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②なんか、違う??

「ほかの家とは違う」「普通ではない」

と気付いたのは10才くらいのこと。

誰も週末にデモなんか行けへん。
どこのお父さんも大体仕事してる。
学童行ってる子は徹矢と美紀の仲間の子しかおれへん。
夜に子どもだけで留守番とかしてない。
小遣いもっと多い。
ディズニーランド行ったとか言ってる。
お父さんとお母さんは普通ケンカするらしい。
差別しても親に怒られへん。


当たり前のことも当たり前じゃないことも、一緒くた。多数派なのか少数派なのかわからないことまで、なにもかもがうちは普通じゃない。


被差別部落というのは、差別される側である。

差別される側というのは、差別が日常にある。子どもの世界は大人社会の縮図である。子どもの世界には差別用語が飛び交っていた。今思えば、それぞれの家でもそんな世界だったのかもしれない。

一方、私の家では「差別はいけないことだ」ということを、ことあるごとに聞かされていた。

民族、障害、出生地、性別、本人が変えようもないことを言うのは差別である。

●家に帰ったら
差別はしたらあかん。(うん、当然)
差別してる子おったらちゃんとあかんって言え!(いや無理やって)
あかんもんはあかん!闘ってこい!(全然闘いたない~泣)

●学校行ったら
あいつガ〇ジやで!(そんなん言ったらあかんやつや~)
なんやねんコジ〇!!(え~、そんなん友だちに言うん)


そんな会話が飛び交っている場所で誰とどう闘えというのか。
解決の糸口さえ見いだせないまま小中学校時代を過ごした。


さて、同和地区というところでは、当時同和教育というものが推進されていて、小中学校では解放同盟が勝ち取った権利がたくさんあった。
「教育を守る会」という解放同盟が主体の会があり、それにほとんどの世帯が入会していた。入会している家庭の子どもには、ランドセルは入学時にもらえる。夏休みにはサマースクールと題した体験活動。人権学習もすごく多かった。8/6の広島原爆の日は登校日。在日朝鮮人の子には民族教育。先生の加配もあった。小中ともに全学年35人学級。中学校の担任は1クラス3人ずつ。年に2回金券が配られる(子ども1人あたり2千円くらい)金券はその地区で登録している商店で使える。文房具屋、服屋、雑貨屋、etc. それをまるごとお小遣いとしてもらっている子もいた。

うちでは物を買ってもらう、買ってほしいと言うことさえ憚られていた(私が憚っていただけかもしれないが)ので、金券をもらえるタイミングは普段我慢している欲しいものが買ってもらえるチャンス!
とばかりにあれが欲しい、これが欲しい、とネダっていた。

するとなんと!ある時美紀は、
「そんなにあれ買ってこれ買ってとか言うんやったら金券なんかいらんわ!守る会やめよ!」

と守る会をやめてしまったのだ!唯一、欲しいものを欲しいと言えるチャンスがなくなってしまったのだ。私は相当ゴネたが1ミリも譲ってはくれなかった。

「お金ないんちゃうんかい!!!」


きっと美紀は、子どもに欲しいと言われたものをホイホイ買う、という行為が本当に嫌だったんだと思う。

必要なもの以外、欲しいものを買ってもらえない、という子ども期は、私の人格形成に大きな影響を与えていると思う。


みんなの当たり前がうちでは当たり前ではない、ということがあまりにも多すぎて、何が当たり前なのかもわからないまま、「普通」ということに大きな憧れと、大きな嫌悪感を混在させていったのだと、今は思う。

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