皆と行事に参加して

 同行した(特殊学級)担任の圧にも似た「少しぐらい話せばいいのに・・・」というような熱い視線を感じながらも交流学習に馴染めず、集団の中で自分を出せないことを強く自覚した私も、健常者と交流することすべてが嫌だったわけではありません。特殊学級の一員として交流することは好きでした。


 (本校と)校舎が分かれていた低学年の頃から、全校朝会が月1回、運動会に学芸会は「学校の一員」として一緒に行っていました。運動会では基本的にそれぞれが当該学年の競技に混ざって行うのですが、6年生の騎馬戦はさすがに危険と判断し、本来は放送委員会の児童が行う場内アナウンスを私が担当。また、組み体操では全校児童に混じりながらも、同じく併設する知的障害児学級の児童とパートを組み、車椅子から降りての演技にも挑戦して大きな達成感を得ました。
 同じく学芸会では、「いぶき学級」として600名を超える児童とその保護者の前で演じたのですが、(実は2年生の時に手術で転校した際には転校先の学芸会で『ピーターパン』を自ら提案し、他薦ではあったとはいえ主役を演じるくらい)、当時から目立つこと自体は好きだったのです。
 また、この学校には当時、3学年ずつ離れた上級生と下級生が一緒に活動する「ペア交流会」というものがあったのですが、こうした1対1の交流では楽しいと感じていました。


 では、なぜ交流に出向いた教室の中では、自分を出すことができなかったのでしょうか。当時の心境を私なりに分析すると、どこか「負い目があった」からだと思います。「自分だけ障害を持っている」「ここは自分の教室ではない」といった、「皆と違う」「お邪魔している」という意識が、個人での積極的な関わりを躊躇させていたのかもしれません。
 それが『いぶき学級』という集団としての関わりになると、個人への注目度は弱まる一方、私の帰属意識は高まります。皆がついているという心強さが背中を押してくれるのです。
 個人での交流で楽しかった思い出といえば、数は少ないのですが、日光移動教室と音楽コンクールが思い浮かびます。旅行という非日常の中で皆と『華厳の滝』や『日光東照宮』を観たり、音楽コンクールでは約40名という集団の一員として『星に願いを』を演奏しました。チームで何かをやり遂げた時の達成感が好きなのは、この頃からですね。
 特殊学級は通常学級に比べてイベントも多く、2カ月に1度くらいの頻度で「芋掘り」をしていた記憶があります。同様にその倍くらいの頻度で調理実習をしていました。芋掘りには、普段はどうしても限られてしまう自然体験(=土に触れること)を通して、感覚を発達させようという狙いがあったと思います。それでも、私は外遊び経験が少なく、見慣れていないこともあり昆虫は大嫌いでした。しかし、宿泊学習は大好きで、通常学級とは違い、1年生から親元を離れて友達と泊まりに行けることが嬉しかったです。このように、「自分の学級」では友達との関わりを楽しんでいました。
 

 このように、実は人前で目立つことは好きな一方で、集団の雰囲気によって自分を出せるかどうかが極端に変わってしまっていた当時の私ですが、小学校生活最後の行事ともいえる学芸会で、その後につながる1つの自信を得ることになるのです。

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今も昔も変わらないのは、何かに立ち向かう時、「1人ぼっちは辛い」ということです。

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