見出し画像

「学力至上主義」という弊害

 自分は学力がないと、今も本気で思っている。
 それでも大学に行くことができた。就職することもできた。
 教員免許だって社会福祉士だって取得することができた。

 自慢がしたいわけではない。これは紛れもない事実だ。

 僕は大学や企業での就労によって、「本当に必要なのはコミュニケーション力である」という最大の発見をした。残念ながら知識ではないという現実を、身をもって突きつけられたのである。
 相手の立場に立って自らの思いを伝え、時に譲歩する柔軟性を持つ。この姿勢さえあれば自分でもなんとかこの社会でやっていけるんだと、と気付くことができた。

 では、知識や資格は完全に無用なのか。残念ながらこれもまた、そうではないらしい。
 面接に「履歴書」というものが欠かせない日本では、やたらと過去や資格が重視される。経歴も資格も、履歴書に書くのはここから、というルールがある。しかし、とりわけ(私も含めて)世の中から障害者と呼ばれる者たちのそれは、書かれている事実に対する過程がより重視されているように思う。
 例えば教員免許(※正式名称:小学校教諭一種免許)取得と書かれていた場合、面接官は「あっ、一応それ相応の勉強はできるんだな」という判断を下す。そして、目の前の人物を確認した上で「(キミは身体に障害があるようだけど)学校の授業はどうやって受けてきたの?」という、素朴すぎる質問をこちらに向ける(というような場合も少なくない)。
 正直、こうなったらしめたもので「自力でノートテイクをしていました。こう見えて割とスムーズに字は書けるんです!」とか、「どうしても間に合わなかった時には友達からノートを貸してもらったり、先生に録音を認めてもらったりして、自ら工夫してきました!」と実際のエピソードを堂々と(見かけは淡々と)話せばいい。
 そうすれば相手が勝手に、学生時代から友達がいたということはその時からコミュニケーション力もあったんだな。それにこれだけ資格も持っている・・・!と勝手に連想ゲームを始めてくれる。

 ちなみにこの際、この手の人に向けて「たまに僕がノートを貸すこともありました!」なんて話をすると、鳩が豆鉄砲喰らって地球がひっくり返ったくらい驚いてくれるから面白い。

 学力はさほど重要ではないと思っているけれど、僕は大学というステージでとにかくコミュニケーション能力が大切だということに気付き、社会人として揉まれる中でそれを確信に変えることができた。
 決して(学力だけで人をランク付けするような)「学力至上主義」に陥ってはならない。しかし、勉強に打ち込むことは自分の可能性を広げるための過程だと捉えることはできる。少なくとも、努力を積み重ねることで考える時間ができ、よりたくさんの事柄を吸収できる広く深い器を手にした上で社会に出て行ける、ということだけは間違いなさそうだ。

 最後に・・・。

 最も知識が必要なのは学校を選ぶ場面ではないと思う。僕が思うに、知識とは「社会に出て(揉まれてもなお)なりたい自分に出会うために自分の経験をつなぎ合わせるスキル」ではないだろうか。

 だから、ターニングポイントを迎える度にその場面はやってくる。(1度きりでなく)あと何度かは分からないが、何度も何度も知識をフル活用できる準備だけはしておきたい。そして、なりたい自分に近づくために他者と協同するためのコミュニケーション力を僕はこれからも鍛え続けていく。

いただいたサポートは全国の学校を巡る旅費や交通費、『Try chance!』として行っている参加型講演会イベント【Ryo室空間】に出演してくれたゲストさんへの謝礼として大切に使わせていただきます。