『広告』について。

僕は昔から”広告的な考え方”が好きだ。10年以上昔から同じようなことを繰り返し言っているから自分の中では確かなことだと思っている。

もう若くもない年齢になってきたの、そろそろこの獏っとした思いを具体化したいと思って言語化している。

僕について。

高校生の頃から広告なるものが好きで、広告代理店に行きたいと思っていた。そのために某代理店輩出の多い大学を目指し受験した。そして見事合格した。しかし、願いは叶わなかった。

大学時代、インターンシップでインターネット広告を扱う仕事をしたおかげで就活ではネット系の広告代理店が受かった。本当は総合代理店に行きたかった。でも今となってはネット系の代理店で良かったと思っている。時代だらかね。

そこで3年位働いて、今はIT系の事業会社で働いている。マーケ・企画職ということで、生み出す仕事ができて面白いと思っている。ただ、無駄な仕事も多いのは事実だ。(無駄な仕事なんてない、という議論も時折目立つ)

さて、本筋。

『広告的な考え方』という表現については先に謝罪しておきたい。それ以外の表現方法が思い付かなかったのだ。広告的な思考回路でもいいし、広告論調とかなんでもいい。アドマンでもいい。ここで言いたいことはつまり、ソーシャルという文脈の中で広告思考を働かせることが好きなのだ。

広告的な思考とは、人が面白いと思うもの。人が興味を持つもの。人が魅了されるもの、だと思っている。それが広告の本質なんじゃないかと。

とあるモノがある。そのモノには誰一人とも近寄ろうとはしない。近寄る理由がないのもあるし、生理的に近寄りたくないからでもある。もしかしたら過去近寄った人がいたのかもしれないけど、今はもう周囲には誰もいない状態のモノがあるとする。

そんなモノに対して、興味を持たせて近寄らせることもできる、なんなら触ってもらうことだって、家に置いてもらうことだって、方法次第ではできるようになるのかもしれない。

そもそも人がそのモノに対して抱いている思いというのは、不変的なものではない。そのモノに対して、ネガティブ(少なくともポジティブではない)なイメージになっているのは、とてもシンプルでくだらなくてとりとめもない理由なのだ。そんなものは説明の仕方でいかようにも変えられる。変わってしまうのだ。

好きなものが、好きではなくなるように。嫌いなものを、好きになる可能性は大いにある。これは説得手法が関わってきている。

コンテンツと広告

僕は小説を書くことにも挑戦しようとしているんだけど、なかなか筆が進まない。それはそうだろう、これまで書いたことがないのだから。(と言い聞かせている)

ただ、小説を書こうと思ったのは、面白いものを作りたいからというの主な理由だ。人を楽しませるような、面白いものを生み出したい。俺には文章を書くことしかできない、それならそれを使って小説なら書けるのではないか。そう思ったのがきっかけだった。甘かった。

小説はそもそもが面白いもの。広告はモノに内在している面白いを、面白く表出させるもの。だと思い始めた。ここで言う面白いとは人を魅了すると同義。

それならば、別に小説を書かなくとも、世の中にある面白いモノを面白く表出させていけばいいのではないか? それはかねてから思い抱いている広告的な考え方を明言化できているのではないか? 僕はそう思った。

今はその手法がいろいろある。インフルエンサー的な活動だったり、YouTuberだったりが近いのではないかとも思う。ただ昨今のYouTuberはそれ自体がコンテンツ(=いわゆる小説的な立ち位置)となりはじめている気がしている…。

迷走。

ここまで書いてまた迷走し始めてしまった。広告的な考え方、が今では手法単独ではなく、手法と実がセットになってしまっている。確かに、広告自体がコンテンツとなることは願ったり叶ったりなことなのではないだろうか。

広告を作る、とはどういうゴールが望ましいのだろうか。今の広告はどんな姿カタチをしているのだろうか。もう少し探っていく必要がありそうだ。

お目汚しとなり失礼しました。

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