恋愛依存の恐ろしさ

タイの日本人社会、そして恋愛を通して苦しんでいる。
わたしなりの解釈を。

タイ日本人社会は昭和的価値観が残っていると言われる。
駐在員として大企業で働く男性と、ビザの関係で働くことのできない専業主婦の妻。接待や飲み会や性風俗の文化も健在。ゆえにどことなく漂う男性性の強さ。

飲食店やサービス業、日本人向けのサービスはほぼすべて揃っている。他の国ではこんな快適な生活は送れない。
しかしそこはとても狭い。外の世界に視点を広げると、バンコクの世界は赤や黄色の極彩色の花が咲き、空は嫌味なほど青く、そのコントラストが印象に残っている。

そこでわたしは1人の男性に出会った。

エリートで頭が切れて優秀。そして若干モラハラ気質。

私は片親育ち。メンヘラ気質。貧乏で塾に通えず何とか勉強を頑張った。
英語もそれなりに話せるし、自由に海外で生きてた。
それは誇らしかった。彼に会うまでは。

育った環境がまったく違うわたしたちが出会ったことに意味があるのか?
なぜ出会ったのか?

心理学的に言うと、起こる現象には意味はないらしい。
本人がどう捉えるか。ただそれだけ。

彼はわたしに「あなたらしくいてね」と言う。
わたしはそれを上手く受け取れない。
なぜなら、きっとわたしの良いところだけを見たいと思っているから。

彼は帰国するわたしに「3回お見合いしてみたらいいよ」とアドバイスした。
…冷たい。しかし、彼の頭のコンピュータではじいた、女の子としての幸福を最大化する解なのだろう。
それから、成功者と言われる人たちのアドバイス。「お金持ちの年上の人と結婚したら、きっと君は幸せだよ」

ありがたい言葉なのだろう。と同時に言い難い嫌悪感を持った。
そのときは納得した。確かにそうだろうし、みんな優しさで言ってくれているんだろうな、と。

ただ、わたしは反応が鈍く、その違和感が何なのかを言語化することができなかった。
違和感の正体。それは、女性の幸せを無意識にジャッジしているところだ。
シンデレラのように、女性は男性に守られて幸せになる、と。
彼らには、自分で稼ぎ、現在の地位まで登ってきた自尊心がある。立派だ。外の世界は戦いの連続で、君はその覚悟はあるのか?家の中は幸せだよ?と。

家の中は安心だ。ただ同時にすごく退屈だ。
その退屈はわたしの衝動性と繋がり、引っ越しは日本も海外も含めて20回以上になった。
すべて自分で選んだ結果たどり着いたところ。その責任はだれでもない、自分にある。

起こった現実は、SEXして、振られて、私が立ち去ることを選んだ。
起こったこと自体に意味がないとするならば、わたしなりの定義づけを。

彼自身、自由への憧れを捨てきれていない。
ただ、いま持っているものに満足して、幸せに暮らしていると願う。

わたしも同じ。見なくても済んだ自分のコンプレックスを直視することになった。影響を受けやすいわたし。流されやすく、それを環境適応性があると肯定したいわたし。
でも、今の自分の周りにあるもの、自分の力で手に入れたものに感謝して、納得できる自分でいる。しなやかに生きていきたい。

恋に迷った痛いやつだと笑ってもらって構わない。
都合よく扱われたのかもしれない。本心なんて誰にも分からない。

彼は愛してくれていたんだと信じる。

自分の課題は、自分の責任を取ること。
選択できなかった過去より、現在と未来を。

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「ずっときれいなゆめをみていたい」

資本主義の世界で生きていくことは、戦いの繰り返しだ。
ジャッジされ合って、差をつけていくことの繰り返し。
ありのまま、を肯定することは難しい。
ただ、できるだけ公平で、Win-Winであろう。




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