原因不明の・・・

書籍にするつもりだったけれど、1つひとつが長すぎて泣く泣く1作目からはカットした【原書本】をノーカットでお届けする新企画も、今日で3日目。

まだ僕のことを知らないという方も星の数ほどいらっしゃると思いますので、逃げも隠れもせず、今日は自己紹介も兼ねてこちらをセレクトすることにします。


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「本当は6月生まれのはずだったのに、待ちきれなかったのか2カ月も早く出てきちゃったんだよ」
こんな話を後で母から聞きました。
 
昭和63年4月12日。私は3人兄弟の末っ子長男として産まれました。同学年には甲子園を席巻し、現在はニューヨークヤンキースで活躍する田中将大投手にハンカチ王子と呼ばれた斎藤佑樹投手、卓球の福原愛選手など蒼々たる顔ぶれが並びます。昭和と平成が混在する、ある意味貴重な学年です。
 体重1,100gの「超未熟児」だった私は「双子」でした。相方は1,200gの女児。男女の超未熟児ベイビーということになります。今でも私が双子であることを告げると「似ているの?」と聞かれますが、皆さんがイメージされているのは同姓で瓜二つの顔をしている双子の兄弟姉妹。男女の双子は決まって二卵性ですから、一卵性双生児に比べ、容姿が劇的に似ることはありません。
 母は私を産んだ後、原因不明の「腹痛」に悩まされたといいます。しかも私がいた右側だけが激痛だったというから不思議です。予定日より2カ月も早く帝王切開で出産した挙げ句、産後は3週間もの間、激痛に苦しめられる。この話を聞く度、女性に生まれなくて良かった、と思ってしまいます。
 しかし、母の出産にまつわるエピソードはこれだけでは終わりません。出産直後の2日間は「幼い男の子が足を切断しなければならない悪夢を見て叫んでいた」かと思えば、そんな光景から目覚めた朝、実際に様子を見に行くと「(まるで苦しそうに)よく泣く僚の方にだけ保育器の上にオルゴールが置かれていた」りと、それは「夢は正夢」状態だったといいます。そこで、担当の看護婦(当時)に「僚は元気なんですか?」と何度も尋ねたといいます。しかし、答えはいつも「元気ですよ」という一言だけだったそうです。
 

 こうして、誕生から2か月後、(もともとの出産予定日の頃になって)私たち双子はようやく病院を退院します。ところが、本来は嬉しいはずの退院の時を迎えても、母はどこかモヤモヤした気持ちを拭えずにいました。
 実際、母が出産した日大板橋病院(当時は日本で初めて5つ子の出産を成功させたことで名を馳せていたらしい)の担当医の対応は酷かったといいます。退院後も月1回のペースで通院していたのですが、「ミルクを1時間かけてやっと飲んだと思ったら全部噴水のように吐いてしまう」と言えば、ミルクのメーカーを変えろと言われる。「股関節が固い」と伝えれば同病院の整形外科を予約させられ、別の日にまた診察をするも、結局「何でもない」と言われる。それだけでなく、「それよりお母さん、この子の首は座ってる?」と話を逸らすように尋ねられ、母が否定すると「もう1度小児科で診てもらいなさい」と再び逆戻り。いわゆる院内のたらい回しに遭っていたのです。
 さらに「清瀬小児病院」の整形外科を紹介され受診した際には、原因が分からないまま相変わらず「異常なし」と言われる不安に耐えきれなくなった母が、「それではこの子は何なのでしょうか?」と尋ねると「そんなこと知りませんよ!」と一喝されたというから驚きです。
 こうして打ち砕かれてはまた日大の主治医の元に戻るという繰り返し。最後は「知人からの紹介された病院を受診しようと思う」と告げると、「そこはあなたのお子さんが行くところではない」と言われたそうです。保健所の診察さえ受けることを否定されたと聞きました。
(あまりの慌てぶりと隠すような態度に)どうしても煮え切らなかった母は、深夜に1人『家庭の医学』を読み進めたそうです。そしてある日、私の症例とぴったり合致する病名を見つけ、愕然としたのです。

 ついに真実を知る時を迎えます。しかし、それは母にとってあまりにも辛いものでした。
                 (明日へ続く・・・)


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(※写真は3歳~20歳まで障害者手帳に貼られていた実際の写真。これで色々なところの割引を受けていたのだが、よく詐欺を疑われなかったと思う)

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