己の役割や居場所といったものを見出すことができただろう。
主人公の、目でも口でもなく耳を噛むことが通過儀礼となっているのも重要なメタファーだ。彼が夢読みになるために必要で、彼に足りなかったのは、知識を得る目でもなく、物言う口でもなく、傾聴する耳だったのである。



・物語に登場する場所や人物はどのような意味を持つのか?
春樹作品は多くの場合、主人公がその物語における冥界に足を踏み入れて戻ってくることが多い(と思う)。しかしこの物語では、それ以降が語られない山あいの町という半・冥界というべき場所と、「街」という深・冥界の合間で揺れ動く形式を取っており、そこにもこれまでの物語と異なる、変化や示唆が感じられる。
山あいの町の町営図書館は、主人公の逡巡の舞台となるわけだが、ここは元館長子易にとっての「街」だったのだろうと思う。彼自身、子と妻との死別という強烈な喪失を経た側の人物であるものの、自力で現実世界における自らの安寧の場所を創り上げることができたのであった。主人公や少年といった「街」へ行くことのできる人物の見極めができたり、具体的な落下ということへ忠告ができたのも、彼が現実世界で身をもって喪失感の認識とそれに向き合いきるという経験値をもっていたからと想像する。

戦時下における淡々とした集団自殺、喪失した大丈夫の真の面に潜むおどろおどろしさの描写はそれぞれ、仮初の安寧は正当化され得ること、しかしその先に期待するものは禁忌であることをそれぞれ示唆していたと思う。しかし甘い誘惑であるそれらに、現実界で対抗するための道標が元館長であり、それゆえ彼は途中退場するのではないか。主人公が自力で自分の進むべき道を選び取るために。
前パートで言いたいことの多くを言ってしまったが、少年は「街」の申し子として描写されている。第三部の流暢な語りを読み安堵する読者も多いのではないか。彼は、主人公の対極として存在していると思った。後天的な喪失を基軸に、そこから逃げている主人公と、先天的な欠如を基軸に、別の場所こそ求めている存在。表裏一体のピースだからこそ重なることができ、主人公を現実世界へ送り返すトリガーとなることができたのだと思う。
彼なら、少女の助けを借りる必要なく夢読みの仕事を全うできるのではないだろうか?薬草茶は夢読みが忘我の境地で古い夢と相対する準備をしているものの、もともとの喪失の残滓のようなものがなく、システマチックに古い夢を扱うことができるだろうから…

そして、コーヒーショップの女店主である。彼女は、主人公が現実世界に足をつけて生きていく楔となる役割を果たしていると思った。性的に不能であるという欠如を抱えているが、それは相手あっての発生する感情というふうに捉えてみたい。外からの刺激をトリガーに、内的な感情が誘発されて発露する類の喪失感、を持つ存在と言える。この点が、主人公や元館長や少年といった、自分の中に内在し自分で痛みを取り出し得てしまう者たちと条件が異なっている部分である。
彼らと同じような帰結、すなわち喪失や欠如に起因するの喪失感に結びつかないというのが彼女の果たす役割である。欠如を喪失に結びつけないよう、外界からの刺激をボディスーツのような固い下着でシャットアウトしているということなのだと思う。物語の中で、喪失を乗り越えていた元館長、乗り越えるのではなくあるべき所として再定義している少年、そしてどうすべきか混迷する主人公と明確に違っている所であり、これが何を意味するのかは最後のパートへ持ち越すことにする。




・主人公はどこへ向かうのか?

そして、主人公はどこへ向かうのか。第二部、すなわち現実世界での最後とエピソードがその発覚で終えられているのも印象深い。「街」から落下してきた主人公は、喪失を持つ女性が、喪失に争って生きていくと選んだことに気づいて物語は(実質的に)終わるのである。女店主がそのような自律した存在であり、主人公はそれを待てる状態になっている。

彼女の、喪失に対するその毅然とした立場が、光明となって描写されている。少女との邂逅を果たし、影を失っても怯えることがなくなっている。それは、「所詮影に過ぎない」自分たちだったとしても、それを受け入れて生きていくことができるよすがとして、彼女のありようが立ち現れているからなのだ。




以上、長い感想文を書いてみた。

読んでくれてありがとうございます。

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